第11話 邂逅
第11話 邂逅
二一八号室前まで辿り着いた坂本陽輔は、針金のようなものをドアノブの鍵穴に差し込みました。
僅か三十秒間ぐらいでしょうか、簡単に鍵は開いたのです。特殊部隊で仕込まれた芸のひとつでした。
ノックなどしても室内の人間に警戒されるだけです。
非常ベルとともに場内アナウンスで「絶対に部屋のドアを開かないように」と呼びかけられたばかりでした。
こちらから強引に押し込みでもしない限り接触は不可能だったのでございます。
チェーンロックされていると面倒でしたが、ドアは簡単に開きました。
坂本は音も無く室内に忍び込みます。
襖は開いており、畳の上には丁寧に敷かれた布団が二つ。
洗面所やトイレを調べましたが、人の気配はまったくありません。
置かれた荷物を調べるとすべて女物です。女だけでの旅行だったのでしょう。
(非常ベルに驚いて逃げたか……)
妙な話だが坂本はほっとしておりました。
標的として女性を選ぶことに抵抗があったからです。
荷物の中に財布がひとつ。
普通貴重品は金庫に閉まっておくものです。随分と不用心な客だなと思いながら坂本は財布を手に取りました。それだけ慌てていたのかのかもしれません。
どちらにせよここから出て、生き残っている可能性はゼロに等しいでしょう。
運転免許所には「石和麻由希」と記されておりました。
(神奈川か……)
途端に東京に住む妹のことが気にかかりました。
事前に事態の対処法を伝えたのですが、まるで相手にしてもらえませんでした。
今頃はTVのリポーターとして現場に赴いていることでしょう。どんな困難にも果敢に立ち向かっていく性格が仇とならないことを坂本は願いました。
作戦中に身内と連絡を取り合うことはタブーになっております。
もちろん、そんなルールがあろうがなかろうが、どちらにせよ混線していて電話の連絡はつかなかったでしょうが。
坂本は冷蔵庫からペットボトルをひとつ取り出し口にしました。
緊張がほぐれ、これまで溜まっていた疲労に一気に襲われたのです。
タバコに火を付ける間もなく、坂本は死んだように眠りにつきました。
作戦中、一週間寝ずに任務に就いたことがある坂本でしたが、この時ばかりは別でした。
おそらくは抗ウイルス薬の副作用だったと思われます。
再び目を開いたのは午前十時ごろ。
坂本は三時間ほど眠ってしまったのかと己の不覚を恥じましたが、実は九月二十九日の午前十時であり、二日間以上も意識を失い続けていたことを知って愕然としました。
慌てて洗面所に向かい自分の顔を確認します。
両目とも充血はしていたが異変はありません。歯並びも問題なし。心臓の鼓動は聞こえてきます。落ち着いて自分の名前やここに来た目的を反芻してみましあたが、淀みなくすべての答えが出てきます。
症状は進行してはいないようでした。
もしかしたら抗ウイルス薬の効果があって、完治しているのかもしれません。
ただ、肌だけがガサガサになっておりました。
身体中の皮がめくれ床が白くなっています。
これも薬の副作用なのでしょうか。
この時の坂本には確かめようもない話でございました。
ただちに坂本は行動を起こします。
廊下の様子を窺い、スルリと隣の部屋のドアにすり寄ります。
針金をドアノブに入れると、違和感がありました。
(鍵がかかっていない……)
ドアを開き室内へ。
異臭が鼻につきます。
長年軍事作戦に関与してきた坂本には実際に目にしなくても見える景色がありました。
(これは死臭だな)
襖が閉じられています。
その向こうに人の動く気配がありました。
(感染者か……)
チッ、と舌打ちをひとつ。
躊躇うことも無く襖を開き、どっと踏み込みます。
室内には歩き回っている男がひとり。
ひとつ敷かれた布団に横たわっている女がひとり。
一瞬、死臭の元がわかりませんでしたが、よく見ると女の方からでした。
男の方は坂本の突然の登場に驚いた顔をして立ち止まります。
「誰だ……あんた……」
男からは唸り声ではなく人間の言葉が発せられました。感染はしていない様子です。
一方、布団に横たわって死んでいる女は首元に締められた跡がありました。相当な力で絞められたのでしょう。傍によって調べてみると首の骨が折れていました
。
「お前がやったのか?」
坂本が男にゆっくりと尋ねました。
男は眉をひそめ、
「あんた山岡か?麻由希はどうした?五階の露天風呂に麻由希はいたはずだ。一緒じゃないのか?」
(麻由希……隣の部屋の荷物の主の名前だな。この遺体の女はその連れか……)
坂本は立ち上がり男に近づきます。
「あいにくとそんな名前ではない。麻由希という女も知らん」
「違うのか……」
そうつぶやくと、男はがっくりとうなだれました。
「俺の名前は坂本だ。お前の名前は?」
「高橋、高橋守だ」
「この女は?」
坂本が指さすと高橋はつまらなそうにそちらを見て、
「いきなり怒鳴り込んできやがった。俺の事を虫けらのように言いやがるから首を絞めてやったんだ。大方、俺と麻由希の仲を裂こうとするやつらの一味だよ。死んで二日経つ。死んで当然のようなやつらさ」
坂本は話が理解できず、
「で、麻由希という女は五階に居るのか?」
「ああ。部屋を出てから五十時間以上経っているがな」
「お前との関係は?」
「恋人だ。永遠に一緒にいると誓い合った仲だ」
であれば、別々な部屋をとっていることがどうにも腑に落ちないのですが、
、
「ならどうして助けにいかないんだ?こんなところで泣き寝入りか」
「手配はした」
「手配?」
「麻由希を救出するためにたくさんの人間が五階に向かったんだ。俺はここでその指揮をしている。誰かが中心にいないと集団はまとまらない。だからここで俺はずっと辛抱して朗報を待っている」
身勝手な自己中心的な男だ。
坂本の高橋に対する感想はその程度でございました。
そのとき、部屋にあった内線が鳴ったのです。
「またあの女か……面倒くさい奴だな」
高橋がぶつぶつ言いながら受話器を取ります。
「あんたにだ」
ぶっきらぼうにそう言うと、受話器を坂本に押し付けました。
坂本はそれを受け取り、
「坂本だ。そちらは?」
「お元気そうですね坂本さん。沖田です。沖田春香」
受話器を通して場違いな明るい声が聞こえてきた。
「どうしてここに俺がいるとわかった?」
「言ったでしょ。薬の効果を見るためにずっと観察させてもらうと。カプセルにセンサーが埋め込まれていて坂本さんがどこにいるのか一目瞭然なんです。健康状態もこちらのPCでモニタリングさせていただいています。この二日間はかなりやばい状態でしたが回復していますね」
「そうか……追跡装置が付いていたのか……」
沖田があの時、簡単に標的である坂本を解放したのでおかしいとは思っておりましたが、常にモニタリングされているとは考えていませんでした。
「説明不足ですみません」
「構わんよ。お前たちの部屋はどこだ?あのドラ猫はどうだ。おとなしくしているのか?」
「え……ええと……僕たちは九階に大人しく避難してますが……ええと……」
急に沖田のしゃべりがたどたどしくなりました。
すると隣にいたのだろう桂剛志が受話器を替わり、
「お前を追って逃げたよ」
「なんだって!?桂、それはいつの話だ?」
「お前が行ってすぐだよ」
(であればもう二日以上経過している……。なぜ?)
「なぜ逃がした桂!お前が付いていて素人が逃げられるわけはないだろう。わざとだな……わざと逃がしたのか?なぜだ……そこに置いておけなかったのか?」
自分で言っていて不吉な予感がしました。
「そうだよ。お前の予想はあたっている。あの娘は感染していた。おそらく春香に出会う直前に感染者に接触した時だな。爪で腕の皮膚を傷つけられていた。膝の怪我に気を取られて本人も気づいていなかったようだ」
坂本はそれを聞くと頭を抱えました。
「残念だが諦めろ」
「沖田春香に替われ。聞きたいことがある」
桂はやや閉口した感じであったが、しばらくして沖田が電話口に出ました。
「お前らのことだ、翔子にも抗ウイルス薬を飲ませてモニタリングしているんだろ?」
「うーん……坂本さんには敵わないな……」
「今、あの子はどこにいる?」
「困ったなあ……」
「困ってないで早く教えろ」
「だって、坂本さんが死んだら僕は任務遂行できないんですよ。できればそこに居ていただきたいんですが」
「早く教えろ!!」
坂本の怒鳴り声に隣にいた高橋までも驚いてのけぞりました。
「わかりましたよ……えーと……五階の露天風呂の脱衣室ですね。そこからだとかなり距離があります。危ないからやめておいたほうがいいと思いますよ」
沖田が喋り終わった頃にはもうこの部屋からは坂本も高橋も姿を消していたのでございます。




