第9話 残りのカラー
第9話 残りのカラー
二千十六年九月二十七日早朝。
任務遂行者として最も重要な任務を帯びている坂本陽輔は、二階のレストラン厨房に訪れておりました。
ここには生存者が二名、料理長の男性と従業員の李という女性です。
実はこの李が任務遂行者のひとりでございました。
料理長の男は青ざめた表情を取り繕うこともなく、しきりにドアの向こうの様子を聞き耳をたてて窺っております。
傍目から見ていると、その光景は怯えたネズミのように坂本には映りました。
「いつまでここに居るのかしら?いい加減に諦めて他を当たったらどう?」
流暢な日本語だが、どこかアクセントが異なります。名前からしても中国国籍であることは疑いようもありません。
しかし、日本政府が起死回生で打ったこの軍事作戦に、はたして国外の人間を介入させるのでしょうか。
作戦を妨害するスパイである可能性が明らかに高いと、坂本は考えています。
「あまり長居すると本当にここを脱出できなくなるわよ。それとも命が惜しくなって任務を放棄したのかしら?」
李の挑発的な台詞はひっきりなしに続きます。
それを受け流すように坂本は作業台前の椅子に腰かけ、のんびりと煙草を吸っておりました。時折、顎の無精ひげを撫ぜ回します。思案している時の坂本の癖でした。
自分の任務遂行の舞台は整っています。坂本の思い描いていた被験者にこの料理長の男はぴったりでした。
問題はこの女です。
本当に任務遂行者のメンバーであれば、規定上確かにその妨害は許されません。
坂本は新たな対象を探し出さねばならなくなります。
しかし仮にこの女がスパイであれば、殺してしまえば済む話でした。
ただ、困ったことに見極める手段が無いのです。
坂本のカラーがレッド。
桂剛志がオレンジ。
沖田春香がグリーン。
李は自らのカラーをイエローと話していたから今のところ誰とも重複はしておりません。冒頭から自分のカラーを言い出してくるということは信憑性が高いとも言えます。
(イエローの任務遂行者を殺害してなりすましている可能性もある……)
なにせ坂本には「時は金なり」の事態なのです。
悠長に構えている時間はありません。
そうこう思いを巡らせているうちに料理長の男はいよいよ追い込まれていった様子で、携帯電話をしきりにいじるようになりました。
「どうして繋がらないんだ!」とか、
「警察はどうした!軍はどうなっている!」
などと周囲を憚らず大きな声を出すようにもなってきました。
「やつらにやられる前に気が狂うんじゃないのか?お前の大切な相棒は」
坂本の皮肉に冷たい視線を送りながらも李は椅子に腰かけじっとしております。確保した生存者に対し励ますつもりはないようでした。
「精神状態がどうなのかなんてどうでもいい話よ。要は感染していない人間がひとりいればいい。だいたい、初めから引き受けたくて引き受けた仕事じゃない」
妖艶な太ももを組み換えながら李はそう言いました。
坂本は目のやり場に困窮しながら、
「随分前から潜入している感じだな。いつからだ?」
「半年前よ。生存者の確保のためにはここの地理に明るくなっておく必要があったから」
「それだけの理由で半年も前からか……」
通常だと考えられない話です。
しかし、このNO.六六六地点は最も力を入れている実験場なのでありえない話でもありません。確かに総司令たる沖田将補は用意周到な男です。
それにしては仕事を任せる相手の素性が怪しすぎるとも言えました。
「なぜ受けた?」
「あら。随分と私に興味があるようね。なんだったら作戦が終了した後でお付き合いしてあげてもいいわよ。私の邪魔をしないんだったら」
「ちゃかさないで答えてもらおう」
「答えなかったら?」
坂本はそれに返答する代わりにふーっと煙を上空に吐きました。
「殺す?どうかしら、あなたにそれができるの?女性には手をかけられないんじゃないくて?中京工業地帯みたいに……」
坂本の顔色がさっと変わりました。
軍の中でも坂本についてそこまで詳細に知っている者は少ないのです。
「父に聞いたのよ……。同時に、あなたがいかに優れた兵士なのかも耳にたこができるぐらい聞かされたわ」
「父?」
「沖田勝郎よ」
「沖田将補に娘さんがいたのか!?聞いたことが無いぞ」
「ええ、そうでしょうね。私の母は中国の諜報員だったから。公には決してできない話よ」
そう言って李は寂しそうに微笑みました。
笑った顔は確かに沖田将補に似ています。先ほどまで会っていた沖田春香にも。
「なぜ受けたか聞いたわね。絆よ。親子の絆を取り戻すために参加したの」
その後、さらに数時間が経過して、料理長の男が急に提案を始めました。
「よし、受付の内線用の電話をとってこよう。ケーブルごと持ってくればここでも繋げる。いい考えだ」
最初にここに入った時から坂本は気づいておりました。この厨房内には内線用の電話が無いことに。おそらく事前に李が外しておいたのでしょう。外から隔離してひたすらここに閉じこめておく作戦だったに違いありません。
提案はしたものの料理長自らが動こうとする気配はありませんでした。
期待を込めた目で坂本と李を交互に見つめております。
李は坂本だけに聞こえる声で、
「やれそう?」
「いいのか?」
「ええ。そうでもしないとこの男は何しだすかわからないわ」
「なぜこんなのを標的に?」
ここで李はひとつため息をついて、
「わからない?厨房で感染を免れたのはこの男だけよ。この男は事前に知っていたの。どの具材にウイルスが混入されているのかを。だから自分ひとり生き残っている。カラーレッドの任務の対象としてはピッタリでしょ?この男は罰を受けるべき人間よ」
「それで補充員に指名したわけか。随分と正義感が強いな」
「あなたほどじゃないわ。それよりよくこんな任務を受けたわね。あなたはむしろ妨害する側に回るかと思っていたわ」
「名誉挽回のためだ……」
「名誉挽回?」
李がクスリと笑いました。
「あなた本当に幸せな人ね。信じて人を疑わない」
「どういうことだ」
「はめられたのよあなた。中京工業地帯の件もこのための布石。あなたを巻き込むための罠」
「まさか……そんな……」
「父も国もこの作戦で成果をあげるためならなんでもする。何でも利用する。あなたは少し評価されすぎたのね。だから歯車の中心にガッチリはめ込まれた」
坂本は言葉を失いました。
確かにこうでもなければこんな馬鹿げた作戦に参加する義理はありません。
「……」
坂本はそっと頬の傷口に触れました。
何のために命をかけていたのかを自答します。
(日本国民の大半を切り捨てるようなこの作戦で俺は何を得るつもりだったのか)
「あら、任務を放棄する気にでもなった?」
「まさか。一端受けた任務は死んでも遂行する」
「そう?」
「遂行してから先は俺の自由だ。俺の好きにやらせてもらう。例えこの作戦が水泡に帰すような結果になってもだ」
「気が合うわね。私もよ。作戦が終了したら二人っきりで逢いたいわ」
坂本は苦笑いを浮かべた後、自らの頬の傷を指さして、
「悪いが、感染していても付き合ってくれるのか?」
それを見つめて今度は李が言葉を失いました。
「よし、それじゃあ俺が電話を取りに行こう」
坂本は立ち上がり、ドアの方へと進みます。
料理長は歓喜の表情でそれを迎えました。
一度来た道です。渡れないはずがありません。電話を取って戻り次第この場所を去って他を探す。生存者はまだ他にもいるはずです。
「私のヘルプは必要ない?」
李が気持ちを切り替えてそう尋ねてきました。
その瞳にはやや憐みのような光がありました。
「ない。と、言いたいところだが、捌ききれない。陽動を頼む」
「ラジャー」
室内の電気を消し、静かにドアを開きます。
低い唸り声が幾つも聞えてきました。
「幸運を」
背後で僅かな李の声を聞いた後、坂本はゆっくりと進んでいきました。




