第3話 スタンバイ
第3話 スタンバイ
任務遂行者のひとりである坂本陽輔は、家出少女の久門翔子と出会いました。
これはまさに運命の出会いでしたが、当時の坂本には知る由もありません。
それよりも彼が気にしていたのは、作戦開始の時刻が近づいてきていることです。
早いことこの少女を部屋に軟禁して、自分は任務遂行の準備をしていかなければなりません。頭にあるのはそれだけでした。
フロントで教えられた七階にあるバーは思ったよりも狭い作りでした。
皮のソファーが幾つもあり、その前にはガラスのテーブル。ボックス席が三つにカウンターに席が五つ。
ボックスの席は陽気に飲んだくれている若者の集団が占拠しております。
カウンターには客は誰もいません。
この店をひとりで切り盛りしているのであろう女性店員がその奥に立ってこちらを迎えてくれました。
「いらっしゃいませ。あら、可愛いお嬢さんね。こちらはお父様かしら?」
歳は二十台前半でしょうか。明るい笑顔で気さくに話しかけてきます。
翔子も親しみをもって満面の笑みで応えました。
「よくそう言われるんですけど、実は兄なんです」
「あら、ごめんなさいね。兄妹で温泉旅行なんて珍しいわ」
そう言ってつまみと水を出してくれました。
翔子は早速メニューを開いて品定め開始。
ボックス席からは男たちの馬鹿笑いが響いてきます。大学生らしい男たちが八名。その中に明らかに三十台と思われる女性がひとり。
「お兄ちゃんは何を食べる?」
そう言って翔子がメニューを手渡してきました。
学校で演劇部にでも入っているのかと思うほどの自然なやり取り。とてもついさっき初めて出会った関係とは思えないほどでございます。
坂本は、たいしたガキだと内心舌を巻き、さらに警戒を強めます。
「俺は軽いもんでいい。それよりスナック系の食料と飲料水のペットボトルを十本くれ」
坂本の注文に店員も目を丸めて、
「一週間ぐらい部屋に閉じこもるつもり?」
と、翔子に小声で話しかけるとうんざりした顔で頷きながら、
「そう。冬眠の準備よ」
冗談交じりに答えました。
やがて馬鹿騒ぎしていた連中が店を出ていきました。
店員はその後片づけに動き回っています。
翔子はおいしそうに出されたカレーライスを口にしていました。
坂本は腕時計に目をやります。
「ねえ、何で出された水を飲んじゃダメって言ったの?お店のひとに失礼じゃない?」
口いっぱいにカレーを頬張りながら翔子がそう話しかけてきました。
坂本は無視です。
「あのさ、こんな事言うと気を悪くするかもしれないけど」
翔子が言いにくそうな表情で坂本を見つめてきました。
「何だ?」
「お兄ちゃんさあ……やっぱりいい」
「何だ?」
「怒るでしょ?」
言わない方が怒るぞと翔子を睨みつけました。
翔子は深呼吸をひとつして、覚悟を固め、
「お兄ちゃん、もてないでしょ?」
絶句。
「何だって?」
「いや、だからさ、お兄ちゃんって女の人にもてないでしょって話」
「お前に何がわかる?」
怒りを堪えながら坂本は言葉を続けました。
「わかるわよ。私も女だもん。だってさ、せっかくの食事だっていうのにその暑苦しいコート着たまんまだし」
確かに黒のロングコートを脱いではいません。というより長居する予定が無いのです。
「ずっとしかめっ面でしょ。楽しい会話する気ゼロだし」
坂本は呆れて何も言い返せません。こんな北海道のど田舎まではるばる来て、何が悲しくて家出娘に説教されなきゃならないのか。
「じゃあ、わかった。私から楽しい会話をするわ。そうねえ、ここに二十三人のお客さんがいるとするでしょ。この中で同じ誕生日の人がいる確率は?」
「はあ?それのどこが楽しい会話なんだ?」
「いいから。早く答えてよ!」
全くガキの考えていることはよくわからないと思いながら、坂本は適当に、
「三百六十五分の二十三だろ。六%ぐらいじゃないのか」
「ブー!!!!残念。二十三人でできる二人ペアは二百五十三組よ。全ペアが別々の誕生日になる確率は五十%。つまり同じになる確率も五十%ってこと」
兄妹で会話が弾んでいると勘違いしているのか、女性店員が微笑ましくこちらの様子を見守っていた。
「ああ、そう。それがどうした?」
「運命の出会いの確率は思ったより高いってことよ。どう?面白い問題でしょ?」
「俺の目下の問題は迷子のドラ猫をどうするかってことだ」
「あら。意外にユーモアある切り返しができるのね」
翔子はフフフと笑ってまたカレーを食べ始めた。
「いいか、この食料を持って部屋にいろ。誰が来ても、何が起きても部屋を開けるな。部屋を出るな。いいか?」
バーを出ると、坂本は命令口調で翔子にそう言い放ちました。こうなったら事態が収拾するまで、部屋でひとりで何日も籠ってもらうしかありません。
「わかったけど……お兄ちゃんはどうするの?」
「俺はしばらく散歩してから戻る。いや……戻らない」
「どっち?」
「どっちでもいい。お前はとにかく部屋にいろ。いいか、何が起きても勝手にうろつくなよ」
「一回言われたらわかるわよ。子どもじゃあるまいし」
お前は立派な子どもだ!と怒鳴り付けたかったが、言い返してくるのが目に見えていたので坂本は堪えました。
とりあえず九階のチェックインした部屋に翔子を向かわせ、ようやく坂本は一息をついたのです。
時刻は九月二十六日、午前零時ちょうど。
作戦開始の時間でございました。
やつらについて坂本には予備知識があります。
実物はマダ目にはしていませんが、事前にその生態についての説明を受けておりました。
発症は、どのような経路を辿ろうが、九月二十六日零時ピッタリに一斉に起きること。
感染経路は不明。
日本の科学者たちは水の可能性が高いということでしたが、諜報員は某大国から大量に輸入している食物にウイルスが混入されているらしいということを熱弁していました。
どちらにしても日本政府はこのバイオテロに対し、事前の対抗の術を持っていなかったのです。
あるのは凄まじい数の犠牲者を出しながらも掴んだ情報のみ。
水際で食い止める手段もなく、最終的な決断は、
「発生はやむなし。その中から対抗策を見出せ」
でございました。
甚だ無責任な決定であり、かつ一般市民には無用な混乱を避けるため一切通知されておりません。
坂本は唯一東京に住む実の妹、こちらも祥子ですが、に事前に伝えることができました。
もちろん笑って相手にしてもらえませんでしたが。
やつらへの対応策も聞いております。
しかしどれも自分に当てはまるものがありませんでした。
一定の曲、メロディが効果的らしいということでしたが、坂本は音楽とは無縁の世界で生きてきました。鼻歌だって歌う気にはなれません。
銃はP239の九㎜自動拳銃を携帯してきていますが、使用には細心の注意が必要だと再三再四くどく言われました。
やつらは音に対して非常に敏感なのです。
人間の声、悲鳴だけでなく、エンジン音や銃声などにも反応するらしいということでした。あっという間に取り囲まれる危険性があります。
つまり余程の状況じゃない限り使用はできません。
匂いにも敏感らしく、特に血の匂いに関してはかなり遠くから嗅ぎつける嗅覚を持っているそうでございます。
傷を負うことは命取りだと説明を受けておりました。
やつらには記憶も自我もありません。
あるのは人間を食おうとする欲求だけです。
また感染力の強いウイルスを保有しており、接触するとたちまち感染するとのことでした。
自信があっても肉弾戦は避けるべきだと何度も念押しされました。
坂本の任務遂行はやつらの感染が広がってからの話でした。
まずはやつらの力がどれほどのものかを確認しておく必要があります。
坂本はこの時、自分の任務が困難なものだとは認識しておりませんでした。
むしろ容易すぎるぐらいだと高を括っていたのです。
そう、坂本は楽天的すぎたのでございます。
話はそう簡単ではないことを、彼は数時間後に身を持って知ることになります。
さて、それでは、いよいよ感染者たちの登場です。




