第2話 兄妹
第2話 兄妹
層雲峡の温泉街の一番奥まった場所にあるホテルの正面玄関前に坂本陽輔は立ちました。
地上十階、地下一階、客室百六十一部屋。
一階には大浴場があり、五階には露天風呂があります。
温泉街の中でも老舗のホテルでございました。
屋内の構図は事前に坂本の頭の中に叩きこんであります。
従業員数は五十八名。
日曜の夜ということもあり宿泊客は従業員の数よりも少ないと想定されました。
二千十六年九月二十五日午後十時。
チェックインには随分と遅い時間ではありましたが、慌てる必要は無りません。坂本に課せられた任務遂行は、ある程度事態が進行してからでなければ始まらないからでございます。
正面玄関の自動ドアが開くとロビーが広がっておりました。
左手にフロント、正面にはエレベーター、右手はお土産屋などが軒を連ね、その先に大浴場があります。
坂本の予想通り人気はまるでありません。
と、背後の自動ドアが開き、高い音の足音と共に誰かが坂本の腰にしがみついてきました。
反射的にその右手をとり捻ります。細い腕でした。
「い、痛たたたた!」
よく見ると、坂本の胸までの身長ほどの少女が顔を歪めておりました。
記憶を辿りましたが、まるで見覚えがありません。
「誰だ?」
坂本は力を緩めずに尋問します。
少女は苦しそうな顔を坂本の方へ向けて哀願しました。
「お、お願いがあるの」
「何だ?」
「ちょ、ちょっと手を離してもらえる……折れちゃうよ!」
坂本はようやく力を抜いて少女を解放しました。
少女は右手首の関節をぐるぐると回しながら、
「いたいけな少女に乱暴すぎるんじゃない!?」
キッと坂本を睨みつけました。
そのとき、坂本はデジャブのような感覚に襲われました。
何度も見た光景。
ショートカットの少女が妹に瓜二つに見えたのです。
勝気な性格で、十歳以上も歳の差がある兄の坂本によく意見してきました。
しかし、妹はもう二十六歳です。東京でテレビ局のアナウンサーの職についています。
こんな風にしがみついて来て文句を言っていたのはもう十年以上も昔の話でした。
何も言い返してこない坂本に少女が近寄っていきます。
「あのさ。悪いんだけど……私も一緒に泊めてもらえないかな……もちろん、タダとは言わないからさ。いいでしょ、オジサン」
少女の言葉に坂本はさらに言葉を失った。
と、言うよりも意味がよく掴めなかったのです。
少女は白いシャツの隙間から胸の谷間があえて見えるように坂本の眼下に詰め寄ってきました。
どう見ても子供の身体でした。
発育途中もいいところです。女の色気のいの字も感じられません。
小学六年生ぐらいでしょうか。
「ねえ。いいでしょ」
「親はどこにいる」
ようやく正常な思考回路を取り戻した坂本が、声のトーンを落として話しかけた。
少女は何を白けること言っているんだと言わんばかりの表情で、
「ここにはいないわ。正式に言うと半径二百五十㎞圏内にはいない」
「どんな理由があるが知らんが、家出娘に係わっている暇はない」
坂本がきっぱりそう言ってフロントへ向かおうとすると、慌てて少女がその前に立ちはだかりました。当てが外れて驚いているようにも見えます。
「待って。ちょっと待ってよ。私の歳じゃひとりでチェックイン出来ないのよ」
「だろうな」
「だ、だろうなって……。こんな真夜中に野宿しろとでも?凍え死ぬわ……もしくは襲われて死ぬより悲惨な目に合うのよ」
「それがわかってるんだったら警察でも呼んで保護してもらうべきだろうな」
「この歳の少女が決死の思いで家を出た理由も聞かないの?」
「興味が無い。大方、スマホでも没収された腹いせだろう?」
「そんな訳ないでしょ!!そんな理由で札幌からここまでひとりで逃げてくると思う?」
「何度も言うが興味が無い。事情は警察にでも相談するんだな」
「捕まったらまたあの家に連れ戻されるわ……そしてひどい目にあう……見てよこの傷!」
少女がシャツの右腕をまくり上げると、痛ましい傷跡が顔をのぞかせました。
火傷の跡です。
坂本は特殊部隊の訓練で拷問についても知識が豊富でした。おそらくタバコの火を強引に押し付けられた跡だと判断しました。
家で親か兄弟かにDVを受けているに違いありません。多少哀れに思いましたが、自分には関係の無いことです。
大事な任務が始まる前に厄介ごとを抱える気など、坂本には毛頭ありませんでした。
坂本は少女の肩に手をやってから、何も言わずに通り過ぎました。
途端に背後で少女が泣き始めたのです。
「助けてよ……。ねえ!助けてよ……」
フロントに立つ従業員が不審な目でこちらを見つめています。
明らかに坂本を疑っている表情でした。
警察に通報されて素性などを調べられると困るのは坂本自身でした。なにせ中京工業地帯でのミッションで失策してからというもの犯罪者扱いを受けているのです。
今、警察に介入されると作戦実行の大きな障害になりかねません。タイミングが悪すぎました。
坂本は苛立ちを隠すこともなく、振り返り少女の腕を掴みました。
「わかったから泣くな」
「一緒に泊めてくれるの?」
「ああ。そのかわり後悔するのはお前だぞ」
そんな坂本の脅しなど意にも介さず少女は満面の笑顔を見せて、
「ありがとう!!後悔はさせないわ」
そう言って走り出し、坂本よりも先にフロンへと向かっていきました。
坂本は頭を抱えましたが、仕方なくその後を追います。
「パパ、早く来て!!」
フロント前に立ち、少女が坂本にそう言って手招きします。
(パパだと……クソ……)
苦々しく舌打ちしながら坂本はフロントへ進みチェックインをしました。
フロントの人間は注意深く二人を眺めていたが、少女の無邪気な笑顔を見ているうちに疑いは晴れたようで、「ごゆっくりどうぞ」と送り出してくれました。
少女はお礼を言いながら部屋のキーを受け取ると、
「パパ、私お腹すいちゃったよ」
「食事処もルームサービスも終了してしまいましたが、七階のバーでは営業中ですので軽い食事はとれますよ」
フロントの人間がそうアドバイスをくれました。
「やったー!!じゃあ先にそっちに行こうよ。パパ」
少女は坂本の返事も聞かずにエレベーターへ向かいます。
「パパはやめろ、虫唾が走る」
エレベーターに乗り込むと坂本が少女にそう切り出しました。
少女は微笑みながら、
「あら。でも恋人ってわけにはいかないでしょ?淫行で捕まっちゃうよ」
「だったらせめて兄弟にしておけ」
「お兄ちゃんってこと?へー……私、ずっと兄弟が欲しかったからいいよ」
そう言ってまた坂本の腕にまとわりついてきます。
いちいち仕草が実の妹に似ておりました。
「お前は幾つなんだ?小学生か?」
「ひどいなー。中学三年生のレディーを捕まえて小学生って」
「お前、中学三年なのか?」
まあ小学生でも中学生でも坂本にとっては大した違いはありません。
どちらにしてもガキなのです。
「そのお前っていう呼び方やめてくれない。私は翔子。久門翔子っていう名前があるの」
翔子……名前まで妹の坂本祥子と同じでした。
こんな偶然があるのでしょうか。
坂本はここに至って、この少女を警戒し始めたのです。
他の任務を持つカラーならばそう問題はありませんが、作戦を妨害する他国のスパイならば別です。坂本の性格を読み取って妹によく似た少女を送り込んできた可能性もあります。
しかし、どこからどう見ても正真正銘に子ども。
とてもスパイとしての訓練を受けているようには見えません。
いや、それが向こうの作戦なのかもしれないのです。
「翔子って呼んでね!お兄ちゃん!」
坂本は苦虫を噛み潰したような表情で止まったエレベーターを出て、七階のフロアに先に立ちました。
時刻は間もなく九月二十六日、午前零時になろうとしておりました。
 




