2章 終幕
第15話
お待たせいたしました。
二千十六年九月段階の世界の人口は約七十四億人。
一分間に約百四十人増加し、一日に二十万人増加するペースでございました。
人間は国の存続、文明の維持のため様々な資源を必要とします。
国々は四十六億年かけて蓄えてきた地球の豊富とは言い難い資源の奪い合いに日々明け暮れておりました。
食料や水、領土はもちろんのこと、石炭、鉄鉱石、天然ガス、原油、レアメタル……。
BRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国)などの資源豊かな新興国が「資源ナショナリズム」を唱えて台頭を始め、世界をリードしてきたG7(日本・ドイツ・英国・フランス・イタリア・アメリカ合衆国・カナダ)などの先進国は影響力を失い始め焦燥感にかられておりました。
未だ原油に依存する文明は続いていてイランを筆頭に西アジアのOPECが大きな力を握っておりましたし、六億人を有する東南アジアのASEANもインドネシア中心に人材の育成、技術の導入に力を注ぎ他勢力に追いつく勢いでございました。
地球の環境に優しい資源を……というお題目とは別に、新しい資源、新しい開発がどこの勢力にも急務だったのです。
例えば自動車。ガソリンだけではなく走行時に蓄えた電力も活用できるハイブリットエンジンの開発。完全に電気だけで動く電気自動車。水素で動く車も実用化されつつありました。
人類が原油依存から切り離されることで西側諸国は大きく力を削がれることになります。
もちろん膨大な電力の供給自体にも問題があり、日本国内でも電力の取り合いになっておりましたが……。
新しい開発は、別の資源奪取の闘争を呼び、また別の国が力をつけていく構図でございました。
畑やそこから生産される食料または労働力を奪い合って戦争を繰り返してきた二千年前と人類のあり方はそう大きく変わってはいないのかもしれません。
さて、層雲峡脱出編のお話も最後になりました。
二千十六年九月三十日 午前四時ごろ。
あと数刻で夜が明けます。
私と妻はついにホテル一階から外へと飛び出しました。
暗闇はどこまでも続き、目前の柱状節理の山々がさらに黒く大きくそびえております。
異臭が激しく鼻をつきました。
風は巻いており、強く吹きつける風の音の中に幾つもの唸り声が混じっておりました。
窓から飛び出した私たちの着地は実に無様なものだったと思います。闇のために距離が測れなかったのが大きな原因でございます。着地の衝撃で私も妻も思わず呻き声をあげたほどです。やつらの注目を浴びたのは火を見るより明らかでした。
ピッピピ!!
私はズボンから車のキーを取り出しスターターのスイッチを押します。
右前方約二百m地点で車のライトが一度光り、エンジンが勢いよくかかりました。やつらの注意がそちらにそれます。
私と妻は態勢を立て直し、壁際を右へと進みました。
闇の中、やつらと鉢合わせになったらそこで終わりです。
運を天に任せ息を飲んで進みます。
妻は私の右腕に力いっぱいしがみついておりました。
私はそこに静かに妻の携帯電話を置きました。
当初の計画では私のスマートフォンでしたが充電が切れてしまっていたのです。
アラームは二十分後に鳴る仕掛けでございました。
私たちはさらに右手に歩みを進めます。
声は出せません。
時折砂利のようなものを踏んで音がすると心臓が止まるほどでございました。
この風がなければ私たちは匂いで風下のやつらにすぐに気が付かれていたと思います。幸運にも山から吹きつけホテルに当たって巻き上がる風が私たちの居場所を特定させませんでした。
今思えば「カムイミンタラ」の神々のご加護があったのかもしれません。
数分後、私の車のエンジン音は止まりました。
しばらくすればやつらの注意も分散されるはずでございます。
ここで私たちは歩みを車が並ぶ方向へと転換します。
唸り声が近くに感じました。
妻は嗚咽するのを必死で堪えている様子でございます。
私も膝の震えを止めることができません。妻を守るという明確な目的が無ければその場にうずくまっていたかもしれません。
私たちは気づくと大型の車と車の間まで達していました。
麻雀をしない方には伝わらないかもしれませんが、「嵌張」を待っていて一発で自摸ってきたような感触と確率です。分りにくくて申し訳ありません。とにかく偶然ではありますが、思うような状況を作れたのでございます。
ちょうど背後でアラームの音が鳴り響きました。
音が意外に近いことに不安になりましたが、これでさらにやつらを陽動できます。私の車周辺のやつらも誘いにのるはずです。
私たちはゆっくりと車を確かめながら進みます。
右手は土手になっていて落ちると川です。こちらへの用心も忘れてはいけません。
数台後に私たちは目標の自家用車に辿り着きました。
この間、私たちは一度もやつらと接触しなかったのです。
一生分のツキを使い果たした気がいたしました。(なぜやつらが私たちに接触できなかったのはかなり後に知りましたが……)
ドアを静かに開き車に乗り込みます。
シートに背を付けると安堵感と充実感で、身体全身の力が抜けていくのが分りました。
妻も同様の様子でぐったりとしています。
私は運転席と助手席の間にあるパネルのボタンをひとつ押しました。
これであとは夜が明けるのを待つのみです。
午前五時をまわった頃、ようやく空が明るくなってきました。
ライトを点灯しなくても走行できる状態が近づいてきたのです。
気が付くとホテルの上階は火の海です。
お陰でやつらの姿も目視できるようになりました。二十人ほどが散らばって彷徨っております。後はこの間を気付かれずに車を進ませるだけでございます。
通常の車であればエンジン音で気づかれ囲まれてしまいます。
ですが私のハブリットカーは驚くほどの静粛性を備えておりました。バッテリーでの走行時はまるで音を発しません。真横に進めても通行人が気づかないほどでございました。
これが私の最後の切り札でございます。
まだ薄暗い今であればじっくり車を進めていくことで気づかれずここを脱出できます。
妻を助手席に伏せさせ、私自身もなるべく外から見えないように身をかがめます。
アクセルをゆっくりと踏み、車を静かに発進させました。
時速にして一㎞ほどでしょうか。国道まで三百m。
計算上では20分もあれば到着できます。
しかし現実はそう計算通りにはいかないようです。
やつらは確かに車自体には興味をもっていませんでしたし(車のカラーがホワイトだったことも効果的だったようです)、音をたてていませんでしたので動いていることにも気づいてはいませんでした。
しかし、やつらは同じような場所をぐるぐる回っているのでございます。
少しでもやつらの身体に触れたら気づかれるという緊張感の中で思うように車を進めることができません。
幾度となく数分から数十分停車し続けなければなりませんでした。
ようやくホテルの正面玄関前まで到達したのが午前六時頃でございました。
目前を彷徨うやつらの数は三人ほど。
このまま一気にアクセルを踏んでやつらをはね飛ばして進むこともできます。
そうしたい心境に駆られました。
一刻も早くここから抜け出したい、この恐怖から逃れたい一心だったのです。
ですが私は人をはねた経験がございません。
どれほどの衝撃なのか、車がどれくらいのダメージを受けるのか未知数なのです。この距離で思い切りぶつかったとして車が動けなくなったらそれこそ終わりです。
ここは慎重に慎重を重ねるべきでございました。
もう少し粘れば何も失わずにここを脱出できるのですから。
私の気がかりはひとつだけ。
バッテリーエンジンの充電が切れかかっていることでございます。
おそらくこれが切れたらエンジンはガソリン仕様に切り替わり、音をたてることになるのです。走行中に充電できるのですが、今の状況では無理でございました。
残りを示すインジケータは一目盛り。
切れたら一か八かアクセルを踏む込みより他はありません。
ここにきて何ということでしょうか。
正面玄関前には一台の車が停まっており、すれ違うことがギリギリできるのですが、そこを行ったり来たりしているのが一人いて全く進むことが出来なくなったのです。
どこかに逸れてくれればいいのですが、いくら待っても測ったように同じ区域をゆっくりと歩んでおります。
時間だけが過ぎ去り、一向に突破口が見つかりません。
バッテリーの充電は限界に達しようとしておりました。
その時です。真横の正面玄関の自動ドアが開き、火災の煙の中に人影が立ちました。
僅かに頭をもたげて確認すると、血まみれで真っ黒になっている人間の姿が見えます。
「李さん……」
それは間違いなく彼女でございました。
大きな瞳が真っ直ぐに私を見つめております。
しかし周辺のやつらは彼女に襲い掛かろうとはしません。まるで興味が無いように彷徨い続けております。
彼女は悠然と歩きだし、私たちの車の目前にいる邪魔なひとりの頭に持っていたナイフをグサリと突き立てました。ぐらつき崩れ落ちます。脳にナイフを突き刺されてもそいつは何とか立ち上がろうともがいているのが見えました。
彼女が首を振って私に合図します。
私はゆっくりと車を進めました。
横たわった男の腕と脚を轢きながら車は進みます。
すれ違ったときの彼女が少しだけ微笑んでいたのが印象的でございました。
すると正面玄関がまた開き、凄い勢いで何かが彼女に襲い掛かりました。
それは彼女を引き倒し、首に噛りつきます。
鮮血が私の車の窓に飛び散ました。
憎しみを込めて彼女の首の肉を噛み千切り、何度もその頭をコンクリートの地面に叩きつけます。
高橋守でした。
彼はまだ生きていたのです。
李さんの血の匂いを嗅ぎつけて周辺のやつらが騒ぎ始めます。
あっという間に倒れている李さんに群がりました。
高橋はそんな状況には目もくれず私の車に迫って参ります。
国道前のやつらは李さんに吸い寄せられていて、目前のスペースは大きく空いていました。
私はスイッチをパワーモードに切り替えて、一気にアクセルを踏み込みます。
大きなエンジン音。
すると左前方から突然一人が飛び出してきて私の車と衝突します。
衝撃が首と腰に響きました。
車が右を向き、柱に運転席側のフロントミラーがぶつかり吹き飛びます。
私はハンドルを力づくできり、立て直そうと必死でした。
高橋が物凄い力で後部座席のガラスを拳で砕きます。
妻の悲鳴。
さらに右前方から二人が車の前に立ち塞がりました。
勢いが弱まったこの状況で二人をはね飛ばすことは不可能に思えましたが、私は目一杯アクセルを踏みました。
リアタイヤが滑って車の後部が横の柱にぶつかります。
ガーン!!!!
大きな銃声とともに二人が吹っ飛びました。
私は窓にしがみつく高橋を轢きずるように車を急発進させます。
そのままの勢いで国道に飛び出し、慌ててハンドルをきると、正面から大型のトラックがクラクションを鳴らしながら突っ込んできました。
紙一重でそれを避けるとさらに次々とトラックが通り過ぎていきます。
「や・ま・お・かああああ!!!!」
割れた後部座席のガラスから高橋が頭を突っ込んだ状態で叫びます。
その腕は助手席の妻の髪に届くほどでございました。
今度は向こうから戦車が走ってきます。
道の真ん中をどんどん進んでくるのです。
十台は連なっていたと思います。
留め置かれた無人の車を弾き飛ばして進んできます。
高橋が妻の髪を掴みました。
絶叫が車内に響き渡ります。
私は車ごとぶつかるつもりで戦車に近づきました。
助手席のドアが戦車のキャタピラにぶつかり悲鳴をあげます。
「うがああああああ!!!」
高橋は断末魔を残して戦車のキャタピラに巻き込まれ消えていきました。
国防軍による層雲峡一斉攻撃はこの六時間後に始まったと後に知りました。
軍の進軍のお陰で通行スペースの空いた国道を私は走りました。
私たちは家に帰るのです。
この地獄のような惨状から生きて脱出し。
旭川市がさらなる地獄であったとしても……。
これが私が層雲峡で体験した全てでございます。
私が体験を通して知ったやつらの生態や特徴がみなさまのお役に立つことを祈って止みません。そしていかなるときも諦めず最後まで希望を持って生き抜いてほしいと願います。
ここに犠牲者のみなさに哀悼の意を記し、終幕とさせていただきます。




