第14話
第14話
お待たせいたしました。
希望の象徴とされるものに「虹」という自然現象がございます。
太陽光と大気の中の水分が織りなす神秘。
色の認識は地域によって違うようですが、一般的には「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」の七色とされております。私もゴルフの最中によく目撃し感激していたものでございます。
神話の中でも虹は大きな意味を持ちます。
例えばスラブ神話では虹に触れると天界に昇り神の力を得ることができると言われております。
旧約聖書ではノアの大洪水の後に虹が現れます。
唯一神であるヤハエは二度と全ての生物を滅ぼさないという誓いとノアたちへの祝福の印として虹をかけたと言われております。
日本を創ったとされる古代神イザナギとイザナミは虹の橋を下りて地上に来たとも言われております。
人間と神を繋ぐ道。
何かが新しく誕生する兆し。
現代では「多様性」「共存」の象徴として広く親しまれてきたようでございます。
さて、層雲峡脱出編のお話を進めていきましょう。
一階のフロント控室に閉じ込められた私たちは、あろうことか生き残りのひとりが、狂人と避けてきた高橋守であることを知りました。
高橋は五階の脱衣室で感染した石和麻由希さんの肉を食らい変異していたのでございます。高橋はその効果のお陰でやつらに襲われることもなく、やつらのウイルスに侵されない身体を手に入れました。
私が手にしたスマートフォンから発する光の中を、高橋はゆっくりと歩み寄ってきます。
「さて、山岡。お前には伝えておいたはずだ。お前を殺す前に、愛するものを奪われる苦しみを与えてやるとな」
妻が後ずさりして私のもとに来ました。
武器など何もありませんでしたが、私は妻を背に隠して高橋と向き合います。
照らし出された高橋の表情は不気味なほど笑顔で、白い涎をダラダラと垂らしておりました。やつらと同じ症状です。
決定的に違うのは知恵があること、記憶が明確であること、自我を持っていることでしょうか。(勝手な私の分析ですが)
私は死を覚悟いたしました。
この期に及んで抗う術もございません。出来ることは妻のために戦って死ぬことぐらいでございました。決心と拳を固め高橋を待ちます。
と、駒田光が突如呪文のように何かを唱えました。
闇の中で彼の声だけが聞こえてきます。
「作戦名レインボー。ナンバー666、カラー紫アクセスの許可を求める。繰り返す。ナンバー666、カラーパープル、アクセスの許可を求める」
その声に反応して高橋は足を止めました。
ゆっくりと駒田の方を振り返ります。
ドスン!!
振り向いたその顔に駒田が何かを投げつけました。
大きな音をたてて投げつけられた物が床に落ちます。
苦悶の表情を浮かべ高橋も同じように床に倒れました。
私が浴びせるスポットライト中で信じられない光景が広がります。
妻が驚きの声を漏らしました。
「あーちゃん!!!」
駒田が高橋に投げつけた物は自らの「娘」でございました。
床に落ちて横たわったあーちゃんは、驚いた様子もなくこちらをただずっと見つめております。
「お前か山岡さんかどちらかだと思っていたが、そうか……お前だったか」
我が子を投げつけた駒田は努めて冷静にそう言い放ちました。
高橋は目を見開いて駒田を睨みつけます。
そんな視線を受けても駒田には全く動じる様子はありません。
「ここにきてようやく俺の単独任務か。長かったぜ」
「なんだお前は。娘を投げつけるとは……」
「別に娘じゃない。俺は子持ちでもなければ、所帯も持っていないからな。独身貴族だ。欲しけりゃやるよ」
妻があーちゃんに駆け寄ろうとするのを、私は必死に止めます。
傍には高橋がいるのです。
「さて山岡さん、俺の任務外の話だがこれも何かの縁だ。早く奥の部屋に行って外に脱出すればいい」
その言葉を聞いて高橋が笑い始めます。
「俺から逃げる?お前はよく理解できていないようだな。俺はやつらと同じ能力を持ったんだ。お前に何ができる?」
「よく理解できていないのはお前だよ。ドアの向こうの音が聞こえるか?」
言われて私はやつらのドアへの体当たりが止んでいることに気が付きました。
暗闇の中、ひんやりとしたドアに耳をつけて向こうの様子を窺います。
唸り声が聞こえました。やつらの声とは違う獣の鳴き声。
「熊……?」
私の言葉に駒田が頷きます。
高橋がハッとして、
「あの熊どもをお前が操っていたとでも言うのか?」
「それをお前が知る必要は無い。」
「何者なんだお前らは!!!」
高橋の怒声に対して駒田は倒れてピクリとも動かないあーちゃんを指さします。
私も妻も理解できずにその姿を見つめました。
「ハハハ。食ってみりゃわかる。人間の味はしないはずだ。ゴムの味かな……いや機械の味か……」
「何を意味のわからないことを!」
高橋が乱暴にあーちゃんを引っ張り上げました。
するとその可愛らしい口から機械的な音が発せられました。
「コードレインボー。ナンバー666、カラーインディゴ、アクセス中」
高橋が怒りに任せてその顔に食らいつこうとしたのと、大きな音が室内に響き渡ったのが同時でございました。
ガガガーガーン!!!
高橋は後ろに吹っ飛び、焦げ臭い匂いが室内に充満します。
照らすと駒田の右手には銃が握りしめられておりました。
「さあ、行け山岡さん。ここから逃げるチャンスはここしかないぞ」
「駒田さんは!?」
「あんた李っていう女の話をしていたな。俺はそいつを知らないが、まあ同じ穴のムジナだよ。俺には俺の使命がある。あんたには関係ない。行け!!」
駒田に促されるまま私は放心状態の妻を抱えて奥へ進みます。
すれ違う瞬間に駒田がポツリとこう言いました。
「旭川に戻ってどうしようもなくなったら知床を目指せ」
私は彼に感謝の言葉を述べると、ドアを開きます。
中に入るとまだ暗闇が続いておりました。
「待て山岡!!!!!」
ドアを閉めると、その向こうから高橋の大きな叫び声が聞こえてきます。
銃で何発も撃たれたはずです。
やつらと同じ身体になったということは死ぬことはないということなのでしょうか……。
室内は従業員のロッカー部屋のようです。
左手の壁に小さな窓がついております。開けば外に抜け出せそうです。
急いでそこに向かい窓を開きます。顔を出すと強烈な異臭が鼻をつきます。やつらです。
窓の向こうにはまだ十人以上いるのです。
銃声を聞きつけて建物に近づいていました。
しばらくはここから出ることはできません。
「グヴォー!!!!」
建物を揺るがす咆哮。
地響きのような足音。
ついに熊が隣の部屋に入り込んだようです。
高橋の狂乱じみた叫び声と雷のような熊の咆哮が入、り乱れて闇に響き渡ります。
私と妻は息を飲んでじっと潜みました。やつらが建物周辺から散らばる瞬間を待ちます。
やがてスマートフォンの電池が切れました。
私たちは真の闇に包まれます。
鍵をかったドアノブが何度も回される音がしましたが、その度にまた格闘する音や声が聞こえてきました。
私は震える妻の肩を抱きながら時が満ちるのをただひたすら待ちました。
何時間か過ぎた頃、隣の部屋がひっそりと静まり返りました。
おそらく日付は、脱出期限の九月三十日に突入していたと思います。
「やめとけし。向こうの部屋には行っちょ」
私が動こうとするのを妻が囁くような声を出して止めます。
駒田が勝ったのだとしたら私たちは助かりますが、もし高橋が生き残っているとしたら大変です。
ドアに耳をつけて様子を窺うと何かが動き回る音だけが聞こえてきます。
這いずるような音……。
それが熊なのか、高橋なのかは判断できません。
聞き慣れた低い唸り声は聞こえてきます。やつらは確実に向こうにいるのです。私はそっとドアを離れました。
闇に目が慣れたとはいえまだまだ足元がおぼつきません。
ガチャガチャ!!
乱暴にドアノブを回す音。
暗闇で確認できませんでしたが、この時妻は凍り付いたような表情をしていたことでしょう。
少なくとも私はそうでした。
「こ、駒田さん?」
私の小さな誰何の声など意にも介さないようにドアノブを回す音は続きます。
「トモ……」
心配そうな妻の私を呼ぶ声。
ドガン!!ドガン!!!
物凄い勢いで体当たりしてくる音が響きました。
躊躇している暇はありません。
私は窓へ急ぎます。
闇の中で何とか確認できた様子では外をうろつくやつらは分散しているようです。意を決してここを出るより選択肢がございません。
「俺が後に出る。先に行ってくれ」
震える妻を立たせ促しました。
外からも幾つも低い唸り声が聞こえてきます。
「無理、無理……」
妻が涙ながらにそう言って首を振ります。
窓は幾分高いところにありましたから、向こう側に着地した際に必ず音をたてることになります。気づかれたらおしまいです。妻は怯えて窓から下りることができずにいます。
逆にドアにぶち当たる音はどんどんと激しくなっておりました。
「ベートーベンの月光だよ。ハミングしながら下りるんだ。やつらは襲ってこない」
「はあ?」
「いいから。できるだろ?」
「そんなのしたことないから無理ずら。それにやつらに聞こえたら襲われるら!」
「わかった。大きな声を出すなよ。……OK、大丈夫だ。気づかれてもカモフラージュする方法がある。とにかく飛び降りろ」
それでも妻はなかなか外に出られません。
「早く!」
「言っちょ!!」
ドアがみしりと音をたて始めました。
私はしびれを切らし、妻を抱えたまま外へ飛び出します。
ドアが吹き飛んだ音が背後から聞こえてきました。
ホテルから外へ出るのは実に五日ぶりのことでございました。
冷たく強い夜風が吹き付けてきます。
私たちの着地の音はそんな強風の音にかき消されたのでしょうか……。
闇の中からやつらの興奮した唸り声が聞こえて参ります。
私の最後の賭けが始まりました。
この続きはまた次回とさせていただきます。
それでは一度失礼させていただきます。




