第13話
第13話
お待たせいたしました。
スマートフォンとは人類は実に画期的な発明をしたものでございます。その能力たるや多機能に及び、インストールできるアプリの種類はいったいどれほど存在するのか、二千十六年九月時点では実態が不明なほどでございました。
チャット形式のLINEではグループ化した集団でのやり取りが容易なうえ、タイムリーです。
情報の収集では災害情報や株価がこれも即実に手に入ります。
日本語を他国の言葉に翻訳する機能があったり、日本全国どこの地図も詳細に確認でき、なおかつ自分の位置をかなり正確にその地図上にマークできます。
何かに困ったらインターネットに繋ぎさえすれば必要な知識を得ることもでききるのです。
手のひらサイズの持ち運び可能なこのスマートフォンは、人類のここまでの進化の象徴とも言うべき存在でございました。
私の妻はそんな人類の発展の恩恵を受けるつもりが毛頭無く、未だにガラケーと呼ばれる携帯電話を使用しておりました。私が勧めても全く靡くことがございません。スマートフォンなど自分には使えるはずがない(機械オンチなのでございます)と頑なに拒否しております。
ここでも私たち夫婦の価値観はすれ違っておりました。
さて、層雲峡脱出編のお話を進めていきましょう。
私たちはホテルの脱出を試みて二階から一階へと下りました。
李さんに遠くへ誘導されていたはずのやつらはいつの間にかすぐ近くに迫っており、私たちは奇襲を受けたのでございます。
従業員の女性、老夫婦、茶髪の男と四人が命を落としました。
残ったメンバーは命からがら一階のフロント控室に籠城することになりました。
「煙が二階よりも少ないということは火の手はやはり上階のようだ」
やつらの突入の意思が弱まってきたところで、駒田光がそう私に話しかけてきました。
私は駒田と共にドアを押さえていましたが、頭の中は亡くなった人たちのことでいっぱいでございました。
あのピアノの音はやつらの行動を抑制するものだったはずです。
だとすればその隙に一階へと進むことがベターな選択でした。なまじ二階で待機させてしまったばかりに危険に晒すことになったのです。
「俺が二階でみんなを待たせたのが失敗だった……」
呻くように駒田がつぶやきます。
後悔は先に立たず……わずかな決断のミスが死に繋がることを改めて思い知らされました。
確かに決定したのは駒田でしたが、私は特定のメロディーがやつらに効果を発揮することを経験で知っていたのです。おそらくそれを知っていたのは私だけでございました。そのことを思い出していれば防ぐことのできたのです。
最終的には私の責任ということになります。
「さて、どうするか……」
ドアへの衝撃が感じられなくなったところで駒田が座り込み口を開きました。
私もその隣にうずくまるように座り込みます。
あーちゃんは妻の胸の中でまだ泣きじゃくっておりました。
利口だなと感じたのは声を出して泣いていないことです。必死に声は堪えております。これまでの経験で学んだのでしょう。
三歳の女の子でも経験から学習するのです。
それに比べて私は学んだことを実践に活用できませんでした。
罪悪感がまた募ります。
「トモ、窓から外に出られるら」
ブラインドで閉め切られていましたが確かに室内に窓がございました。他にも奥の部屋に繋がるドアがございます。外のやつらが茶髪の男に群がっている今が外に出るチャンスかもしれません。
私が外の様子を確認しようと立ち上がったそのときです。
「え!!?」
突然照明が消えました。
部屋が暗闇に飲み込まれます。
自分の手のひらすら確認できないほどの深い闇でございました。
「ヴェェェェェーン!!!パッパアアー!!」
堪らずあーちゃんが激しく声を出して泣き始めます。
途端に背後のドアから強烈な衝撃が伝わってきました。
大きな唸り声が折り重なって聞こえてきます。
妻が必死になだめている声が聞こえてきましたが、あーちゃんは堰を切ったように泣きわめき父親を求めております。即席の母親代わりでは太刀打ちできない状態です。
「大丈夫だ!パパはここだよ。そこにいなさい」
駒田がドアを支えながらそう叫びましたが、余計に泣き声は大きくなるばかりでした。それに比例するようにドアへの衝撃も強まっていきます。
「ライトは?ライトは誰か持っていないか!?」
駒田の声に反応して妻がライターの火をかざしましたが、わずかな距離を照らすだけです。
私は背中でドアを支えながら左手でスマートフォンを取り出しました。暗闇に画面が映し出されます。指でなぞり、懐中電灯のアプリを開きました。
ライターの数倍の強さの光が妻とあーちゃんを照らします。
「駒田さん、行ってくれ!」
「ドアが破れるぞ!!俺は動けん!!」
「奥にまだ部屋がある。あっちに隠れよう。あの子の傍に行って泣くのを止めてくれ。妻では無理だ……」
「わかった。」
駒田は光を頼りに妻とあーちゃんに方へ駆けました。
私の背後でドアがメキメキと音をたてています。
これ以上は耐えられそうもありません。
しかし駒田は娘を妻から受け取り抱えたまま動こうとはしないのです。
「早く奥へ!もう、もうもたないぞ!!」
私の叫びにも反応しません。
奥のドアの方を向いたまま硬直しているのでございます。
何をしているのかと奥を照らしました。
人影が映し出されます。
共にここへ逃げ込んだ寡黙な生存者が奥のドアの前に立ちふさがっております。表情を映し出すまでは光の力が足りません。
「こいつ……噛まれている……」
駒田の声。
しかし私からはその傷口は確認できません。
その男が左手を駒田の方にかざしている様子です。
「そう。もう十二時間以上前の話だけどね」
初めてその男が話す声を聞きました。
どこかで耳にした声。
どこだったでしょうか……。
「どうして、どうして普通でいられるんだ……。俺の友人は噛まれて二時間で発症したというのに……」
駒田は立ち尽くしたまま茫然としております。
男は微かですが声を出して笑いました。
父親に抱かれてあーちゃんの泣き声は止んでおりました。
「さあ……。自分でもよくわかんないね。五階の露天風呂の脱衣室で俺は確かに噛まれた。けれど愛する麻由希のお陰でこうして生きていられる」
信じられない名前が登場して私は呻きました。
この声の相手の正体がわかったのでございます。
私に恨みを持つ高橋守その人でございました。
「石和さんはその脱衣室で亡くなったはずだ……」
高橋は私の言葉に頷きながら、
「そうだ山岡。麻由希は、お前にたぶらかされて命を落とした……。俺はあいつの無残な姿をこの目で見たよ。脱衣室のトイレの中で皮を剥がされ、内臓を食い荒らされたあいつを発見した。鼻も耳も食いちぎられていたが、一目であいつだとわかったよ。あいつは動いていた。そんな姿になってもモゾモゾと足をもがれた虫のように這いまわっていた」
想像するのも恐ろしい光景でございました。
顔を背ける私に向かって高橋は話を続けました。
「俺はあの男から聞いていた。そんな麻由希を救う方法を……あいつと一心同体になれる方法を……」
あの男?
そう言えば李さんもあの男が動いたと話していたことを思い出しました。
誰のことなのでしょうか……。
「何をしたの?」
妻が恐る恐る尋ねます。
私にはその先が見えておりました。
この男ならそれを実行するかもしれないと。
「食ったよ。動き回る麻由希の身体を抑えつけて俺はあいつを食った。その肉を頬張り、血を啜った。俺の人生の中であんなにも興奮した瞬間は無かった!!あいつが俺の中に入ってくる感触があった。俺の身体のなかで動き回るあいつを感じた!!」
狂っている。
高橋はやつらの肉を食ったのだ。
「その後だ。背後からやつらに噛みつかれたのは。しかし、俺は……いや、俺と麻由希はやつらのウイルスに屈しなかった。俺たちは勝ったんだ!!俺たちはやつらを制した。時間が経つと俺たちを見てもやつらは襲ってこなくなった。俺たちは自由を手にした。やつらの中でも自由に動き回ることができるようになった。探したぞ山岡。いつでも殺せるチャンスがあったがここまでとっておいたんだ。大浴場のドアを開いてやつらを外に解放したのも俺だ。あのままやつらに襲わせるわけにはいかないんでね」
高橋は発症を抑えることに成功し、なおかつ効果的にやつらを対処できる術を身につけたのです。
やつらの肉を食うことによって……。
そんなことが可能なのでしょうか……。
高橋の言葉をそのまま信じるとしたら、それが可能なのでございます。
このフロントまで走ってきたとき、やつらは私と妻のすぐ後ろまで迫っておりました。掴まれる寸前だったのです。私の後ろにいたこの男が襲われていないはずがありません。状況的にはやつらの中を走っていたことになります。
逃げ込んだ後に感じた違和感はこれでした。
このときになってそれに気がついたのです。
「今日は、俺と麻由希の結婚式なんだよ。この日を互いに待ちわびていた。これで俺たちは永遠に結ばれることとなった。さあ山岡、宴の始まりだぞ。お前も、お前の愛する妻もこの宴のメインディッシュだ。俺はここまで必死に空腹を抑えてきた・・・。よだれを垂らすのをここまで我慢してきたんだ。骨までしゃぶってやる!!!あの時の麻由希のように無残な姿を晒すがいい!!!!」
怒声が暗闇の中に響き渡ります。
逃げ場はありません。
高橋がゆっくりと進み始めました。
窓の外の強い風が唸りをあげておりました。
私にはもはや打つ手がありません。
深い闇に全てが吸いつくされていく……そんな感触でございました。
この続きはまた次回とさせていただきます。
それでは一度失礼させていただきます。




