第12話
第12話
お待たせいたしました。
以前こちらにも記載させていただきましたが私と妻はB型でございます。
血液型でその人間の性質が決まるとは、私も思ってはおりませんが、確かに私も妻も自分の価値観というものを大切にしすぎる傾向にあります。
周囲との協調というものをないがしろにしてもそれを意固地に貫こうとするのでございます。
マイペースと言いましょうか、頑固と言いましょうか、どちらにしてもあまり好まれる性格ではございません。
ただ、ひとつのことにのめり込むその集中力や執着心は他の追随を許さぬものがあります。
B型はその加減が不器用なので自分勝手と思われがちのようです。そう思われてもたいして気にもしないのがB型なのでしょうが。
もちろん日頃の心がけと経験でいかようにもカバーができます。
私も職場では、同僚からも生徒からもA型だと思われておりました。細かい配慮を気にかけて仕事しているからでしょうか。B型だということが知れると非常に驚かれたものでございます。
私がB型の本性を隠さず開けっ広げにするのは妻の前だけでございました。
そしてより自分の世界に埋没するのは妻より私の方でございました。
さて、層雲峡脱出編のお話を進めていきましょう。
九月二十九日午後八時。
ホテル二階の一室に避難していた生存者たちに私の意見はほとんど耳を傾けてもらえませんでした。
火災を避けるために部屋を出ようと呼びかけたのは、駒田光という体格のいい男でございます。妻を含めたほとんどの人たちが彼の主張には同意した様子でした。
私に対して何かといちゃもんをつけてきた茶髪の若い男も従う様子です。
もう動けないという表情だった老夫婦も駒田の励ましに応えようと立ち上がりました。
「ゴメン、一服させてもらっていい?」
そう言って妻が洗面所に向かいます。
私はその後に続きます。確認しておかねばならないことがあります。
「トモも吸うけ?」
差し出されたタバコは日頃から妻が愛用している銘柄ではありませんでした。
「どうしたのこれ?」
「あーちゃんのパパに貰った」
「あーちゃん?」
「あの子の名前。あすみちゃんって言うからあーちゃんなの」
「ああ、そうなんだ」
妻が深く煙を吸い込んで吐き出します。
そしてポケットから何かを取り出し、私に見せました。
「何、これ?」
明らかに子どもの描いた絵でございます。人の顔だということは一目でわかりましたが、男か女なのかは判別できません。
「あーちゃんが描いてくれたさ。私の顔。上手くない?」
白い煙の中で妻が嬉しそうな笑顔を浮かべておりました。
私はなぜか胸が痛くなりましたが、表情には出さず、
「小屋には行かないよ」
「なんで?」
「車で旭川に帰るから」
「無理だって言ってたら」
やはり妻の思惑は私とずれ始めております。
彼らと接触したことが影響しているのです。
「大丈夫。方法があるから。あの人たちと一緒に行動するのはこのホテルを出るまでだから。覚えておいてよ」
なるべく優しい言葉を選んで話したつもりでしたが、どうにも一方的な命令口調になってしまいます。
妻はどちらともとれるような返事をし、
「あーちゃんのパパだけに危険な真似させちょ。トモもみんなを先導すれし」
言われなくともそのつもりです。
妻を守り、ここを脱出するのは私の使命なのですから。
彼に任せておくわけにはいきません。
駒田が慎重にドアを開き廊下の様子を窺っておりましたが、危険が無いことを確認すると荷物を持って出ていきました。
私も張り付くようにその後を追います。
「山岡さん、あんたは奥さんと一緒にしばらくしてから来ればいい」
そんな彼の言葉に私は首を振って答えます。
なるべく声は出さない方がいいぞと私は動作で伝えました。
駒田は素直に頷きます。
一階への道は廊下をこのまま進んで階段で下りるか、エレベーターで下りるかの二択でしたが、迷わず階段を選びました。
エレベーターのドアが開いた瞬間にやつらがいたら逃げようがありません。
そのまま警戒して廊下を進み続けます。
熊に喰われた残骸以外はやつらの姿はありませんでした。李さんが数十人を陽動してくれたおかげでございます。
階段に着きましたがやつらの唸り声はどこからも聞こえてきません。
いつの間にか他のメンバーも後ろに追いついてきております。
茶髪男、老夫婦、妻とあーちゃん、従業員の女性、そして殿がもうひとりの若い男でございます。
時間が無いので名前などは聞いておりませんでした。誰がどのような素性なのか全くわかりません。わかっていることは、それぞれが必死でここまで生き残り、これからも生き続けるために危険な場所に飛び込もうとしていることだけでございます。
「よし、俺が一階に下りて様子を見てくるからここで待っていてくれ」
駒田がそう言ってまた先行しようとしたときでした。
あーちゃんが不意に、
「これってピアノの音色?」
妻にそう聞きます。
当然何を言い出すのかと私が訝っていると、妻も目をつぶりながら耳をすませ、
「本当だ……あーちゃん耳がいいね。何の曲だろ……ベートーベンの月光……?」
妻はこれでも神奈川県の音楽大学を卒業しているのでございます。
言われてみると微かにそんな音が聞こえました。
「駒田さん行きましょう。こんなところで立ち止まっている時間はありません」
私の言葉を聞いて駒田も頷きます。
娘も耳がいいですが、父親も周囲の声に素直に耳をかす力を持っておりました。自分が何を相手に言うかよりも相手が何を言うのかを必死に聞くことが信頼につながるそうでございます。まさに彼のことです。
駒田と私は静かに階段を下ります。
一階にも誰の姿もありません。
目前のロビーもガランとしており、走ればすぐに正面玄関から外に出られそうです。
あまりにも事が簡単に運び過ぎて肩透かしをくらった感じでございました。
これならあっという間に脱出できます。
駒田を残し私は階段を二階へと戻ります。
他のメンバーは心配そうな表情で私を迎えました。
一階にやつらがひとりでもいれば脱出は大変危険なものになるからです。それも私の話を聞いて杞憂だということを知ると、一同はみなほっとした表情になりました。
あーちゃんだけが丸い顔をやや曇らせています。
父親を心配しているのかと私が声をかけると、ただ一言、
「ピアノ終わっちゃったね」
耳をすませても微かに聞こえていた音が消えています。
私はなぜこのとき予想できなかったのでしょうか……。
この音の意図を……。
この音が消えた後の展開を……。
脱出が安易に成功しそうなため気が緩んでいたとしか思えません。
誰かが悲鳴をあげたのと、すぐ頭上でやつらの歓喜の叫び声が聞こえたのと、みんなが急に走り出したのと、はたしてどれが最初で、どの順番だったのか……。
とにかく全てがほぼ同時でございました。
一瞬でしたが階段の隙間から上を見上げたとき、何十人というやつらの顔がこちらを覗いていたことを覚えております。
従業員の女性が悲鳴をあげながら逃げようとして目前の老夫婦を階段から突き落としました。
混乱した状況でしたがその光景を私は目撃しております。
それを踏みつけるようにして茶髪男が真っ先に一階へと逃げていきました。
妻はあーちゃんを抱きかかえて私に助けを求めております。私はその手をとって一階へ走りました。
もうひとりの若い男がその後に続いていたと思います。
呻いている老夫婦を助け起こそうとした時、背後で唸り声を聞きました。
振り向くと、ショックで立ち往生している従業員の女性が五人ぐらいの男たちに引き倒され、食らいつかれていました。
「ウワアアアアア……!!」
強い風が窓を叩くような悲鳴とも呪いの声とも区別がつかない声を、女性はあげ続けております。
階段を下りてくるやつらが次々と隙間を見つけて女性に牙をたてていきます。
あぶれた数名がこちらに気づき転げるように階段を下りてきました。
老夫婦を立たせる暇もありません。
老人は恐ろしい表情をずっと私たちに向け続けながら背後からやつらに襲われました。
そこからは声にならない悲鳴が……。
私は妻の手を引き一階へ走ります。
そしてそのままロビーへ。
正面玄関へ目をやった時、ちょうど外から入ってくるやつらに茶髪男が襲われるところでした。
茶髪男が反転して逃げようとするところを後ろから髪を掴まれ引きずり倒されます。
その頭に数人が食らいつきました。
自動ドアに鮮血が飛び散ります。
夜の闇の中から次々とやつらが現れ、狂ったように歓声をあげて男の腕といわず足といわず手あたり次第にむしゃぶりつくのです。
「ひゃー、ひゃー、ひゃー……」
という奇妙な悲鳴をあげながら男は食われていきました。
「こっちだ!山岡さん!」
声がした方に振り返ると、フロントのところで駒田さんが手招きをしています。
背後からは階段を下りてくるやつらの足音と唸り声。
正面玄関のやつらの中にも、私たちに気が付いて猛然と駆け出し始めたものが出てきていました。
私は妻の手を強く握りながらフロントへ走ります。
奥は部屋になっているようです。逃げ場がありました。
しかしやつらの気配はすぐ後ろです。
無数の駆ける足音がどんどん大きくなってくるのがわかります。
肩にかけていたバックがやつらのひとりにむしりとられました。
服にやつらの手がかかります。それでも振り向かず、死にもの狂いでフロント奥の部屋を目指します。
「早く中へ!よし、閉めるぞ!!」
間一髪で私たちはフロントの控室に逃げ込みました。
ドアに強烈に体当たりしてくる音が聞こえてきます。
「他の連中は……?」
駒田の言葉に反応して周りを見渡してみると、私の他は妻と泣きながら抱きかかえられているあーちゃん。ドアを必死で押さえている駒田。そして運よくついてこられた寡黙な若い男。五人でございました。
惨劇は一瞬でした。
一瞬でここまで生き延びてきた四人の命が失われたのです。
私はこの時、異変に気が付くべきでした。
強く動揺しており、それに気が付かなかったのです。
私の発案でみんなを危険に晒し、亡くなった者が出たという事実が重く私に圧し掛かっておりました。
時刻はまもなく午後九時。層雲峡最後の長い夜は始まったばかりでございました。
この続きはまた次回とさせていただきます。
それでは一度失礼させていただきます。




