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第10話

第10話


 たいへんお待たせいたしました。

 「動物の進化は植物の進化と共にある」

 こちらはあくまで私の持論でございます。

 動植物はどちらも地球に生まれた同じ生命体です。永きに渡り持ちつ持たれつの関係が続いております。


 当初の地球の大気は有毒でございました。


 人間が汚してきた現在、二千十六年以上です。


 紫外線は容赦なく降り注いでおり、特に地上はとても生命体が生きていける環境ではありませんでした。何十億という月日の中で水中の植物が無機物から有機物を創り出し、代謝物として酸素を生み出しました。それに伴って酸素を使う生物が生まれます。また巨大な量の酸素がオゾン層を作り出して有毒な紫外線が封じられ地上は楽園への道を辿るのです。


 植物の革新的な進化が動物の進化を強力に後押ししてきたのが、まぎれもない地球の歴史でございました。


 以前こちらでも記載させていただいたように、やつらは皮膚で光合成を行っているというニュースがアメリカ合衆国から流れました。人間のエゴで巻き散らかした放射能やPM2.5などを含む有毒な大気を、やつらは浄化しているそうでございます。

 どこまでが真実なのかはわかりませんが、突如出現したやつらがこの地球の大きな世代交代の役目を担うように思えてなりません。

 もっとも、やつらからすると人間自体が浄化すべき有毒な存在なのかもしれませんが……。


 さて、層雲峡そううんきょう脱出編のお話を進めていきましょう。


 九月二十九日午後五時。

 窓の外の層雲峡の景色はすっかり闇に包まれておりました。

 時折強く吹く風の音が、室内にある私とさんの耳にも届いて参ります。

 私たちは一階大浴場の脱衣室で今後の作戦を簡単にではありますが練りました。

 出来ることなどたかが知れています。

 持ちうる手札は全て使い切る所存です。

 一番期待できるカードは沖田春香おきた はるかでしたが、交信の仕様がありません。彼がどこにいて何をしているのか不明なのでございます。

 私たちには武器も無く、援軍も期待できない状況でしたので、救出成功の糸口になるのは陽動作戦のみと二人の意見は一致しました。

 やつらを引き寄せる方法は悲鳴と血の匂いでございます。


 一階にある大浴場の脱衣室を出ると長い一本道が続いております。

 両側にはお土産屋さんや食事処が軒を連ねていますが、閑散として人の気配はまるでしません。

 通路には熊に噛み砕かれたやつらの破片が点々と転がっておりました。

 その中を用心して進んでいきます。

 しかし一向に動き回るやつらの姿を見かけることがありませんでした。


 やがて一階のフロント前のロビーに到着しました。


 正面にはホテルの出入り口の大きな自動ドア。

 外には彷徨うやつらの姿がチラホラありました。

 その奥には駐車している自動車の列。

 私の愛車も見えました。


 (今なら脱出できるかもしれない……)


 そんな誘惑が急に私の内に沸々とこみ上げてきます。


 「ここで逃げても誰もあなたを責めない」


 私の心を見越して背後から李さんがそう声をかけてきました。

 振り向くと彼女がじっと私を見つめています。真っ直ぐな瞳ではなく何かを哀願するようなそんな目でございました。


 「誰でも自分の命が一番大切なものです。奥様はもう手遅れかもしれません。山岡さん、今なら逃げ出すことができますよ。私も一緒についていきます。どこまでも……」


 自分の命よりも大切なものなどあるのでしょうか。

 もし、私に子どもがいたらそんな思いになったかもしれません。

 私には自分の命よりも大切なものなどありはしませんでした。

 生きていれば再起を図ることも可能なのです。死んでしまえばすべてが終わりです。

 迷うことなどありはしませんでした。


 あの日、私は誓ったのです。


 教会の神父の前で、家族の前で、神の前で、いかなるときも夫婦は共にあると。


 すこやかなるときも、めるときも、互いを敬いいつくしむと。


 あの口づけを交わした瞬間から私はひとりではなくなりました。


 私の魂と妻の魂は永遠に結びついたのでございます。


 妻の命は、すなわち自分の命です。


 夫婦の絆を失うことが、私の死なのです。


 これ以上に大切なものなどこの世にはありません。


 「必ず妻を連れてここを脱出しますよ。この命にかけて」


 私はそう李さんに言い放つと四台あるエレベーター横の階段へと進みます。

 先ほどよりも踏み出す足に力が入ります。

 熱いものが身体の内を駆け巡っておりました。

 背後で李さんが何かをボソリと言いましたが私の耳には届きません。

 代わりにやつらの唸り声が幾つも階段から聞こえてきます。


 グレーのコンクリートに囲まれた階段、薄暗い照明が私たちの影を映し出します。

 頭上からは唸り声と歓喜の雄叫びが切れ間なく響いて参ります。

 見上げてもやつらの姿はありません。

 おそらくは二階のフロアからです。この興奮様はやつらが獲物を発見した時の反応に間違いありません。高まったこの唸り声はまだ襲撃が続いていることを示しております。


 私は先頭に立ってそのまま階段を上がりました。

 やつらの唸り声がどんどんと大きく聞こえ始めます。

 まるで動物園のサル山を掻き回したようです。

 鼻を突く異臭が濃くなっていきます。


 二階に到着し、通路を覗き込むと何ということでしょうか。びっしりと群れをなしたやつらが隙間が見つけられないほどひしめいているのです。

 その光景はやつらの巣穴と言っても過言ではありません。


 「五十人以上はいますね」


 李さんは冷静にそう言いましたが、私には二百人はいるように思えました。

 奥で何が行われているのか、やつらが邪魔でまるで確認できません。全員が奥の方を向いて必死に手を伸ばしています。

 ここまでの数は予想外でございました。


 「お互いにベストを尽くしましょう。山岡さんはそちらのプライベートルームで隠れてください。私が陽動します」


 私はぎょっとして李さんを見ました。

 この数を陽動などできようはずがございません。

 仮にこちらに注意を向けようものなら、あっと言う間に囲まれて命を落とします。


 彼女は怪訝そうな私の顔を真っ直ぐと見つめると、


 「それぞれに為さねばならない役目というものがあるでしょ。山岡さんには命がけで奥様を救出し脱出する役目が、私にはあなたがたの脱出をサポートする役目が」


 「李さん、あなたにそこまでしていただく必要はありませんよ。あなたはあなたの命を大切にしてください。方法は他にもあるはずです。携帯電話の陽動、あなたのハミングもあります」


 李さんは一度目を閉じるとフッと微笑みました。


 そしてその大きな瞳をまた見開き、


 「今のやつらの興味を引くのは無理です。獲物を捉えてしまっています。それにこれは役目と言うより責務なんです」


 「あなたがこのホテルの従業員だからですか?そこまでの責任はあなたにはありませんよ」


 「……いえ、それが父から与えられた任務なんです。あなたがた一般市民の脱出の手助けをするのが私の使命」


 「使命……?」


 「ええ、最初はそんな使命なんてって思っていましたけどね」


 「沖田春香おきた はるかくんもですか?」


 「あの子は別です。私がここにいることも知りません。というより私の存在を知らないんです。母違いの肉親がいることをあの子は知りません。私の顔を見ても気づくはずないんです。それに、あの子にはあの子の任務がありますから……」


 「どういうことですか。あなたがたは一体……」


「 山岡さん時間がありません。動きましょう。この話の続きはここを脱出してからです。奥様がきっと待ちわびていますよ」


 そう言って彼女は私にウインクしました。


 二度と彼女の笑顔を見れない予感が致しました。


 「あの数で追われたら逃げようがないでしょ!」


 私は少し語気を荒げました。

 今考えると女性に対して暴力的な口調だったと反省しております。

 ですが彼女は意に介さず、


 「大丈夫です。このための訓練はしていますから……なんとかなるはずです」


 このための訓練……。

 確か沖田春香も予備知識があると話をしていました。

 これは予期された事件なのでしょうか。であれば事前に防げたはずです。


 「いきますよ山岡さん。お達者で……」


 李さんがいつの間に手にしていたのか小さなナイフを自らの左腕に当てます。


 そして一気にその腕を切り付けました。


 血が白い腕を流れて床に落ちます。


 そのままプライベートのドアを開き私を室内へと押しやりました。


 「私の母は中国の諜報員だったんです。絶体絶命のところを父が命がけで救ったそうです。よく母が嬉しそうに話してくれました。山岡さんの幸運を祈っています」


 最後に目が合ったときの彼女はとても悲しい目をしていました。


 ドアが閉まり、すぐにドアの向こうから大きな悲鳴が聞こえてきました。

 やつらを惹きつけるための李さんの必死の叫び。

 私はそれをただ聞いているだけ。なんとも不甲斐ない男でございます。


 やつらの歓喜の声が響きます。

 猛然と走りゆくやつらの足音。

 私は単なる傍観者なのです。

 彼女を踏む台にして自らの命を永らえようとしている卑怯な男。

 彼女は自らの命以上に大切にできる物を持っているようでした。信念、誇り……まさに人間だけが持つ至高の志です。


 ドアの向こうで足音が止みました。


 私は恐る恐るドアを開きます。

 あんなに混み合っていた廊下は嘘のように静かです。


 私は妻を呼びながらひとつひとつの部屋のドアを確かめていきます。


 かなり奥の部屋で反応がありました。

 ドアがすっと開き、男が顔を出します。

 私を発見して身体ごと廊下に出てきました。巨漢の男でございます。ただその表情には愛嬌がございます。歳は私と同じくらいでしょうか。


 「あんたが山岡さんか」


 先ほどの内線電話で聞いた太い声。


 「あなたは駒田光こまた ひかるさんですか?」


 男は無言で頷き、私を室内に招き入れます。

 妻がいました。まぎれもない私の妻です。永遠に続くだろう宇宙の寿命の先までも愛し続けると約束したただひとりの相手。私は人前であることも忘れ妻を抱きしめました。懐かしい匂い。


 「再会を喜んでる暇はないぞ。早くここを出なければやつらが戻ってくる」


 背後に立つ駒田の声で我に返りました。

 気が付くと妻の横には小さな女の子が妻のズボンのすそを握ってこちらを窺っております。駒田の娘なのでしょう。歳は三歳と言っていました。

 私は笑顔で挨拶をしました。


 「こちらは山岡さんだ。このひとの旦那さんだ」


 駒田に紹介を受け室内にいる人たちも私に挨拶してきます。

 まだこんなに生存者がいたのかと驚きました。

 若い男が二人。老夫婦。このホテルの従業員だと思われる女性が一人。それぞれが満身創痍でございます。必死の形相で私を見つめてきます。


 「もう一人いたんだが、この窓から外に出た」


 駒田が指さす窓が開いております。

 隣の壁には血で何かが書かれておりました。


 「我々を助けてくれたひとだ。そのせいで傷を負った。それでやつらがどんどん集まってきたんだ。この部屋に残ると我々にも危険が及ぶからと、ひとりここを出た」


 私は血書きの壁に近づきます。

 数字でございます。


 「その人の名前は何と言いましたか?」


 私は数字を読み取りながら尋ねました。

 駒田も壁の内容に気が付いて後に付いてきます。


 「坂本さんだ。坂本陽輔さかもと ようすけさん。彼が書いたものか……?」


 「おそらく……」


 私は心ここにあらずでそう答えました。


 壁には血で書かれた数字が四つ。


 「6  28  496  8128」


 数学を勉強した者ならばすぐに反応するメジャーな規則性の数字でござました。


 無論それがこの場合に何を示しているかなど知りようはずもありませんでしたが……。

 

 この続きはまた次回とさせていただきます。


 それでは一度失礼させていただきます。




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