第9話
第9話
お待たせいたしました。
「学習」するといったものが人間特有の能力だとは限りません。
犬だって、猫だって学習する能力は持っております。
哺乳類には親から獲物の捕らえ方、天敵からの身の守り方、群れの規律を学ぶ種類が多く存在します。
この地上に生息する生物のほとんどがその生涯の経験から生きていくに必要な事柄を学び取り成長していくわけですが、その経験や知識をインストールすることのできる能力が元来備わっているとも言えます。
その能力のことを「空白のプログラム」と聞いたことがございます。
先天的な力では無く、生きていく環境に合わせて開発されていく猶予のようなものでございましょうか。
相応のアプリをいつでもダウンロードできるスマートフォン自体だと思ってください。何もしないと何もできませんが、アプリを取り込むことで無限の成長をしていきます。
特に顕著なのが人間です。
同じ種であっても「性質」「行動」「能力」などが育ってきた外的要因によって大きく異なります。これが人間の可能性を膨らませ、劇的な文化の発展に繋がっていくことになるのです。
難しいお話になりましたが、「愛情」や「恐怖」を感じるといった本能ともいえる能力は誰でも有しているものですが、「対象」については生まれた瞬間から決まっているわけではないと言うことでございます。
人間の赤ん坊は動き回って逃げるなどの自分で身を守る術を持ちません。この時期が他の動物に比べかなりの長期に渡るのですが、これは人間の脳の発達(大きさ)の代償でございます。
しかし「防衛」のための能力として「笑顔」という本能を備えております。
これが親の愛情を強く刺激し絆を深めることに効果的な働きをするわけですが、生まれたての赤ん坊は丸めたタオルに目と鼻と口らしい物を付けて顔に近づけても笑顔を見せるそうでございます。
対象の確定ができていないことを示しております。
やつらにこの「学習」するという能力が備わっているのかいないのか……。
やつらにも「空白のプログラム」は存在するのか。
私はやつらとかなり近くで触れ合ってきましたが、そのどちらとも確信を得てはおりません。
さて、層雲峡脱出編のお話を進めていきましょう。
九月二十九日午後三時。
私は、日本人と中国人のハーフである李さんと一階大浴場のサウナに閉じ込められた状態になっておりました。
焦げ臭い匂いに反応して李さんが動き出します。
彼女がこのホテルの単なる従業員だと思っておりましたが、彼女と行動を共にすればするほど謎が深まるばかりでございました。
それでも私は彼女と力を合わせてこのホテルを脱出する決意を変えるつもりは毛頭ありませんでした。
何度も私は危機的状況を彼女の力によって救われているのです。
それに、彼女の笑顔から邪推できるものなど何一つ無いのでございます。(彼女を信用するにあたってこちらの要素がかなり大きかったように思えます)
これをお読みの方は彼女を魔性の女のように感じ取っているかもしれませんが、それは私の表現不足のためでございます。
豊富とも言えないまでもある程度の女性暦を辿ってきた私が断言致します。
彼女は典型的な淑女です。
事あるごとに私の琴線に触れる彼女の言動には真心が込められておりました。そういった下種な類のものとは全く別なのでございます。これだけは声を大にして書き留めておきます。
李さんはドアに付いている小さな窓から外を窺います。
彼女は再びはつらつとした野性味を帯び始めておりました。
「出ますよ。山岡さん」
彼女はそう言うとドアを静かに開けます。
私は息を飲んで見守りました。
先ほどまで響いていた唸り声が聞こえません。
「行きましょう」
そう促され、彼女に続いて私もサウナを出ます。
白い湯気が立ち込める中を注意深く進みましたが、やつらの姿はありませんでした。
結局、石段を上りジャグジーまで辿り着きましたが誰ひとり遭遇しません。
一体どこに消えたのかといぶかしんでいると、出口のガラスドアが開いていることに気が付きました。
この大浴場に入るとき私は確実にこのドアを閉めたことを覚えております。
「どうして……」
私が茫然として立ちすくんでいると彼女が、
「いるんですよ。ドアを開けるものが」
李さんは特に驚く様子もなくそう言い残して脱衣室へと進みます。
彼女は何をどこまで知っているというのでしょうか。
私は脱衣室にポツンと残されていた自分のバックを手に取り、肩に掛けました。
辺りを警戒しますがやつらの姿も唸り声もありません。
廊下へと続くドアは開いたままです。
焦げ臭い匂いだけが漂っておりました。
洗面台に置かれた内線用の受話器を取り四一0号室を鳴らします。
火事が発生しているのであれば一刻も早く妻と合流し脱出しなければなりません。
「テュルルル……テュルルル……」
コール音が増すたびに不安が募ります。
そもそも駒田光という人物も正体不明です。
八一0号室でひたすら全館に内線電話をかけまくったときには誰も応答しなかったのですから。
「はい」
男の声です。
まずは四一0号室が無事だったことに私は胸を撫で下ろしました。
私のそんな沈黙を察してか男が「ククク」と笑い出します。
「あの、妻は無事でしょうか?妻と代わっていただいてもよろしいでしょうか」
男は何も返答せず笑い続けております。
私はいくらかムッとして語気を強めます。
「妻と代わってください」
「妻?ああ、あの女があんたの奥さんか。山岡さん」
聞き覚えのある声。
二時間前に電話をとった時とは相手が違うことに気が付きました。
「散々俺のLINEを無視した挙句、俺の声も忘れちまったのか?」
なんということでしょうか、電話の相手は高橋守です。
自分の恋人である石和麻由希さんを救うために、私と妻を誘導した男。
石和さんは五階の脱衣室で命を落としましたが、その後も執拗にLINEで脅迫じみたメッセージを送ってきた相手でございます。
だから、私は係わり合うことを避けてスマートフォンの電源を切ったままにしておいたのです。
「思い出したかよ山岡さん。あの女があんたの奥さんなら、そこにいる女は一体誰なんだい?愛人か?」
私はドキリとして辺りを窺います。
李さんと目が合いました。
彼女は真っ直ぐに私を見つめ返してきます。
「何も言い返せないとは図星ってことだな。あんたはそうやって色々な女を食い物にしてるってわけか。俺の麻由希も……」
高橋の声が徐々に熱を帯びてかん高くなっていきます。
どうしてそんな結論に行き着くのか、など口論している時間はありません。
「そこにいた人たちはどこにいるんですか。そこにいるのなら電話を代わってください高橋さん」
私はなるべく冷静に言葉を続けました。
モンスターペアレントと呼ばれる保護者対応の中で学習した技でございます。
こちらが感情的になると平行線の会話だけが続くことになります。
クールダウンさせることも重要です。
「俺の麻由希がどうなったかお前は知っているのか?ええ?露天風呂で俺の救出をひたすら待っていた麻由希はお前のせいで死んだんだ!!!」
知っている?
石和さんが亡くなったことをこの男は知っているという事実が私を動揺させました。
なぜ知っているのか。
「私のせいではありません。私は妻とあなたの依頼に従って救出しに行ったんです。他にもいましたよ。高橋さん、あなたに依頼されて五階に来た夫婦が。やつらの牙にかかって亡くなりましたがね……。石和さんの命を奪ったのはやつらです。私たちではありません」
私は毅然としてそう言い放ちました。
これが真実なのです。
「お前が行かなければ麻由希は助かったんだ。お前のせいで俺はこの世で一番大切なものを失った。お前にも同じ思いをさせてやる。あの女を捕まえて同じように殺してやる。お前は俺と同じ苦しみを味わってから死ねばいい。それまではお前はまだ殺さない」
ブツリと電話が切れました。
おそらく理解してくれないだろうという私の予想は当たっていました。
高橋が石和さんの死を真正面から受け止められないだろうから私は彼との連絡を絶っていたのでございます。
しかし事態はもはやそれどころではありません。
高橋の話をある程度信用するのであれば、妻はまだ安全な場所に避難していることになります。
四一0号室を出てどこに向かったのでしょうか。
それにしてもなぜ二三二号室の高橋が四一0号室にいるのか。
確かに昨日までは部屋に閉じこもって石和さんの死すら知らなかったはずです。李さんがコンタクトをとって確認済みでございました。私たちの生死など知りようはずがございません。
誰かが教えたのか……。
私は思わず李さんを見ました。
真っ直ぐな瞳はたじろぐことなく私を見つめています。少しでも彼女を疑った自分を恥じました。
「李さん、妻がたいへんです。四一0号室には高橋守がいました。妻を襲うつもりのようです。あの男は気が狂れています。石和さんの死が私の責任だと思い込んでいます」
李さんは幾分悲しそうな眼をしましたが何も口を開きませんでした。
私は続けます。
「私だけで脱出するつもりはありません。私は何が何でも妻を救出してからここを脱出します。李さんはこの隙にこのホテルを出てください。私はここに残って作戦を立て直します」
李さんが何も応えず顔を見上げて時刻を確認します。
「あと二十一時間ほどでここは灰燼に帰します。今頃やつらは奥さんたちのところに集結しているところでしょう。救出は不可能に近いと思います。それでも山岡さんは行くんですか?」
李さんの口から灰燼などという単語が飛び出したことに幾分驚きながらも、私はしっかりと頷きました。
おそらくこの辺りのやつらは悲鳴や血の匂いに反応して集まっていったのでしょう。だとすればこの近くのはずです。
「わかりました。私も手を貸します。奥様の避難を妨げたのは私ですから」
「そんなことは……」
「いいんです。協力して奥様を救出しましょう。私のできることなどたかが知れていますが」
「助かります」
間違いなく彼女の持っている情報が頼りになります。
私の中には、それとは別にまだしばらく彼女と行動を共にできることに対しての高揚感もございました。そこは男の性とご容赦ください。
私はスマートフォンの電源を入れました。
もはや高橋に遠慮している必要がございません。利用できるものは全て利用しなければ切り抜けることはできない正念場が迫っていることを私は感じておりました。
私は李さんの情にすがってそれすら利用しようとしていたのでございます。
魔性……という言葉が当てはまるのは李さんではなく私の方なのです。
こうして私は更なる修羅場へと足を踏み入れることになるのでございます。
この続きはまた次回とさせていただきます。
それでは一度失礼させていただきます。




