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第8話

第8話



 お待たせいたしました。

 私はやつらが持つ人間を超える能力について、「不完全性」を強く感じております。

 血の匂いが水中にあっても広がるものなのか皆さんはご存じでしょうか。

 どうやら空気中でも水中でも匂いは広がるそうでございます。

 陸上に生きる生物が水の中の匂いを嗅ぎ取ることは難しいでしょうが、水中に住む生物には可能なのでございます。

 例えばサメは血の匂いを数km先からも嗅ぎつけて獲物に近づいていくと聞いたことがあります。サメの臭覚はたいへん鋭いようで、一滴の血を百万分の一以上に薄めても嗅ぎつける力を持っているそうでございます。水中では匂い物質が拡散しやすいため、一説では数百km離れた場所にも届くそうですからサメにとっては当たり前のように匂いを頼りに近づいてくるのでしょう。

 サメのこの臭覚は永い時間をかけて進化させてきた究極の能力なのかもしれません。


 同じようにやつらが空気中の血の匂いを敏感に嗅ぎつけることは以前こちらに記載させていただきました。

 サメが長い月日を経てその能力を伸ばし、上手に活かすすべを身につけてきたのに対し、やつらは突然変異のようにこの能力を開花させたわけでございますからその力に翻弄される場面が多々あったのではないかと思われます。


 過程プロセスなき結果の産物。


 やつらの力が、私にはそう映ってなりません。


 さて、層雲峡そううんきょう脱出編のお話を進めていきましょう。


 九月二十九日午後一時。

 私は妻が四階で駒田光こまた ひかるという男に窓から救出され四一0号室に保護されていたことを知りました。

 そんな喜びも束の間、その生存を知らせる電話の途中で私は通話を切らなければならなくなりました。

 私とさんが逃げ込んだ一階の大浴場の脱衣室にやつらが侵入してきたからでございます。

 おそらくは負傷した私の両手から流れる血を嗅ぎつけてきたのでございましょう。

 目視ではありましたが、廊下から脱衣室に入るドアは確かに閉まっていたはずでございます。それがいつのまにか開いていたのです。やつらにはドアの開閉は出来ません。やつらに学習能力があったとしたらそうとは限らないわけですが。


 真相はさて置き、急ぎ私たちは脱衣室のさらに奥へと逃げます。


 「山岡さん、向こうからも来ます。こっちです」


 私は李さんの言うがままガラスドアを開き大浴場へと足を踏み入れました。

 慌ててドアをしっかりと閉めます。


 硫黄でしょうか、温泉独特な匂いに包まれております。

 真っ白な湯気が辺り一面に立ち込めていて視界がほとんどありません。


 室内は縦長の造りになっていて、入口近くにはわずかな数の洗い場がガランとしておりました。隣にはジャグジーの風呂が泡立っており、その隣には別な湯が湯気の中に薄らと見えます。

 私は何度もここに来たことがあるので先の行方はよくわかっておりました。

 通路を進めば奥には石造りの階段があり、下りていくと沢山の洗い場、大きな風呂が四つほど、さらにサウナも備えついております。


 「お背中でも流しましょうか?」


 隣に立った李さんがそう言って微笑みました。

 思わず「はい」と答えたくなるような優しく甘い誘い方です。

 妻の安否を知って安心しきってしまっていたとはいえ危なく不覚をとるところでございました。というより私たちの立場自体がそんな状況ではなかったのですが……。


 「またの機会にしましょう。やつらに見つかると面倒なので」


 「そうですね。奥様の目もあるでしょうし」


 李さんはそう言うと私の顔をジロリと一瞥し、また微笑みました。

 思わず感じた愛おしさを胸に押し込みながら私は前進します。


 湯気が邪魔で前方が見えません。

 

 耳を澄ますと微かに唸り声が聞こえてきます。


 やつらは確実にこの大浴場内にいるのです。


 反響しているのでしょう。八方からやつらの声が聞こえてきます。取り囲まれている錯覚を覚えました。


 私は両手をくるんでいたタオルを遥か前方に投げまてみます。

 血を含んでいるタオルでございます。

 途端にやつらの唸り声が大きくなりました。

 引き破るような音もします。


 私は静かに李さんの腕を引き、ジャグジーの湯の中へ入りました。

 両手の傷から流れる血は止まっておりましたから湯の中にかれば匂いを消すことができると考えたのでございます。傷口がみますが今はそんなことを気にしている余裕はありません。

 肩まで湯に沈めます。隣で李さんも同じ動きをします。

 私は彼女を引き寄せ壁側に移動させ、彼女をかばうような態勢で通路側を警戒しました。


 白い景色の中を確かに何かが動く気配が致します。

 唸り声がはっきりと聞こえるまでになっております。

 もはや私たちに逃げ場などありません。気づかれたら万事休すです。


 と、目前の通路に太い脚が現れました。湯気の中から出てきたのは裸の男です。


 「うー、うー」


 耳元で唸り声がした時には心臓が止まりそうでございました。

 李さんの腕が水中で私の身体にしがみつきます。

 裸の男は私たちに気づくことなく、そのままゆっくりと通り過ぎて洗い場の方へ進んでいきました。


 私は大きく息を吐き出します。


 しかし唸り声は次々と近づいてきました。

 別の裸の男と作業服を着た男が同時に現れます。

 裸の方は身体中を食いちぎられて酷い有様でございました。

 作業服の男は右腕がひじから先が無く、鼻や耳が食いちぎられております。

 妻であればとっくに悲鳴をあげていたに違いありません。

 李さんは私にしがみついて必死に堪えております。

 この二人も素通りしていきました。


 私は震える李さんの肩をそっと抱きました。

 すっと彼女が顔を上げます。

 まさに目と鼻の距離です。真っ直ぐな瞳で私を見つめてきます。


 「もしかしたらここが私たちの最後になるかもしれませんね」


 彼女はジャグジーの音にかき消されるようなとても小さな声で私に語り掛けてきます。私は黙ってそれに耳を傾けます。


 「今、山岡さんはしたいことがありますか?今、こんな状況だからしたいこと、ありますか?」


 その唇は今にも私に触れそうです。

 身体が火照ってどうしようもないのは何も湯に浸かっているからだけではなかったようでございます。


 私は頭の中までも真っ白になるのを堪えながら、


 「李さんは、何がしたいんですか?」


 じれったさと、罪悪感と、突き動かされる衝動とごちゃごちゃになりながら私はもがきました。

 いえ、実際は彼女にさらに接近していたかもしれません。

 彼女の胸が私の胸に押しつけられました。

 彼女の手が水中で私の身体をなぞります。


 バシャン!!


  何かが水に沈んだ音で、私たちはハッとしました。


 「うー、うー」


 低い唸り声が通路からではなく、同じジャグジーの湯の中から聞こえてきました。

 そして湯を掻き分けてくる音。

 私は李さんを背後に隠し一歩前に出ました。

 やつらに気づかれるのは時間の問題でございました。

 戦うより他に選択肢がございません。

 まさか妻以外の女性のために命を捨てることになろうとは考えもしなかったことでございました。この時の私はどうせ死ぬのならば彼女だけでも逃がしてあげたいという気持ちだけだったのです。私がここで暴れれば充分に陽動の効果はあるでしょう。犬死にはならないはずでございます。


 その時です。背後で李さんがハミングを始めたのです。高音のとても美しいメロディーでございました。


 周囲のやつらの唸り声が止まりました。


 私はこれと同じような光景を見たことを思い出しました。


 沖田春香おきた はるかと一緒にいたとき、彼はやつらの凶暴性を鎮める効果があると言ってバイオリンを奏でたのです。

 確かにあの時もやつらの動きは止まりました。


 李さんはハミングを続けながら私の腕を引きジャグジーから出ます。

 そして静かに通路を奥に向かって前進していきました。

 途中、立ち尽くしているやつらともすれ違いましたが、襲ってくる様子はありません。


 私たちは石造りの階段を下ります。


 白い湯気は依然として視界を奪っておりました。やつらの影が幾つも見えます。


 大きな風呂の間を通り、行き止まりにあるサウナのドアを開きます。

 中には誰もおりません。

 李さんはフラリとして私にもたれかかりました。それを抱きかかえ、静かに床に横たわらせます。彼女はずっと目を閉じておりました。眠ったような表情でハミングを続けております。


 「李さん、もう大丈夫ですよ。ここにはやつらはいません」


 私の声を聞いてもなお歌い続けております。


 「李さん、あなたはなぜ知っているのですか?音楽でやつらの動きを止めることができることを……」


 彼女はハミングを止め、真っ直ぐと天井を見てつぶやきました。


 「どんな音楽でもやつらに効果があるわけではありません。一定のメロディだけです。今回は水蒸気でカモフラージュできていましたが、やつらにはっきりと姿を見られていたらその効果すら消えるんです」


 私の質問の答えにはなっていませんでした。


 私はサウナの席に腰かけます。

 ここはおそらく三日前から使用されてはいなかったのでしょう。照明も暗く、ひっそりと静まり返っております。

 私の身体から湯がポタポタと床に落ちます。

 喉が渇きましたが、食料や衣類を詰め込んだバックを脱衣室に置いてきてしまったことに気が付きました。


 「やつらは何者なんですか?」


 別の問いを彼女にしてみます。

 彼女は小さく首を振りました。

 知らないのか、答えたくないのか。


 「沖田くんは五日後に国防軍の一斉攻撃があると話していました。李さんはそのことを知っていましたよね」


 今度は首も振りません。

 まるで童話の白雪姫のように横たわっているだけでございました。

 私はため息をついて壁を背にします。


 しばらくの沈黙の後、彼女が重い口を開きました。


 「私の父親は日本人なんです。軍人です」


 「軍人……」


 「国防軍第二師団北鎮司令部 将補(MG)沖田勝郎おきた かつろう。私の父の名です」


 「沖田!?」


 国防軍が編成されて百日あまり、私にくわしい組織内の話がわかろうはずがございません。沖田勝郎なる人物の名前など聞いたこともございませんでした。

 しかし「沖田」という姓だけは知っています。

 あの沖田春香も同じような事を話しておりましたから。父親が旭川基地の将校だと……。


 「李さん、あなたもしかして沖田くんの……」


 私の言葉途中で李さんがガバリと身体を起こしました。

 辺りをキョロキョロし始めます。

 その時になって私も異変に気が付きました。

 きな臭い……何かが燃える匂いです。


 「あの男が動いた……」


 「あの男?」


 「行きましょう山岡さん。ここを脱出するチャンスです」


 そう言って、彼女は立ち上がりました。


 横顔が少し沖田春香に似ている気も致しました。


 その頃、二階、三階は修羅場になっていたようでございます。

 

 私は旭川に戻って後に妻からその凄惨な戦いの場面を聞きました。


 ホテルが少しずつですが火に侵され始めておりました。


 そういえば「赤口しゃっこう」の日はくれぐれも「火」に注意しなければならない厄日でございました。


 この続きはまた次回とさせていただきます。


 それでは一度失礼させていただきます。


 


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