第7話
第7話
中国の小説といえば「三国志」「水滸伝」そして「西遊記」でございましょうか。どれも私の愛読書でございます。
三国志には魅力溢れる英雄たちが数多く登場してきますが、中でも曹操孟徳には惹きつけられる要素が多々ございます。
文武両道、教養に溢れ、政治においても戦いの場においても自由奔放、どんな窮地も武と知と人の力で切り抜けてきたその勇姿は、歴史上最も優れた英雄のひとりに数えられえると思います。
西遊記は比べてファンタジーの要素が強いもののやはり孫悟空の強さ、天衣無縫さに魅力を感じます。
西遊記の主役の三蔵法師は遥か彼方の天竺を目指して旅を続けていくのですが、子ども心に「なぜ筋斗雲で天竺まで行かないのか」とよく疑問に思ったものでございます。
おそらく孫悟空の筋斗雲の力を借りれば一日もかからず天竺を往復できたはずです。
かつて日本の民も天竺をユートピアと信じて戦乱を避けて旅を決意した者が多かったと聞きます。
天竺とは今でいうインドでございますが、一体彼の地に何があるのでございましょうか。
気になって仕方がなかった私は学生時代にインドを放浪したことがあるのでございます。
喧騒と混沌の街、数多のバイタリティ溢れる人間たち、古代から続く歴史とその建造物、確かにカルチャーショックは受けたものの私たちの世界と何が違うのかよく分りませんでした。
「デリー」も「カルカッタ」も「バラナシ」も同じ人間が同じように希望と苦しみの中を生きているだけでございます。
釈迦がかつて初めて説法をしたという「サールナート」の地に立っても私の疑問は解消されませんでした。
西遊記の中で孫悟空から筋斗雲で行こうと誘われたときに三蔵法師が答えた言葉が思い出されました。
「苦難の果てに辿り着かぬ限り何も見いだせない」のだと。
結果よりも過程こそが人間にとって大切だと言いたかったのだと思います。私のような修行不足の若造が飛行機で何時間かかけて辿り着いたところで何も見えないのも当たり前でございました。
燦然と輝く曹操孟徳像を創り出したのもその卓越した能力ではなく、その生き様、幾多の困難を克服してきた人生そのものでございましょう。
私にとって中国の小説とは、生き方そのものの目標を教えてくれる教科書のようなものでございました。
さて、層雲峡脱出編のお話を進めていきましょう。
九月二十九日午後十二時十五分。
妻の死により私の脱出計画は瓦解しておりました。
両手に傷を負い、それ以上に心に深い致命傷を負った私は日本人と中国人のハーフである李さんの誘導に従って一階の大浴場の脱衣室に逃げ込みました。
疲れとは別の何か底知れぬ引力によって、私は生きる力が吸いつくされる思いでございました。
もし妻の遺骸を目前にしていたら私は気が狂っていたことでしょう。
洗面台の近くに設置されている内線電話が鳴り、私はゆっくりとそこに近づきます。受話器を取った瞬間に丁度切れました。幻聴だったのかもしれません。いや、これまでの全てが幻覚だったのかもしれません。この時の私は現実味を感じる感覚が麻痺しておりました。
私は洗面台の椅子に腰を掛けます。
湧き上がってくるのは徒労感だけでございます。
「山岡さん。私のために奥さんを……、ごめんなさい」
李さんの声。
私は洗面台の鏡越しに彼女を見ました。真っ直ぐな瞳が瞬きすることなく私を見つめております。真っ白な頬を涙が流れておりました。
「もし私でよければ……」
含みのある言葉。
短いスカートから肉付きの良い太ももがのぞいており、私はハッとして目を伏せました。私でよければ何なのでございましょうか。愛する者はそんなとっかえひっかえできる代用品ではございません。私は李さんを救うために妻を犠牲にすることなど考えてもいませんでした。もしかしたら彼女はそう誤解していたのかもしれません。
さらに口を開いた彼女はまったく別の話題をしてきました。
「こんな時にごめんなさい。山岡さんは二人の男に出会ったと話していましたが、その人たちは今どこにいるのですか?」
鏡越しに彼女を見ることに罪悪感いっぱいになった私は、振り向いて彼女と対峙します。
それにしてもなんというスタイルの良さなのでしょう。
膝を崩して座っている姿も一枚の絵のようです。
モデルをやっていると言われても疑問を挟む余地はありません。
しかし、妻を亡くしたすぐ後だというのに私は何に感心しているのでしょうか。
首を振って雑念を払います。
「沖田春香くんのことですか」
「おきた……はるか」
「ええ、七階で出会った少年です。もう一人は確か桂さんと言いました。連絡を取っていないのでどこにいるかはわかりません。おそらくこのホテルのどこかにはいると思います」
私はなるべく丁寧に話をしました。
この期に及んで紳士ぶるつもりはありませんでしたが、変に馴合って誤解されることも嫌でした。
「その人たちは何者ですか?」
「国防軍関係ですよ。沖田くんは父親が将校だと話していました。桂さんはその部下だったようです」
「国防軍……」
その言葉を発したときの李さんの目は、まるで鷹のように鋭かったことを覚えております。
理由は今でもよくわかりません。
ただそれも一瞬のことで、彼女はまた柔和な表情に戻り、私に微笑みます。
「ごめんなさい。こんなときに。今は奥さんのご冥福を祈りましょう」
別な話題をしてもらったほうが気が晴れたというものです。
彼女の言葉で私はまた重い気持ちに戻りました。
それを察して彼女が立ち上がり私に近づいてきます。
長く美しい脚が、伏せた私の視界に入りました。
彼女が優しく私を抱き寄せます。
豊満な胸の感触が私の額を通して伝わってきます。
艶容な香りが鼻孔をくすぐります。
私は罪悪感の塊になりながらも彼女の為すがままでございました。
「山岡さん、助けに来てくれてありがとうございました」
彼女の髪先が私のうなじをなでます。
私は何かに必死に耐えました。
それは本能のようなものを抑えつけるようなものだったと思います。
彼女が耳元で吐息を吹きかけながら中国語で何かを言いました。
I LOVE YOUのような響きがしました。
「ビビビ、ビビビ」
静寂を破り、電話が鳴ります。
今度は急いで受話器を取ります。
受話器の向こうからは太い男の声が聞こえてきました。
「おお、よかった。繋がった。あんたは山岡さんか?山岡朝洋さんか?」
いきなり自分の名前を呼ばれて私は驚きました。
声は明らかに高橋守とは違います。
「そうです。山岡ですが……あなたは?」
「おお、よかったよかった。やっぱり山岡さんか、よかったなあんたの旦那は生きていたぞ」
旦那?
電話の向こうの人にかけた言葉のようです。
奥からは泣きじゃくる女の声も聞こえてきました。
聞きなれた声……。
「俺は駒田光ってもんだ。四一0号室に住まわせてもらっている。あんたの奥さんは無事だ。窓から俺が救出したよ」
「……」
私は声を出そうにも胸が詰まって何も喋れません。
駒田は電話を替わりました。
「トモ!!大丈夫け!?」
妻の声でした。
もう生涯聞くことはできないと思われていた妻の声です。
自然と涙が溢れました。
「……そっちこそ大丈夫なのかい?落ちたのかと思っていた……」
私は必死に声を振り絞ります。
「大事な荷物は落ちちゃったさ」
「荷物……だったのか……アヤちゃんが落ちたのかと思ってたよ」
「そんなわけないでしょうが。心配してたけ?」
「なまら心配してた」
お互いに涙と笑いでごちゃごちゃになりながらの会話でございました。
「駒田さんに助けられたさ」
「そっか。よかった。早く合流しよう」
「そんな急いじょ。駒田さんには三歳のあすみちゃんっていう女の子が一緒だから窓から下りるのは無理」
「無理って……ずっとそこに居るわけにはいかないよ。明日までには脱出しないといけないんだから」
「わかってるけど……」
その瞬間、李さんが通話を強引に切りました。
私が反論しようとするのを喋るなという合図をして、代わって静かに口を開きます。
「やつらが入ってきました。山岡さん逃げましょう」
低い唸り声が聞こえてきました。
ひとつではございません。
私は静かに受話器を洗面台に置き、その場を離れます。
妻の生存を知って喜びに沸いたのも束の間、今度は私が絶体絶命の窮地に陥ったのでございます。
時刻は間もなく午後一時をまわるところでございました。
私は李さんと共にこの修羅場を逃げ回ることになるのでございます。
今考えると彼女は私の理解できる範囲外の人だったように思えます。
国防軍の層雲峡攻撃までちょうど二十四時間をきったところでございました。
この続きはまた次回とさせていただきます。
それでは一度失礼させていただきます。




