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第6話

第6話


 子どもの頃からの習慣で、私には六曜ろくようの暦でその日の吉兆を占うというものがございます。占うといってもニュースに流れる今日の星座占い程度のものです。

 六曜とはカレンダーに書かれている「大安」や「仏滅」のことでございます。

 中学生時代は特に朝の登校前のトイレの中で暦を目にして毎日一喜一憂していたものです。

 「仏滅」には大抵嫌な出来事が起こったことを覚えています。

 「大安」の日は何か良いことが起こりそうでウキウキしておりました。

 「仏滅」の翌日は基本「大安」なので「仏滅」の日でも今日を頑張れば明日はいい日になるという希望を持つこともできました。

 何とも簡単な占いでございます。

 ただ、時々「仏滅」の翌日が「先勝」だったりする周期もあり、六曜の規則性は私にはよくわかりません。

 その中で一番の謎の日は「赤口しゃっこう」でございます。

 言葉からは何らイメージがわかず、子ども心に「普通の日」と位置づけておりました。

 実際は大人になってから知ったことですが「赤口」とは午前十一時から午後一時までが吉、それ以外は凶。特に死に関連することに対して注意が必要となる悪日だそうでございます。

 「仏滅」が破壊から創造へ繋がる再生の日と呼ばれ吉日とする風潮があるのに対し、「赤口」とは実に「死」そのものとして万人から避けられる日でございました。

 そうでした。脱出を敢行した九月二十九日は「赤口」の日だったのでございました。


 当時の私はそんなことを調べている余裕すら無かったのですが……。


 さて、層雲峡そううんきょう脱出編のお話を進めていきましょう。


 九月二十九日午前十一時三十分。

 私は落下の恐怖に怯える心を自分自身で奮い立たせながら、ようやく二階の従業員室に辿り着きました。

 同じフロアにいるさんとも合流に成功し、後は妻を迎えるだけの状態だったのでございます。

 しかし、なぜか八階の私たちの部屋に熊が乱入し、妻が逃げるように外に出たところで計画にズレが生じ始めました。

 五階と四階の間辺りで妻が動けなくなり、李さんが私を呼びながらこちらの窓に飛び移ってきたので地上のやつらだけでなく、大きな熊にも勘付かれる結果になってしまいました。


 にこやかな笑顔を振りまいて窓から悠々と李さんが登場したのに対し、私は困却の極みです。宙ぶらりんになった妻をどうしていいのか皆目見当がつきません。

 こんな大事な場面で頭が回転しないとは……。

 私はこの歳になるまで何を勉強し、何のために知識と経験を溜め込んできたのでしょうか。

 妻は戻ることも進むこともできない状態です。

 私がどうにかしなければならないのですが、焦燥感だけが募り頭の中は真っ白なのです。


 そうこうするうちに巨大な熊の腕が私の目前の窓にかかりました。


 「なんだろう……この高い音……」


 私の耳元で李さんがそうつぶやきました。

 耳を澄ませてみるのですが、私には何も聞こえませんでした。やつらの唸り声が窓の向こうから聞こえてくるだけです。

 その瞬間、窓の向こうにいたはずの熊の姿がすっと消えました。

 掻き消えたわけではございません。

 突然こちらへの興味を失ったようにどこかへ行ってしまったのです。


 理由はわかりませんが、これで妻をここへと向かい入れることができます。幸運を感謝しつつ、私はすぐに窓に駆け寄りました。


 こうなった以上は声を出して妻を呼ぼうと思ったのです。


 ドン!!!!


 目の前を何かが通り過ぎ、地上に叩きつけられる音が鈍く響きました。


 そしてやつらの歓声……どよめき……。

 私は下半身を石にでもされたかのように一歩も動けません。

 目の前を何かが、よく見慣れている何かが落ちていったのです。

 そして切れた紐がスローモーションのようにして私の視界に入り、また下へと消えていきました。


 妻が握りしめていた紐でございました。


 その後の記憶が定かではございません。

 私は必死に何かを叫んでいたようでございます。

 悲鳴だったのか、怒声だったのか、妻の名をひたすら腹の底から絞り出すように叫んでいたそうです。

 二階の廊下を彷徨うやつらに気づかれ、ドアを破られるほど体当たりされ続けていたらしいのですが全く私の耳には届いておりませんでした。


 私は生涯で初めて我を失っていたのでございます。


 李さんが居てくれなければ、私はそのまま窓からやつらの中へ飛び込んでいたことでしょう。李さんは何度も私が叫ぶのを止めようとしたそうでございます。

 間もなくドアが破れるという寸前で彼女は身体を張って私の混乱を止めました。

 

 私の記憶はそこからまた繋がります。


 気が付くと李さんの顔が私の顔に触れ合うほど接近しておりました。


 声を出そうにも彼女の口に封じられて私は口を開けませんでした。


 彼女の両手が痛いほど私の身体を抱きしめておりました。


 どのくらいの時間私は李さんと口づけを交わしていたのでしょうか。


 息ができず苦しくて彼女を突き放した時には、ドアの向こうのやつらの唸り声も止んでおりました。


 彼女は泣いておりました。


 泣きながら私に「ごめんなさい」を繰り返しておりました。


 その時になって私は自分自身も号泣していたことに気が付いたのでございます。

 私はその場に崩れ落ちるように膝を落としました。

 取り返しがきかない失敗への後悔の念とともに自分の中の一番大切な部分を失ったような衝撃が繰り返し襲って参ります。


 私はその場に嘔吐しました。

 何度も何度も。

 胃液が飛び散ります。

 それでもなお何か強烈な違和感がふつふつと沸いてくるのです。


 「山岡さん、急ぎましょう。このドアが破られます。窓の外から一階へ行きましょう」


 彼女が私を抱きかかえます。

 苦しみながらドアの方を見るとまだやつらは諦めておりませんでした。

 ドアにぶつかる衝突音が聞こえてきます。

 一端は止まったはずなのに……。


 「山岡さん、その両手、見てください。血が出ています」


 左手を開いてみると皮がズルズルと剥けて血が流れています。

 さっき李さんの体重を紐で受けたときのダメージのようでございました。

 感覚が麻痺して気が付かなかったのでしょう。

 右手も同じ状態でした。


 「やつらが匂いを嗅ぎつけて興奮しているようです。早く」


 李さんが持っていた紐を机の脚にくくり付けます。


 「私が一階まで下りて窓を開きます。山岡さんはすぐに続いてください。地上のやつらもすぐに気が付くはずです。窓はやつらの手の届く位置ですから素早く室内に潜り込んでください。いいですか、今は悲しんでいる場合ではありません。急ぎましょう」


 私の頭は止まったままでした。

 李さんの言葉にうなずくことすらできなかったはずでございます。

 彼女は私のリアクションを見届けることもなく、窓から外へ身体を滑らせました。

 中国人とはみんなこんなにも身が軽いものなのでしょうか。

 私はぼんやりとそんなことだけを考えておりました。


 夢の中を漂うようにただ茫然としていると、


 「ピュー!」


 窓の外から口笛が聞こえてきます。

 おそらく彼女の催促でしょう。

 背後のドアはもう半壊寸前で、やつらの姿を垣間見ることができるくらいです。

 私はなんだか可笑しくなってきました。

 だってここから先、何を楽しみに生きればよいのでしょうか。

 私にとって妻が全てだったと失ってから気が付いたのでございます。生き残る意味があるのでしょうか。

 妻とのこれまでの暮らしや思い出が走馬灯のように脳裏をよぎります。


 「ピュー!」


 また口笛が鳴りました。

 一階にいる彼女もまた危険なはずです。


 私はなんとか最後の気力を振り絞り、窓へ進みます。

 下の光景は見たくありませんでした。

 妻の惨たらしい姿など絶対に目にしたくはなかったのです。

 チラリと見た地上には私の叫び声で集まったのか二十人以上のやつらが、こちらに手を伸ばして唸っております。


 私にはもはや慎重に事を運ぶつもりはありませんでしたから、躊躇なく足元から下りていきます。

 窓が足元に近づいてきました。

 やつらの指先ももう目と鼻の先です。

 いえ、やつらの一人の手が私の足に触れました。

 冷たい死の感触が致しました。


 「山岡さん早く!!」


 私の足に触れた一人が窓から突き出たモップの柄で突き倒されました。

 その隣の一人も同じく。やつらが私の足にしがみつくのを李さんが懸命に阻止しているのでございます。


 「山岡さん、飛んでください!!」


 私はやつらの手を蹴ってその反動で窓から室内に飛び込みました。

 やつらは窓をよじ登って突入することはできないようで、ただただ大きな唸り声をあげております。

 李さんがすばやく窓を閉じました。

 そしてブラインドを下ろします。

 やつらが激しく叩くので窓が割れ破片が飛び散ります。


 「こっちです」


 李さんが私を連れ、大浴場の脱衣室の奥へと進みます。

 タオルを渡され、私は両手をくるみました。

 周囲にやつらがいないことを確認すると、私たちは同時にその場に倒れ込みました。

 先ほど泣き叫んだからでございましょうか、喉がカラカラでございました。


 「ビビビ、ビビビ」


 どこらか電話が鳴る音が聞こえてきます。

 見渡すと洗面台の横に内線用の電話が置いてあり、それが鳴っているのです。

 私はしばらく無言で李さんと顔を見合わせていましたが、やがて意を決して立ち上がり、受話器をとりました。


 壁に掛けられている時計がふと目に入りました。


 午後十二時十五分。


 そうでした。今考えれば「赤口」の日は午後一時までは吉なのでございました。


 この続きはまた次回とさせていただきます。


 それでは一度失礼させていただきます。




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