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第5話

第5話


 お待たせいたしました。

 夫婦というものは実に面白いものでございます。まったくの他人同士なのですが、生涯で一番長く傍にいて人生を共に過ごすことになります。

 自分の顔よりも相手の顔のほうがたくさん見ることになるかもしれません。

 何をするにしても、何を決めるにしても相手の承認が必要にもなります。

 まさに一心同体でございます。


 燃えるような恋愛の果てに一緒になる者もいれば、会員登録された中から選び出して結ばれる者もおります。

 死ぬまで添い遂げる者もいれば、あっという間に破局し離婚する夫婦もあります。

 様々なペアがあり、様々なスタイルがあるのですが、肝心要の相性の良し悪しは何で決まるのでしょうか。

 私は専門家ではありませんので詳しいことは分りませんが、経験からひとつ言えることは、夫婦の相性には磁石のような側面もあるということです。磁石のN極は真逆のS極と引合うものですが、同じN極とは反発するものです。ぶつかり合う波長が同じ過ぎるからでございましょうか。出るところと引くところが別々なほうがしっくりいくのでございます。

 夫婦の価値観の点においてもそう思います。

 似すぎるとかえってぶつかり合うのです。自分の知らない世界や価値観を持ってくれていたほうが惹かれ合うものだと思います。相手を受け入れ自分の世界を広げていく、大人は大人なりに成長していくものなのではないでしょうか。


 私と妻の好みというものは大概が正反対でございます。

 もちろん共有できる価値観もあるにはあるのですが、行きたい場所もしたいことも食べたい料理もほとんどが異なっておりました。

 若い頃はよくそのことで衝突したものでございます。(喧嘩になると私は会話をしなくなります。念のためですが私にDVの気はございません)

 結婚当初は相手に合わせるということにストレスを感じておりました。

 私も妻もB型で、相手のルールに縛られたくないという性質もありましたから妥協というものがあまり無いのでございます。


 私はスポーツで共に汗をかき楽しみたいのですが、妻は運動が大嫌いです。無理やり引っ張っていっても渋々で、すぐに飽きて端でタバコを吸いだす始末でございます。

 妻は酒を浴びるように飲みながらカラオケをすることが一番好きなのです。私は酒が弱く、カラオケが大嫌いです(よく妻にリズムが違うと指摘されるので) 互いが歩み寄り、相手の土俵で楽しむことはほとんどありませんでした。


 私たちが共に成長していくにはまだ時間が必要でございました。


 世界がこうなると分っていたらまた別だったのでしょうが……。


 さて、層雲峡そううんきょう脱出編のお話を進めていきましょう。


 九月二十九日午前八時。

 幾分雲行きが怪しい空模様でございました。

 脱出劇がいよいよ幕を開ける時刻になりました。

 先に下りるのは私です。

 二階の窓を叩き割らねばなりません。二階の従業員室にやつらがいるとも限りません。まずは私が先導する必要がありました。


 カーテンや布団の切れ端を即席で結びあげた紐を握りしめ、窓から顔を出します。


 なんという高さでしょうか。


 八階に宿泊したことを心底後悔致しました。

 冷たい北風が容赦なく吹きつけてきます。

 遥か下は灰色のアスファルト。

 そこを彷徨うやつらの姿も随分小さく見えます。

 山のように大きい熊二頭は相変わらずじっとしてやつらの遺体を食べておりました。

 やつらの数がほとんど減っていなかったことにやや失望しながらも、私は頭を振って気持ちを切り替えます。


 手のひらに汗がじんわりと滲んできました。


 「自分のタイミングでいいから。ゆっくり下りろし」


 妻の優しく勇気づけてくれる声もとても遠くに聞こえてきました。


 この紐を持ってここから下りようとするなど自殺行為なのではなかろうか、という疑問と不安が頭の中を駆け巡ります。

 紐が自分の体重を支え切れるのかも未知数でございました。


 私が躊躇して動けなくなる気持ちも分っていただけることだと思います。


 私が勇気を振り絞って外に身を乗り出すに、実に二時間三十分の時間が経過しておりました。

 軟弱者だと笑われる方はぜひ実際に挑戦してみてほしいと思います。(二時間三十分以内にできたら豪華景品をお出ししても構いません)


 午前十時三十分、私はついに両手で紐を握りしめ震える足から先に下りはじめました。


 私の体重は約七十kg、肩に掛けているカバンには食料や衣類などがぎゅうぎゅう詰めに押し込まれております。

 この重さによって結び目がほどけたり、紐が切れた瞬間にジエンドです。

 私はなるべく下を見ず、マイナスな発想はなるだけせず、壁に足をかけながらゆっくりと下りていきます。


 七階、六階、五階……。


 途中突風が吹いて私の身体をいとも簡単に揺るがします。


 やつらの低い唸り声が徐々に大きく聞こえてくるようになり、寿命が縮まる思いでございました。


 ようやく目的の二階の窓に着き、音をたてずに窓を割るためにはどうしようかと思案していると、隣の隣の部屋の窓が開き女性が顔を覗かせました。

 さんです。

 肩までの黒髪が風で靡き、小さく白い端麗な顔には笑顔が浮かんでいました。 黒く大きな瞳が喜びに満ちています。

 はっとするような美人でございました。

 そんな美人が無邪気に手を振ってくるのでございます。

 私もつられて手を振ります。途端にバランスが崩れて足を滑らせ、窓に顔を打ち付けました。ひどく不格好な姿をお見せしたものでございます。その時初めて窓に鍵がかけられていなかったことに気が付きました。窓を開き室内に入ると私は大きく息を吐きました。


 室内は思ったよりも狭く、従業員室というより物置です。

 やつらの姿も見えず、うなり声も聞えてこないことに安堵し、急いで窓から顔を出します。

 李さんが嬉しそうにまた手を振ってきます。当然私も手を振りながら、頭上のは八階を見上げました。

 妻も私が到着したことは確認したはずです。

 問題は妻がここまで到着するのにどのくらいの時間がかかるかでございます。 事前に他に方法が無いことを十分に説き伏せてきましたから諦めることはないでしょうが、外に踏み出す勇気はそう簡単には沸いてこないでしょう。

 私ですら心の準備に二時間三十分もかかったのですから。

 日が暮れるまでにはなんとか下りてこられれば、という心境でございました。


 「ボーッウ!!」


 蒸気機関車の汽笛のような音がどこからか聞こえてきました。


 周囲を見渡してみると、驚きました……あの大きな熊が立ち上がって次の獲物に襲いかかっているのです。

 その大きさたるや簡単に二階の私に届きそうなほどでございます。

 歩いている一人を前足で地面に抑えつけ、口を開いてその巨大な牙を頭にたてます。

 力強く首を振ると粘土の人形のように人間の身体が背骨から真っ二つに裂けました。

 大量の血やら臓器やらが地面に撒かれます。

 熊はまずそれを美味しそうにペロペロと舐めだしたのです。


 その時、紐が強く揺れました。


 私は驚いてまた頭上を見上げます。


 なんと妻がすでに六階まで紐を伝って下りてきているのです。


 妻はなんら躊躇なくスタートをきっていたのでございます。


 やはり女は度胸……なのでござましょうか。


 関心しながら妻の動きを見守っていると、そのまた頭上に何かチラチラ見えます。

 手のようです。

 八階の窓から誰かが手を振っています。

 いえ、八階には私と妻の二人しかいなかったはずです。

 私は付けっぱなしのソフトコンタクントレンズの調子が悪く、時折視界がぼやけるのを必死に調整し確認します。

 その手は明らかに獣の腕でございました。

 そして次の瞬間窓から頭が飛び出してきました。


 熊です……。


 信じられないことですが、八階の私たちの籠城していた部屋に熊が入り込んでいたのです。

 妻は逃げるように飛び出してきたのでしょう。

 外の二頭に比べると小さくはありましたが、動物園の熊より二回りは大きいように見えました。

 窓から顔を突き出した熊は私と妻を発見し咆哮します。


 「グウォー!!!」


 妻が怯えて手を止めました。

 悲鳴を押し殺して我慢しております。

 熊が動くたびに紐が大きく左右に揺れました。

 ずり落ちるのを妻は両手で紐にしがみつき堪えます。


 五階と四階の間で妻は動けなくなってしまったのです。


 大きな影が私の視界に入りました。地上の大きな熊の一頭が私たちに気づいたのです。涎をまき散らしながらゆっくりとこちらに近づいてきます。一歩踏み込むたびにズシリという重い足音が致します。


 はたと気づくと李さんが窓のサッシに足をかけて強引にこちらに向かって来ようとしておりました。

 私は急いで用意してきたもうひとつの紐を李さんに投げて渡しました。

 こちら側で結ぶ場所を室内で探すのですが柱のようなものがありません。


 「山岡さん!支えていてください!」


 窓の外から李さんの声がしたと思うと、紐が一気に引っ張られました。

 室内の壁に足をかけて私は必死に堪えます。

 物凄い重量を感じました。

 後で聞いた話ですが、この時李さんは紐を片手に壁を蹴りながら弧を描いて熊の鼻を掠めてこの部屋に近づいたそうです。もはや曲芸の技としか言いようありません。

 向かって右側に李さんの部屋があったはずなのに、左側から勢いよくこの部屋に飛び込んできたのには驚きました。


 李さんとは無事に合流できましたが、妻が未だに宙ぶらりんの状態です。

 巨大な熊が鼻息荒く二階の私たちの部屋を覗き込もうとしている寸前でもありました。

 李さんの声に反応してやつらも大きな唸り声をあげ始めております。


 おそらくぶら下がった妻の姿もじきに発見されるはずです。

 

 私にはもう妻を救出する手段がありませんでした。


 妻が握力を失い、落下するのは時間の問題でございました……。

 

 夫婦の運命は実に様々でございます。


 この続きはまた次回とさせていただきます。


 それでは一度失礼させていただきます。



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