1章 終幕 神奈川県横浜市 特別編
第15話 神奈川県横浜市 特別編
中学、高校時代と恋愛に興味が無かった。
興味が持てなかったと言ったほうがいいかもしれない。
古いアパートに家族四人。狭い空間の中で日々小言を聞かされ、机に向かって勉強をし、朝学校に行ってなんとなく時間だけが過ぎ、自宅に帰ればまた小言。 自分を変えたいとか、他人に憧れるとか、そんな心の余裕がまったく無かった。
とにかくここから一日も早く抜け出したいと、そのことばかりを考える毎日だった。
大学受験に失敗し、浪人生活に突入するとさらに心は荒んでいった。
そのうち、予備校からも足が遠のき図書館で受験に関係ない本や新聞記事に目を通して一日が過ぎていくことが多くなる。
焦りもあったが、気力が沸かない。
こんな状態で横浜の国立大学に合格したことは奇跡に近い。センター試験でまぐれでとれた事が、結果として合格に繋がった。
ようやく家を出られる。
とにかくそれが一番うれしかった。
窒息死寸前だったのだ。
気が狂う一歩手前だった。
横浜は都会だった。
何もかもが新鮮で、活力に満ち溢れていた。
今までの人生のわだかまりが一気に放出されていく。
ゼミの仲間と朝まで飲んで馬鹿騒ぎ。
慣れないバイト。自分で稼ぐ充実感を知った。
自分の興味のある勉強だけを行うことができる。自由な環境。
独り暮らしは何かと不便ではあったが、水を得た魚のように毎日が楽しい。
そんな生活のなかで、恋愛に目覚めたのは大学入学から半年が過ぎた頃である。
相手は区役所の職員。歳は二十三歳。
窓口で出会った瞬間に電気が走った。
さらに声を聞いて夢中になった。
区役所に毎週通うようになり、時間があればずっと待合席から受付の対応をしている彼女を見守った。一日六時間滞在し続けたこともある。彼女が区役所の飲み会に参加すると聞いたときには友人とその店に行き、隣のテーブルでずっと眺めていたこともある。
肌は雪のように白く。結んだ黒髪の間から見えるうなじははっとするほど魅力的だった。黒く丸い瞳は猫のようで、微笑むと濡れたように輝いた。唇は厚く艶やかで、そこから発せられる声は力強くもあり可愛らしさもあった。
カラオケボックスで歌っているところを覗き見たときに微かに聞こえた歌声も素敵だった。
毎日、彼女のことばかりを考えるようになった。
寝ていても、彼女は今どうしているのかが気になって落ち着いていられない。 苦しくて胸が痛い。
その後、あらゆる手を使って彼女の住んでいる住所、電話番号、メールアドレスなどを入手し、時々は彼女の家の玄関まで行ってみるようになった。
なかなか緊張して呼び鈴に手をかけられない。
一日に何度か彼女の携帯電話に電話するものの、彼女の声を聞いた瞬間に何も言えなくなり電話を切るといった日が続いた。
メールは何度も送った。夏休み中は毎日一時間に一回、日に二十四回は休まず送り続けた。
返答は無かったが、自分の気持ちは確実に伝わっているはずであり、彼女が自分の愛に応えてくれるようになるまでそう時間はかからないという確信もあった。
彼女は趣味で合唱にコーラスをやっていた。コンクールは必ず観に行ったし、その日の夜は彼女の打ち上げパーティが終わって帰宅するより先に彼女の家に行き、ケーキなどの贈り物を玄関のドアにかけておいた。
まあ、「サプライズ」というやつである。
時が経つにつれ気持ちも高まっていき、自分がここまで一途に人を愛することができるのかと驚くとともに、一向に彼女との距離が縮まらないことにももどかしさを覚え始めた。
恋愛について初心者のためか自分が何をしたいのかよくわかってはいない。
友人からは告白して付き合えと言われるが、今一つピンとこない。その辺のカップルよりよほど強い恋愛感で結ばれているという自負がある。今更そんな形式じみたことが必要とも思えない。
とにかく、彼女をずっと見ていたのだ。ずっとそばにいたい。二十四時間くっついていたかった。
彼女に男の気配が無い訳ではない。
会社には同僚もいれば上司もいる。スタイル抜群の彼女にモーションをかけてくる男たちも少なからずいるだろう。それを考えると夜も眠れない。自分以外の男と彼女が一緒にいるなど許せるはずもない。自分の気持ちに気づいていながらそれをするのであれば完全に裏切り行為である。いや、彼女がそんなことをするはずがない。仮にそれをするのであれば、きっと勇気を持って告白しない自分に焦れてのことだろう。
まあ、「駆け引き」というやつである。
九月に入って、彼女が北海道に旅行に行くという話を耳にした。
相手は一体誰なのか血眼になって情報を探したが、結局幼馴染の子との旅だとわかった。
もちろん自分も一緒に行くことになる。
行きの飛行機の時間から旅先の宿泊先まで徹底的に調べ上げた。
宿はすべて隣の部屋を押さえた。これで彼女の寝息を聞きながら眠りにつくことができる。女同士、恋の話もすることだろう。聞いていて話の流れ次第では彼女の部屋に行き、直接この気持ちを伝えても構わない。
九月二十六日、北海道の旭山動物園でゆっくりと時間を過ごした後で、一時間ばかり離れた場所で宿をとっていた。層雲峡という温泉街である。
彼女が部屋を出て、温泉に入りに行く度に、部屋のドアを少し開いて彼女が浴衣姿で歩く後ろ姿を堪能した。
この興奮は抑えきれない。
その後、廊下で足音がするたびにドアを少し開いて確認した。歩いているのは従業員ばかり、彼女はなかなか戻って来ない。でも待っている時のこのドキドキがたまらない。わざとじらしているとしか考えられないほど、彼女の温泉の時間は長かった。もしかしたら自分が付いて来ていることに気づいているのでは、とすら邪推してしまうほどである。
夕食はバイキングだった。
客が少なかったので、距離をかなりおいて席に着く。
楽しそうにおしゃべりしながら食べている彼女を見ているとこっちも幸せな気持ちになる。化粧を落としたすっぴんの顔も綺麗だ。
こんな楽しい旅行は初めてだった。
恋愛がこんなにも日々の充足感を満たしてくれるということも実感することができた。
そう、あんなことさえ起きなければ。
宿泊施設内が突如暴漢たちに占領されたのが、九月二十六日の午前二時ごろ。
サイレンとともに場内アナウンスが流れ、事態の深刻さを物語っていた。窓から外の駐車場を見渡してみると、確かに怪しげな動きをしている不審者の姿があった。
彼女は友人を部屋に残し、露天風呂に行ったまま戻って来てはいない。
自分が連れ戻しに行けばいい話だが、それも何かまぬけな話だ。風呂に女性を探しに行くなどロマンチックではない。
しかし、彼女に何かあったらそれこそ後悔してしまうだろう。
フロントに内線しても繋がらない。
こうなると誰かに頼むしか手はない。
片っ端から宿泊客に内線してお願いしていこう。女連れの客がいい。
念のために三件はお願いしていくべきだろう。
救出された後に、きっと誰がそこまで手配したのかという話になるだろう。
顔を見せるときはその時でいい。
まあ、これも「サプライズ」というやつである。
三十分後、高橋守は八階の山岡朝洋に恋人の石和麻由希捜索の依頼をすることになる。
そして、石和麻由希に向けられていた彼の想いは、やがて全て山岡夫婦に向けられることになる。
憎しみに形を変えて……。




