第10話 栃木県日光市 2
第10話 栃木県日光市 2
山崎裕香ら中学二年生の一行は、宿泊研修のため栃木県日光市を目指していた。
「あの日」九月二十六日、早朝に東京都を出発したバスは、午前九時には目的地の東武ワールドスクエアに到着する予定であった。
ここには世界中の文化遺産がある。
パルテノン神殿、クフ王のピラミッド、アンコールワット、アメリカ合衆国の自由の女神から日本の法隆寺まで五十近くの世界遺跡が一度に見ることができる場所だった。
二十五分の一サイズに縮小されたものではあるが、その精巧な作りは実物を彷彿とさせる。
ロマンチックな雰囲気で、カップルにも人気がある。
今回は社会科担当の佐々木先生の強い推しがあり、宿泊先に到着する前にここに寄ることになっていた。
先生方曰く、「社会見学ではなく、これは世界見学である」と。
しかし状況は一変している。
この地に生徒たちを連れてくることを楽しみにしていた当の本人、佐々木先生ですら険しい表情でバスの先頭に立ち、運転手と何か言い合っている。
先ほどまでは他のバスに乗り込んだ先生方と連絡を取り合っていた携帯電話も生徒たち同様に使用出来なくなった様子であった。
「キャー!!」
バス内で一斉に悲鳴。
運転手が急にハンドルをきったため、生徒たちの身体が投げ出されたのだ。
裕香も悲鳴を発し前方の席に必死につかまる。
窓の外を見た。
車が二台止まっていた。
こちらの車線でも事故があったらしい。それを回避するための急ハンドルだったようだ。
おかしい……普通ならば止まるはずなのに。
「いいから、とにかく止まらず進め!」
佐々木先生の怒鳴り声が聞こえてきた。
どうやら運転手に命令しているらしい。
「いいか、多少荒っぽいことになるからシートベルトを締めて、しっかりつかまっていろよ。何があっても道の途中では止まらん」
佐々木先生自身もかろうじで立っているような状態で、後ろを振り返りながら裕香たちにそう宣言した。生徒たちは唖然として先生と外の景色を見比べる。何が起きているのか誰も理解できていない。
信号でバスが止まった。
東北自動車道からはすでに下の道に下りていた。
佐々木先生もさすがに信号無視までは指示できなかったようである。
バスが止まったことを確認すると、みんなふーっと大きく息を吐いた。
裕香の隣に座っている藤野由比は蒼い顔をしてうつむいていた。その手を握り励ますと、由比は引きつりながらも笑顔を裕香に向けた。
「ドン!!」
窓の向こうで音がして、裕香と由比がビクリと身体を振るわせた。
「裕香、何?」
窓側の裕香が恐る恐る外を窺う。
「ドン!!ドン!!」
誰かがバスの車体を叩いている。
中年の男の姿。その横には奥さんだろうか、小学生らしい子どもも二人。
男が何かを叫んでいた。
一瞬だが男の血走った目と合った。
「早く進め!!」
佐々木先生の声。
バスが急発進し、また車内には生徒たちの悲鳴があがった。
その時、裕香は見ていた。
外にいる家族に襲い掛かる集団を……。引き倒し、十名以上の男女がそこに覆いかぶさった。あっと言う間の出来事。現実とは思えない光景だった。
「裕香?」
由比は見ていない。
裕香は無言で由比の手を握りしめた。
何か恐ろしいことが起こっている……。
その後、何度かバスが傾きそうなほどの急ハンドル、急ブレーキ、急発進と荒い運転を続けたが、生徒たちも慣れてきて悲鳴をあげることはなくなっていた。とにかく必死につかまって到着を待っている。
車酔いした者が続出し、車内には酸っぱい匂いが充満していた。
「着いた」
通路側の由比が前方を確認し声を上げた。
時刻は午前九時四十五分。
この状況で目的地に到着したこと自体が奇跡なのだが、この時にはそんなことを誰も知りようはずが無い。
実際に指揮を執っていた佐々木先生も状況はよく呑み込めていなかったのだ。
暴徒の危険性だけを途中で通知されていただけだった。
兎にも角にも目的地に到着し、生徒たちにも一応に安堵の表情が見られた。
裕香は窓の外の様子を隅々眺める。
異変を探す。
開園から四十五分ほど経過しており、駐車場には数台の車が停まっている。
A組のバスから遅れること五分、B組のバスも到着した。
外を歩く人影を探す。
いた……。
明らかに歩調のおかしい集団がB組のバスに続いている。
裕香からは死角に入って見えてはいなかったが、この時、メインゲートの方からも集団がバスに近づきつつあった。
「由比、由比、早く降りよう」
異変を察して裕香がしきりに由比を促す。
バスは駐車場に到着し、ドアが開き、佐々木先生が早く降りるように指示していた。が、みな具合が悪そうでなかなか立ち上がれない。無理もない。ありえない運転に付き合わされてきたのだ。
「私、胸が悪くて、裕香、ちょっと待ってて」
由比もそんなひとりだった。
裕香はその背中をさすりながら声をかける
「外の空気を吸おうよ。きっと気分も良くなるから。さ、早く」
そう労りながらも外の様子が気が気ではない。
「わかった。そうする」
そう答えると由比も渋々立ち上がり、通路を進んだ。
席でぐったりしている級友たちはまだ半数はいた。なかなか動こうとしない生徒たちに佐々木先生がどやしつけている。
「裕香と由比か。体調は大丈夫か。よし、入口で待ってろ」
二人は、「わかりました」と返事をしながらバスを降りた。
「え?何この匂い」
新鮮な空気が吸えるかと思いきや車内よりも異臭がする。
由比は途端にその場にもどした。
同じような光景が駐車場内に広がっている。
裕香は持っていたペットボトルの水を由比に飲ませ、ハンカチで口を拭いてやった。その間も何かがにじり寄ってくる気配を感じる。
A組のバスからは、後ろに座っていた住吉太一らが降りてきた。野球部の所属の彼らはこんな状況でも幾分元気そうである。
「なんだよこれ、芥溜めの匂いじゃん」
「うえー、俺も吐きそうだわ」
「あれー?由比ちゃんどうしたの?まさか吐いちゃった?」
裕香と由比の姿を見るとおかしそうにそうはやし立ててきた。
由比がジロリと彼らを睨んだ。いつもならば負けずに言い返すのだが、この時は随分と弱っていた。舌打ちをしてうつむいただけだった。
「おい、見ろよ!なんだこりゃ……」
メインゲートに到着したところで、後ろを歩く住吉が喚き始めた。
裕香と由比も顔を上げて振り返る。
至る所で具合が悪くうずくまる生徒たちの姿。
そこに寄り添う警備員や係員の人たち。介抱しているのだろうか。
誰かが悲鳴をあげた。
ここら一帯が唸り声に包まれていることに気が付いた。
みんな襲われていた……。
首に噛みつかれ痙攣している者。
皮膚を食い破られ悶える者。
悲鳴に悲鳴が重なる。
鮮血が中を舞う。警備員や係員、一般市民の口からは滴る血。
血まみれの制服の残骸があちらこちらに散らばった。
A組のバスから引きずり出される佐々木先生。
そこに数人が群がり食らいつく。
そこからあぶれた者は我先にとバスの中に駆けこんでいく。
やがて、バスの中からも悲鳴。
いくつもの悲鳴と唸り声が折り重なり、裕香らの耳をつんざく。
裕香たちはあっけにとられて眺めているばかり。誰もその場から動けない。
C組のバスが到着したかと思うとブレーキも踏まずに裕香たちの近くのゲートに頭から突っ込んだ。
凄まじい衝突音。
窓が割れて数名の生徒が車外に投げ出される。
やつらはあっと言う間にそこに群がった。
うめき声を上げながら倒れている者に食らいつく。
「ギャー!!!!」
その光景を目前にして、由比が絶叫した。
みんな我に返り、走り始める。
「行くよ由比」
裕香も由比の手をとって、屋内へ走った。
おそらくこの時点で半数以上の生徒たちが犠牲になったと思われる。
生き残った生徒たちには地獄が待っていた。




