第8話 群馬県高崎市 後編
第8話 群馬県高崎市 後編
大学二年生の上田和也が、同じく学生の村上京子と高崎駅西口のネットカフェに逃げ込んでから七日が過ぎていた。
当時店内には店員や上田、村上を合わせて十三名いたが、現在は八名まで減少している。
外の様子を見に行って戻ってきた者はいない。
外から訪れる人も誰もいなかった。
ドアには鍵をかけ、すべての窓のカーテンを下ろして完全に外との交流を断っている。
居住スペースは余裕があったし、食料も豊富。
店内に隠れ住む者同士での諍いは今のところ無い。
インターネットで外部の情報を得られることも大きなメリットだった。
あのままホテルの一階にいたらと思うと、ここに逃げ込むことができたことは不幸中の幸いである。
気がかりなのは村上の腕の傷だけだった。
救急箱が店内にあり、看護学校に通っていたことのある者に応急処置をしてもらって一安心していたのだが、最近になって状態が変わってきている。
まず、一日のなかでほとんど食べ物を口にしなくなった。
食べてももどす。
身体が受け付けない。
飲料水はわずかに口にするものの明らかに日増しにやせ細っていた。
立ち上がることも少なくなり、リクライニングシートで横になって眠っていることが多い。
上田はこのまま村上が死んでしまうのではないかと心配で仕方がない。
医者に診せようにも外には出られなかった。
時折、カーテンを少しだけ開けて外の様子を窺ってみる。
走る車の姿はまるで無く、代わりに歩道、車道問わずに歩く人の群れ。
うめき声を漏らしながら、一定の区間をそれぞれぐるぐると彷徨っていた。
健全な人間では無い。
上田にはそれがホテルのフロントで見たあのおぞましい感染者なのだということがわかっている。
生きた人間を見つけて走り出す姿も何度も目撃している。
恐ろしいほどの全力疾走だった。
上田も足には自信があったが、この集団相手ではとても逃げきれないだろう。
やつらが鎮圧されない限り、ここを出ることはできないのである。
ネットでは連日のように「国防軍」の活躍が流れていた。
最新鋭の装備でやつらを駆逐していっているそうである。
だが、進軍はこの高崎市までには至っていない。
いずれはこの街にも平和が訪れるであろうが、それまで村上の体力が持つ保証は無かった。
「和也くん、鳥取の話をしてよ」
一日の内、数時間は村上は目を開けて上田と話をしたがった。
そんなとき上田は必ず村上の手を握り、故郷の話をしてあげていた。
「行ってみたいな」
どんな話をしても必ず村上はそう漏らした。
「落ち着いたら一緒に行こう」
元気づけようと上田はそう答えてきた。
「彼女には電話つながったの?」
そう問う村上の笑顔は変わらない。
その話だけが上田の心を鋭く揺れ動かす。
「きっと心配しているよ彼女」
「ああ。大丈夫だよ。あっちは家族と一緒にいて安全らしいから」
「彼女も和也くんにきっと会いたいだろうね」
率直な村上の感想なのだろう。
悪意は感じられない。
それが余計に切なかった。
「さあ寝ようか。そばにいるから」
「ありがとう、和也くん。あの日、和也くんに会いに来ていて良かった」
そう言いながら村上は静かに眠りについた。
十日を過ぎた頃から村上は会話も満足に出来なくなった。
傷口は治りかけていたが、全身に緑の斑点が浮かび上がってそれが大きくなってきた。
肌が乾燥しきってボロボロになっていた。
そして悪臭。
まるで腐った生ごみのような臭いが強くなってくる。
上田は毎日、何回もタオルを水に濡らして村上の身体を洗った。
ホテルのフロントで交わってから幾日しか経っていないのに、まるで別人のような肌。
タオルで擦り過ぎると血が滲んでくる。
上田は泣きながら村上の腹部の肌に額をつけた。
代われるものなら代わってあげたい。
店内に住む人たちから苦情がくるようになった。
店内に立ち籠る異臭がどうしようもできない。
空調のための換気扇は一日中回してあったが、あまり効果は無かった。
窓を開けることなどできやしない。
我慢するより仕方が無いのである。
やがて、この店を出るように他の住人たちが迫ってきた。
上田は土下座をして頼みこみ、その時はどうにかなったが、どんどん匂いは強くなる。
十五日目、彼らの我慢の限界を超えた。
食料の配給を止められ、上田と村上は二択を迫られることになった。
この店を追い出されるか、トイレの一室に移り住むかである。
村上を追い出すのであれば、上田はここにいてもいいとは言ってもらった。
その提案に村上は笑顔で快諾した。
彼女はもはや死期を悟っていたからだ。
好きな人の負担にはなりたくなかったし、自分から異臭を発してその人を苦しめていることも我慢できない。悩むことなど何も無い。話せることならむしろそうしてほしいとお願いしたいぐらいだ。
しかし、上田は最後まで抵抗した。
国防軍さえ来てくれれば解放される。それまでの辛抱なのである。
それまでは泥をすすっても生き延びる覚悟だ。
言葉を口に出来なくなった村上は涙を流しながら首を振って拒否したが、上田の決意は変わらない。
布団をトイレの一室に運び、便器の横に敷いた。
そして、村上を抱きかかえながらそこに連れていく。
二畳も無いスペース。
上田までがそこで寝る必要などないのだが、ピタリと寄り添って二人は寝た。 外でやつらに囲まれて寝るよりかははるかにましなのだ。
人間としての尊厳を踏みにじられる行為であっても今は耐えるしかない。
生きていれば幸せな日々は取り戻せる。
インターネット上では、国防軍のニュースが次第に流れなくなった。
症状に関する憶測が飛び交い、生きている者たちの絶望の声ばかりがアップされる。
もしかしたら世界はこのままなのかもしれない。
この状況下で人間は生き続けていかなければならないのかもしれない。
それでは、村上はどうなるのか。
このまま腐っていくように寂しく死んでいくしか無いのか。
怒りと絶望が上田の心を占めるようになっていった。
寝るときは必ず村上のそばに寄り添った。
呼吸が出来ないほどの異臭。
村上にも以前のような笑顔はない。
殺してくれと言わんばかりの悲しみに満ちた表情をしていた。
上田は背中から村上を抱きしめて眠る。村上の肌からは何かの液体が絶えず流れ出ていた。
十八日目、村上の目から光が消えた。
死んではいない。
生きている。
その証拠に声を発している。うめき声、唸り声に近いかもしれない。
外の連中と同じもの。
身体を動かそうとする様子も見られる。
ただ、上田が傍に寄ると落ち着いて静かになった。手を握ると安心して眠りにつく。
二十日目、立ち歩くようになる。
もう十日間は食べ物も水も口にしていないのに体力が回復してきているのだろうか。
五日間食べ物を口にしていない上田は、空腹と疲れで意識が朦朧としている。 トイレ内でぐったりしていることが多くなった。
狭いトイレ内を村上がうろつく。
しかし上田を踏むことは無い。
二十二日目、原因はわからないがネットカフェがやつらに占拠された。
もはや店内に生きている人間はいない。
彷徨う足音が至る所から聞こえてくる。
そんな声に反応したのか村上はトイレのドアの前に立ち尽くして動かない。
上田がまどろみながらも村上の手をとる。
そのまま布団に引き寄せた。
目は開けない。
身体の感触だけが伝わってくる。
頭をなぜた。
低い唸り声が聞こえてくる。
上田はふーっとひとつ大きな呼吸をした。
気のせいだろうか、臭気に慣れると随分と空気が美味しく感じる。
森林浴をしているような錯覚。
唸り声が少しずつ大きくなってきた。
上田は何かやり残していることがあるような気持ちがしている。
何だったのだろうか……。
思考回路は止まったままだ。
村上が目を見開いた。
口元から白い涎がこぼれて、上田の服にべっとり付いた。
上田は終わりを実感した。
しかし、この心残りは何なのか……。
村上が大きく口を開く。
上田の首筋に食らいつく。
そうか……。
ずっと我慢していて言えなかったことがあった。
言っても信じてもらえないと諦めていた言葉。
温かな血が流れ落ちていく感触。
上田はそれでも村上を抱いたまま離さない。
「……京子。キミを愛してる……」
上田が最後の力を振り絞り、ライターの火をつけた。
布団には十分に油が染み渡っている。
随分前に準備したことだ。
火はトイレ内に一気に燃え広がった。
 




