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第7話 群馬県高崎市 中編

第7話 群馬県高崎市 中編


 「あの日」九月二十六日(月)早朝、ビジネスホテルのフロント業務時間に上田和也うえだ かずやは、知り合ったばかりの村上京子むらかみ きょうこを控室に連れ込んでいた。


 本能の赴くままに愛し合った二人は、ソファーの上で抱き合いながらまどろんでいた。


 不意に、フロントの方で音がした。

 何かが割れる音。

 上田は飛び上がるように起き上がり、急いでフロントへ向かう。


 同時に正面玄関の自動ドアが開き、宿泊客が戻ってきた。 

  

 五年前からずっと五一三号室に泊まっている女性客である。

 マンション代わりに使用しているのだ。

 正社員からは隣の風俗店で働いているのだと聞いたことがあった。

 三十代半ばぐらいだろうか、いつもむせ返るほどの香水を焚いている。

 毎日のようにフロントへ高級そうな洋服をクリーニングに出してほしいと持ってきた。袋を手にするとさらに強い香水の香りがして胸が悪くなった。


 正面玄関とフロントの間は十mぐらいだろうか、その間に二十席ほどのレストランがある。

 ブラインドはすべて閉め切ってあって室内は薄暗い。

 その女性がレストラン前を通り過ぎ、フロント目前に迫ったとき、背後から誰かがその背に乗りかかった。

 女性はその重みでガクリと膝を落とす。


 この女性がらみのトラブルは何度か目撃したことがあった。

 四十歳ぐらいの男性が何度も部屋を尋ねに訪れたり、その奥さんだと思われる方がフロントに泣きながら怒鳴り込んできたり、その方に殴られたのだろうか頬を真っ赤にしながら帰宅してきたこともあった。


 上田の頭は寝ぼけている。

 このたぐいのトラブルには係わらないようにしよう、とぼんやり思ったぐらいだ。君主危うきに近寄らず。


 「ぎゃああー!!!」


 目の前で、信じられないぐらいの悲鳴を聞いて我に返った。


 イサムノグチ作の芸術的な照明が照らし出した光景は、目を疑うものであった。

 老人が、女性の背に乗りかかり、その首筋に噛みついている。

 水鉄砲のように勢いよく血が噴き出す。

 照明が揺れた。

 女性は悲鳴をあげながら、信じられないといった表情で上田を見つめていた。


 その声を聞いて控室から村上もフロントに出てきた。

 熱が冷め切らないのか、まだうなじの辺りがピンクに染まっていた。


 「なにこれ……」


 眼前に広がる異常な光景に、村上は絶句して立ち尽くした。

 上田は震える手で、当番の社員が仮眠をとっている三一四号室の内線を鳴らす。

 その間、一歩も動けない。

 声も発することができなかった。


 「……もしもし、どうしたの上田くん」


 「若尾さんですか。大変です。あ、あの、お客さんにおじいさんが襲いかかってます。早く降りて来てもらっていいですか……」


 「え?おじいさんが何しに来たって?」


 「五一三号室のお客さんに噛みついているんです。いいから早く降りてきてください」


 「ハア?……って、今何時?」


 「いいから早く!!」


 日頃からマイペースな社員だった。

 イライラしながら受話器をおいた。


 老人はずっと女性の首に顔を埋めたままで、女性はついに前のめりに倒れた。


 「ちょ、ちょっと京子ちゃん」


 村上が一端控室に戻り、ぐるりと一周してフロント前に来た。

 明らかに女性を救出しようとしている。

 近寄るが、周囲に飛び散った血の量に圧倒されて触れることができない。


 「危ないから、近寄らないほうがいいよ。いま、社員の人が来るから」


 そう言って上田はフロントから出ようとはしない。

 足がすくんで出られないのだ。


 「そんなことを言ってたら、このひと助からないでしょ!早く救急車呼んで!」


 「そ、そうか」


 村上に促され、上田は電話をとった。

 何度ダイヤルしても繋がらない。


 「なんだこりゃ。警察にも繋がらない。駄目だ京子ちゃん、電話が使えない」


 上田のパニックになった声など村上の耳には届いてはいない。

 

 村上は意を決して老人の髪に手をやった。


 凄まじい異臭が鼻をつく。


 「いい加減に離しなさいよ!!この変態野郎!!」


 怒号とともに渾身の力を込めて引き離そうとしたが、まるで吸盤のように女性に引っ付いていた。


 「痛い!」


 老人の爪が、村上の腕に食い込んだ。


 村上の白い肌に血が流れる。


 「京子ちゃん!」


 上田がフロントを乗り越えて、老人へ肩から突進すると、老人は吹っ飛んで垂れ下がった照明に激突した。

 手が離れた村上は倒れ込んで腕の傷口を押さえた。


 エレベーターの開く音。

 ようやく社員の若尾徹わかお とおる一階に降りてきたのだ。

 首を回し、あくびをしながら向かってきた。


 「どうしたの、え?ちょっと、ちょっと大丈夫ですか!?お客さん」


 女性が二人、一人は首から大量の血を流しながら倒れ、もう一人も腕から血を流しながらひざまずいている。

 端には老人が呻きながら転がっており、バイトの上田が蒼白な顔色で立ち尽くしていた。

 辺りは赤いペンキを巻き散らかしたような有様。

 驚きながらも若尾は倒れている女性に近寄った。

 上田は息を切らしながら村上のもとに向かい、肩を抱く。

 村上は恐怖と驚きで涙が止まらない。


 「上田くん、救急車、救急車呼んで!」


 「それが何度やっても繋がらないんですよ」


 「繋がらない?とにかく何度もかけてみて」


 そう言われて上田は村上を抱えるようにしてフロントの控室へ戻った。

 控室には救急箱がある。

 それで村上の傷は処置できるはずである。


 「上田くん!タオル!タオルとって!」


 救急箱を探す上田に、向こうから催促する若尾の声。

 上田は舌打ちしてそこにあったタオルを手にフロントへ。


 「若尾さん、救急箱ってどこにしまってあったんで、し、た、か……」


 さっきまで女性を介抱しようとしていた若尾の姿がない。


 いや、厳密にはあった。


 床に倒れていたのだ。


 そこには元気を取り戻した老人の姿があった。

 若尾の頭に噛り付いている。

 瀕死の重傷だったはずの女性もなぜか若尾の手に噛みついていた。

 そして掃除のおばさん。

 口の周りの肉がごっそり剥がされている状態で若尾の顔面に食らいついていた。


 若尾は上田に何かを言ってきた。


 声にならない声。


 口を開いた瞬間におばさんがその口の中に噛みついて舌をもぎ取った。

 手の平に噛みついた女性はそこから指を噛み切って、ボリボリと食べ始めている。


 三人が三人とも歓喜の声をあげていた。


 上田は後ずさりして控室へと戻る。


 村上は不安そうな表情で、

 「どうしたの?あっちでまた何かあったの?」


 「逃げよう。ここにいたら危ない」


 そう答えて、村上の手をとった。

 控室を飛び出し、裏口から外へ出る。


 すっかり朝だ。

 快晴の空が一面広がっていた。

 しかし、地上の光景はいつもと変わっている。

 けたたましいサイレンの音があらゆる方向から聞こえてきた。

 走り回る人たち。悲鳴。車の衝突音。

 唸り声と歓喜の叫び声。

 深刻な状況になっている。


 やつらがいる。

 それもかなりの数だ。


 上田はどうすべきか悩んだ。

 動きがとれない。


 「和也くん」


 「なに?傷が痛む?」


 「ウウン。それよりさっきはありがとう。助けに来てくれて」


 村上は傷口の痛みを堪えながら笑顔を見せた。

 彼女もまた上田に恋人がいることはわかっている。

 別れる気が無いことも話をしていてよくわかった。

 それでも関係をもった。

 接していて上田の事が好きになった。

 身体を合わせてなお好きになった。


 「先に立ち向かったのは京子ちゃんだからね。勇気あるよ」


 上田は村上のその笑顔を見ていて切なくなった。

 自分の身体が二つあれば、きっとこの女性のことを大事にして付き合っていくのに、とも思った。


 左手の路地で誰かが襲われている。

 正面から走ってきた青年が行き過ぎた後、左右からタックルされて地面に叩きつけられた。


 立ち止まっている訳にもいかない。


 二人はとりあえず近くのネットカフェに逃げ込んだ。


 表の騒ぎは中にも届いている。店内は騒然となっていた。


 老人の爪が食い込んだ村上の傷口は、美しい緑色に腫れ上がってきていた。

 


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