第5話 愛知県日進市 後編
第5話 愛知県日進市 後編
森田愛香が大型スーパーの駐車場で、自車の運転席に閉じ込められてから十八日が過ぎた。
事前に購入していた食料も飲料水も尽きてしばらく経つ。
森田は極度の脱水症状に陥っていた。
倒されたシートに横たわる日々がここ二日続いている。
頭痛が止むことがなく、身体にはまったく力が入らない。意識は朦朧とし、一日の大半は死んだように眠っていた。
僅かに首をもたげて窓の向こうを眺めると赤い自動販売機が見える。
電気が通っていないわけでも、故障しているわけでもない。あそこに行き、お金を入れれば水分は補給できるのだ。時間にしてわず一~二分。
しかし、生きてあそこに辿り着くことはない。
この十八日間で多くの人々が犠牲になった。
耐えきれず車を発進し、駐車場を囲う柵に激突する者もいた。
衝撃で運転手は頭からフロントガラスに突っ込み、群がったやつらに頭から貪り食われた。
夜に車を降り、逃亡を図った者も数名いた。
眠っていて森田が気が付かなかったこともあったが、全員が十歩も進めずやつらに押し倒され餌食となった。
無残な姿が明け方に転がっていることも珍しくはない。
誰も彼もが極限状態だったのだ。
もちろん車内にひたすら潜んでいる者もいる。
やつらに食われるのならこのまま餓死したほうがまし。
それが森田と正面の車に乗っている岸田亮の共通した意見であった。
このまま静かな眠りにつくのも悪くはない。最近では森田はそう思っている。 逃げるチャンスも、そのための体力も残ってはいないのである。
森田の車周辺をテリトリーにしている「ハーちゃん」は飽きることなく同じ範囲を同じ歩調で彷徨っている。
森田は幻聴や幻覚を見ることが多くなった。
どこからともなく生徒たちの声が聞こえてくる。
自分の授業をする声も聞こえてきた。
宿題を取り組まない生徒に熱く語る自分。努力の大切さを切々と語っていた。
岸田のメールだけが唯一、森田の現実と幻を繋いでいる。
ただ、返信をする気力も失い、送れても日に一本が限界となった。
命の灯が消えようとしていることを森田は実感していた。
それを避ける術が無いことも十分承知していた。
「嘘でしょ……」
そんな中、月のものがきた。
確かにその周期だった。
まさかこんな期間閉じ込められるとは考えてもいなかったので、生理用品も備えはない。
しかし、この命が尽きようとしているこの期に及んで、なんのための生理なのか。子どもを産む機会など私には残されてはいないのだ。
森田は長年付き合ってきた腹痛を感じたとき、可笑しくて笑い声を発してしまった。蚊の鳴くような弱々しい声。
丁度その時に岸田からメールが届いた。
横たわりながら微かに指を動かし、メールを開く。
「きっと助けは来る。諦めないで頑張ろう!!今晩、僕は自動販売機に挑戦するよ。そしたら二人でたらふく飲もう。僕はコーラを一気飲みするから、キミは何を飲む?」
倒れて動かない森田を心配しての内容だった。
涙がこぼれシートと髪を濡らした。
おそらく自分の中の最後の水分だったに違いない。
森田はもう目が開けなかった。
習慣を頼りにメールを打つ。
「ここまでありがとう。でも、もう無理です。バイバイ」
せめて最後はハートマークにしたかった。
しかしこれが限界だった。
その後二十分で異変が起きた。
まずハーちゃんの動きがおかしくなった。辺りをキョロキョロするようになり、唸り声が獰猛になっていく。
森田から発せられる血の匂いを嗅ぎつけたのだ。
三十分後には森田の車の窓を叩き始め、周辺の連中もどんどん集結してくる。 その数六人。
やつらの興奮がどんどん高まり、車にその身体をぶつける衝撃も大きくなっていく。
森田にはその音も衝撃ももう伝わってはいない。
意識がほとんど薄れていたからだ。
やがて後部座席のガラスが叩き割られた。
一人がそこに頭から突っ込む。
車内に轟く唸り声。
それでも森田の瞳は閉じられたまま。
助手席の窓も割れた。
破片が横たわる森田の顔へと飛んだ。
森田には生徒の誰かがふざけて教室の窓を割ったように伝播していた。
注意しなければならない。
しつけはタイムリーさが大切だ。その場で強く叱る必要がある。
ようやく森田の目が開いた。
運転席の窓もそろそろ限界だった。
窓のすぐ向こうにはハーちゃんが歯茎を剥き出しにして、今か今かとそのときを待っていた。
と、正面の岸田の車のエンジンがかかった。
すぐさま急発進し、森田の車の真ん前にいた男二人を弾き飛ばした。
一人の頭が森田の車のフロントガラスにぶつかり割れた。
岸田はすぐにバックし、今度は森田の車の助手席の連中をはねる。
その勢いで隣の車に衝突し、岸田の運転席の窓が大破した。
それでも動じず、またバックする。
森田の運転席の窓もついに割れた。
ハーちゃんが歓喜の声を上げて森田の肩口に食らいついた。
後部座席に乗り込んだ一人が背後から森田の首筋に噛みつく。
鋭い痛みがあったが、恐怖はなかった。
それよりも、最後に岸田の顔を見たかった。
気力を振り絞り、身体を起こして正面を見る。
ガラスの破片で顔中を切った岸田が必死に運転を続けていた。
次は森田の運転席の方のやつらを駆除をしようとしている。
やつらの一人が砕けた窓の隙間から岸田に食らいつく。
それでも岸田はハンドルを離さない。
近づいてくる車の中から岸田の顔が見えた。
この何日かで随分と痩せたようだ。
諦めもせず、岸田は森田を救おうとしていた。
自分のことばかりで一杯だったから気づいていなかったが、彼は私のことを愛してくれていたのだ。
愛されていたと感じて心が安らいだ。
森田の下腹が痛む。
この人の子どもが生みたかった……。
助手席側からもさらに一人が車内に突入し、森田の顎に噛みつく。
岸田がなにか叫んでいた。
最後にこの男の声が聞けてよかった。
森田は微笑みながら静かに目を閉じた。




