第2話
お待たせいたしました。
先日は初めての執筆で慣れていなかったことと、あの日のことを久しぶりに思い出したために興奮してしまいました。
申し訳ございません。
もう大丈夫でございます。
この二日は中学数学の問題集を予習して冷静さを取り戻しました。
素数を用いた問題が私は好きでして、いかに説明すれば生徒たちにすっと落ちるのか試行錯誤しておりました。
今更何の役にも立たない特技かもしれませんが、これが今の私の唯一の安らぎのひと時なのです。
さて、九月二十六日未明の話を続けることにいたしましょう。非常ベルとともにホテル内にアナウンスが響き渡ったところでございました。
あのけたたましい音は人の恐怖心をあんなにも強く揺さぶるのですね。
心臓に突き刺すような響きが、熟睡していた私の妻を起こしました。
飛び起きるのかと思いきや、妻はゆっくりと身体を起こし、まるで機械のように辺りを見渡しました。
八方を平等に眺めていくのです。
そして襖の向こうの私をみつけました。そこに安堵の表情は無く、青白い顔でサイレンにかき消されるような声を発しました。
「か、火事……火事なの……」
咄嗟の際に素早いリアクションをとれるようになるには訓練が必要なのでございます。妻の挙動はまるでスローモーションのようでした。
私の答えを聞くまでにアナウンスが続きました。
「不審者がうろついております。お客様のみなさまは室内で待機していてください。危害を加える可能性があります。ただ今警察を呼んでおります。けっして部屋を出ないでください」
私はハッとしてドアをみつめました。
透視などできやしませんがね。じっとドアの向こうをみつめました。
妻はその様子に気づき、
「何?そこに誰かいるの?」
先ほどまで酔いつぶれて歯ぎしりをしながら眠っていたにしては鋭い質問です。
私は慌てて口に人差し指を当て、口を開かぬように妻に合図しました。
私は妻よりも幾分冷静でございました。
心の準備ができていたからかもしれません。
正体が掴めたことで気持ちにゆとりはできておりました。
静かなる侵略者も、ここまで開けっ広げになれば退散するしかありません。警察がまもなく到着するという話も私を勇気づけてくれました。
大袈裟かもしれませんが、霧がすっと晴れたような、闇が光に溢れていくような心地でした。
アナウンスにしても、妻が起きたことにしても人は誰か自分側の存在を感じたとき随分と心境は変わるものでございます。
非常ベルが急に止みました。
一瞬耳が聞こえなくなったのかと思うほどの静寂が辺りを包みます。
私は必死にドアの向こうの音に耳を傾けました。
うなり声は……聞こえませんでした。
そう、やつは去ったのです。
私はフウっと息を吐きました。
随分と呼吸をするのが久しぶりだったように感じました。
振り向くと妻が慌ててフロントに電話をしています。
私はこの時になってようやく足の硬直から解放されておりました。
いそいそと寝室に入り、今度は嫁の電話に耳を傾けます。
「ダメ。通じない」
おそらくはホテルの宿泊客全員が心配になってフロントに一斉に電話しているはずです。混線は仕方ない現象でした。
「チェーンロックはした?早くしてきて!」
妻は電話を切るなり私にそう命令をしてきました。気持ちの切り替えの早さは女の特権なのかもしれません。
私は頷き、ドアへと向かいました。
そのときです。
「ぎゃあーーー!!」
女の悲鳴がドアの向こうから聞こえてきました。
それはまるでドアのすぐ向こうから発せられたようなとても大きな悲鳴でした。
みなさんはもう悲鳴など慣れっこになっていると思います。
おそらくそんなことでは驚かないでしょうが、この時の私は、妻も含めてですが、生まれて初めて恐怖に引きつったような悲鳴を聞いたのです。それは映画から流れるものとは違い、指先まで震わす圧倒的な不協和音でございました。
襲われたのです。誰かが……。
こんな近くで人が襲われたのです。
殺人事件が日本中で毎日にように発生していることは、ニュースや新聞の記事で認知はしております。ですが親兄弟はおろか友人に至るまでそのような事件に遭遇したなど聞いたことはございません。
ニュースは常にリアリティを感じられない他人事の話に過ぎなかったわけでございます。
それが今起こったのです。
この状況であなたなら何ができますか?
救出に向かいますか?武器も無しに?相手がどんな輩なのかもわからないのに?
無理でございます。現に私の膝はガクガクと笑っておりました。
妻は物凄い勢いで電話をとりフロントへ……ですが電話はつながりません。
その間も悲鳴は断続的に続きます。
救いを求める絶望的な声量は大きくなっていくのです。
妻は受話器を投げ捨て携帯電話を手にしました。
層雲峡では電波が届かない。なんてことはまったくございません。もちろん昼間も普通につながってました。妻は連泊の感想を実家の母親に電話で伝えていたぐらいでした。
「なんで……」
しかしこの時携帯電話もつながらなかったのです。
いや厳密に言うと混線し、つながりにくい状態になっていました。あの大震災のときとまったく同じ現象です。
いつまでも続く悲鳴が私たちの冷静さを完全に奪い去っていました。パニック状態と言われても過言ではございません。
「どうしよう。どうしよう」
妻は頭を抱えて同じ言葉を反芻しています。
私は助けに行く勇気など欠片もない心境でしたが、ドアの前で動けずおどおどするばかりでございます。
悲鳴が一端止みました。
なぜか私は胸を撫で下ろしました。
と、さっきとは比べ物にならないぐらいの大きな悲鳴がドアのすぐ向こうから聞こえてきたのです。今度は本当にすぐ外からでございました。
「ドン!!」
何かが強くドアにぶつかってきました。
倒れる音。
すると悲鳴がドアの下から聞こえてきます。
私は一度妻の方を見ましたが、妻は受話器を所定の位置に戻した後、震えながら布団の中に身を隠していました。この恐怖から逃れるために。
「ドン!!」
また衝突音。
今度は悲鳴とともにうなり声も聞こえてきました。ずっと私を悩ませてきたあの声です。
その声は次の瞬間歓喜の雄叫びとなり、何かが無造作に引きずられる音に変わりました。
妻は布団の中で呻いています。
「不審者は集団です。気を付けてください。絶対に部屋のドアを開かないでください。繰り返します。何があっても部屋のドアは鍵のかかったままにしていてください」
早口のアナウンスが響きました。
集団?
まったく気にもしませんでした。人数など。
勝手に相手は一人だと決めつけていたのでございます。
集団の異常者たち……この状況で私たちが何をもって身を守ればいいのでしょうか。唯一の希望はこのドアだけなのでございます。
その時また私たちを驚かす音が。
「リーン、リーン」
電話です。
内線の電話が鳴った音でした。
妻は怯えて取ろうとはしません。あの恐ろしい悲鳴を聞いた後では仕方のないことでございました。
私も胸を押さえながら受話器を取ります。
「……はい」
受話器の向こうは雑音でした。
悲鳴、のような声も聞こえてきます。
「……よかったようやくつながった。俺は二三二号室のものです」
相手はフロントではありませんでした。
同じ宿泊客だったのです。
若い男の声でした。
「そこは何号室です?適当に押してようやくつながったからわからないんですよ」
「こっちは八一0号室ですが」
「八階か。フロントにはつながりましたか?」
「いえ。何が起きているのかご存じですか?」
「場内放送の通りでしょう。不審者がこのホテルの中を暴れまわっているみたいです。外に出てないんでよくわからないんですが。八階はどうですか?」
「こちらは先ほど女の方の悲鳴がありました」
「二階も同じか……おれは高橋。高橋守と言いますがあなたは?」
「私ですか、私は山岡朝洋と言います」
この後私たちは高橋守から衝撃の状況を聞かされます。
そして私たちはとんでもない行動に出るのです。
すみません。日々の日課の調査の時間になりました。
この話の続きはまた後日とさせていただきます。
それでは一度、失礼いたします。