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第4話 愛知県日進市 中編

第4話 愛知県日進市 中編


 森田愛香もりた あいかが自車に立て籠もってから十日が過ぎていた。


 逃げ惑う人々の姿はもう無い。


 けたたましい車のクラクションもすっかり止んでいた。


 おそらく駐車場の出入り口付近で車を乗り捨てていった人たちが多かったのだろう。渋滞した車の数は一向に減らず、溢れかえっていた。


 その間を縫うようにして彷徨うやつらの姿。

 朝も昼も夜も、雨が降ってもやつらのうめき声と歩みは止まることはない。


 とりあえず車内は安全であった。

 やつらはなぜか車の中までは覗かない。

 車内の人影にも気づく様子はなかった。


 森田の車の近くにもまだ十台以上の駐車した車があり、その中には森田と同じように逃げ遅れて隠れ潜む人々がいた。

 遠くの事まではよくわからないが、この駐車場には少なくとも二十人以上の避難民が助けを求めて車内でじっとしている。


 十日間で何度もサイレンの音を聞いた。

 みんなも聞いたであろう。

 その度に助かったと安堵の溜息漏らしてきたが、結果は常に裏切られている。 音だけで、実際の警官の姿も消防署の人の姿も見かけてはいないのだ。

 その音すら一昨日から耳にしてはいない。

 頭上では「国防軍」のヘリやマスコミのヘリが飛び交っていたが、救助の手が差し伸べられることはなかった。


 朝食用にと購入しておいたパンとサラダ、そして間食用の菓子三袋、一ℓの紅茶のペットボトル一本、これで今日まで命を繋いできた。

 森田はまだ運がいいと思っている。

 スーパーで購入した後だったからだ。

 同じような境遇で車に隠れている人々のなかには購入前だった人もいるはずだ。とてつもない飢えに苦しんでいるだろう。


 皮肉なものだ。


 こんなにも大きなスーパーの前で何も食べれず、水も飲めずにもがいているのだから。

 車を出れば二百m先には自動販売機がある。

 お金もある。

 しかし手に入れることはできない。

 その間にやつらが六人いるのだ。

 近くて遠い距離。


 やつらは一定の区域を絶えずぐるぐると回っていた。

 全員が等間隔で散開し、誰一人ここから逃がさないような陣形であった。


 森田の車の前を繰り返し通り過ぎる男もいつも同じ。

 頭の薄い五十代ぐらいの男で、服装から察するに長距離運転手だったに違いない。

 森田はこの男を「ハーちゃん」と名付けていた。はげのハーちゃんだ。

 手持無沙汰な森田はあまりに同じ行動を繰り返すこのハーちゃんを観察してみた。腕時計でその周期を測ってみる。森田の車の前を通り過ぎ、また戻ってくるのに二分三秒。途中で僅かに立ち止まり、ターンしてくる場所もまったく変わらない。

 次測っても、その次測っても、都合二十五回計測してみたが、二分三秒で必ずここに戻ってくる。

 その歩みは実にのんびりとしたものだったが、計算高く、プロのハンターのもののように森田は感じていた。


 車内では多少動いても気が付かれない。

 森田の動きはどんどん大胆になっていった。

 寝るときはシートを倒して大の字で寝た。寝そべりながら軽くヨガの体操などもやっていた。


 ハーちゃんはそんな森田のことなど眼中にないのか、淡々と歩き続けている。


 もちろんタブーが無い訳ではない。

 この十日の体験でわかったこともある。

 絶対に窓を開けてはいけないことだ。

 理由は不明だが、窓を開けると途端にやつらの目に留まる。いや、鼻に留まるということなのだろうか。

 生きた人間を発見したときのやつらの豹変ぶりは言語に尽くしがたい。

 唸り声をあげ、別人のようなダッシュを見せる。まるで虎やライオンのようだ。

 唸り声を聞くと周辺のやつらも寄ってくる。

 その前に窓を閉められなければ一巻の終わり。

 自分の骨が砕けることも厭わず、やつらは全力でドアにぶつかってくる。ガラスを砕く。侵入されたら後は血祭だ。

 森田はその光景を二回、目にしている。

 雨が初めて降ったとき、そんな犠牲者が出た。

 渇きに耐えられなかったのだろう。


 以来誰も車の窓は開かなくなった。


 携帯電話だけが頼りだった。

 情報はスマートフォンを介し、インターネットから収集した。

 日本中が同じ状況だと知ったとき森田はがっくりと肩を落とした。

 出来うる限り前向きに生きてきた森田だったが、これは救援に来ることなど無理かもしれないと思ったからだ。


 あの子たちはどうしているのだろうかと自分の教え子たちが気になった。

 電話の混線は未だに続いている。

 誰の安否確認も出来てはいない。

 やれることは携帯電話をいじることぐらいなのだ。

 一日と持たず携帯電話の充電が切れた。


 その後三日、森田は沈黙を守ったが、やはり状況が気になる。


 車には充電用のソケットを備え付けているしケーブルもあるのだが、充電のためにはエンジンをかけなければならなかった。

 エンジンの音でやつらが集まってくるとも限らない。


 ためらってさらに五日過ぎた。

 葛藤の日々。


 森田にとって社会人としての五年間はチャレンジの連続だった。

 畑違いの教育の仕事。

 人見知りの性格に反して、沢山の生徒を前にして授業をしなければならなかった。

 他人と競争することなんて苦手だったが、男だらけの職場で講習会の募集だ、授業アンケートだと全力で張り合ってきた。

 そもそも学生時代は自分のことだけを考えて生きてきた。

 それがこの職場に出会って他人のために、他人の笑顔を見るためにへとへとになるまで働くようになった。

 幾多の挑戦の中で変わっていく自分が好きになった。

 無理だと勝手に思わないこと。がむしゃらに挑戦することが森田の人生を明るく切り拓いてきたのだ。

 周囲になんと言われても、自分の信念を貫いてきた結果、成功とは言わないまでも以前の自分では想像できないくらいの充実した人生を過ごせることができた。


 十日目の今日、森田はチャレンジすることを決意した。


 誰かがやらなければならないことなら自分がやる。

 命をかけた挑戦。

 そこまでは初めてだ。


 車のキーを差し込み一気に右に回す。躊躇したり、考え込んだら動けなくなる。経験から学んだ大切なコツ。成功のイメージも失敗のイメージも必要ない。必要なのは思いきりだ。


 エンジン音とともにカーステレオが鳴る。

 大好きなMiwaの曲。しかし聞き惚れている暇などない。ボリュームをゼロにして、すぐに充電を始めた。

 ふと顔を上げるとフロントガラスのすぐ向こうにハーちゃんがいた。

 小さな唸り声を上げながらこちらを見つめている。

 肌はボロボロになって剥がれ落ち、血走った眼は大きく見開かれている。

 口の両側からは白いよだれが滴り落ちていた。


 森田は一瞬悲鳴を上げそうになった。


 必死に堪える。


 どこからともなく一人、二人と森田の車の前に集まってきた。


 森田は運転席の下に隠れ、祈った。


 祈りが通じたのか、やつらの唸り声は大きくはならない。


 ドアに衝突をしてくることもなかった。ただ車の前にずっと立ち尽くしている。


 三十分粘った。

 充電は四十%ほどしかできなかったが、そこで車のエンジンをきった。

 やつらの反応を待つ。


 五分ほどしたらまるで何もなかったかのようにやつらは分散していった。


 森田の挑戦は成功したのである。


 その後、次々とエンジンをかける車が出現し、やつらはその度に集結していったが、誰も危害は加えられていない。

 森田の挑戦は同じ境遇の人たちに希望をもたらせたのである。


 森田がうれしそうに周囲を見渡していると、正面の車の中の男がしきりになにか合図を送ってくる。

 初日に森田が車を出ようとして止めてくれた男だ。

 自分の携帯電話を指さしていた。コンタクトを取りたいのだろうか……。


 森田はバックから赤い口紅を取り出し、フロントガラスにそれでメールアドレスを書いた。このルージュは母からのプレゼントで、使うのはこれが初めてである。随分派手だ。男っ気が無いことを心配しての贈り物だったのだろう。残念ながらその期待には未だ応えられていない。


 電話は混線が続いていたが、メールは比較的スムーズに動いていた。


 送信して一時間もあれば相手に届く。

 森田はドキドキしながらメールが来るのを待った。

 相手は眼鏡をかけた中年オヤジで、まったくタイプでは無かったが、なぜか心がときめく。この恐怖に満ちた環境のせいなのかもしれないが、と、いうよりそうなのだろうが、それでも構わない。絶望の中でなにかしらの希望や喜びを見いだせることは幸いである。


 二時間後、男からメールが届いた。

 彼の名前は岸田亮きしだ りょう四十一歳。

 この街の不動産で働いているようである。

 メールのやり取りにびっくりするほど時間がかかったが、日進市が以前は日進町だったとか、来年の中日ドラゴンズはここが期待できるとか、しょうもない話がとても楽しく、苦痛を忘れることができた。


 あっと言う間に充電が無くなり、またエンジンをかける。


 やつらが集まってくることにも慣れてきた。

 心配はむしろガソリンだ。

 あと二十ℓほど残っているが使いすぎてしまうと、もしもの時に動きが取れなくなる。


 それでも何もできない車内にあって、岸田との交流は唯一の楽しみになった。


 これが恋なのか、愛なのか、どちらでもないのか判断できないが、なるほど、恋愛とは人間にここまで活力を与えてくれるものなのかと客観的に自分をかんがみて驚いていた。


 十一日目、十二日目、十三日目、毎朝六時には岸田からのおはようのメールが届く。

 いつの間にか森田もメールの文章の中にハートマークを入れるようになっていた。まるで気分は高校生か中学生だ。


 当然ながら森田も、こんな日々が長く続くはずも無いことはわかっていた。


 事態が急変したのは十八日目のことである。



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