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第3話 愛知県日進市 前編

第3話 愛知県日進市 前編


 二十六歳の森田愛香もりた あいかは塾講師の仕事が終わった後、いつも立ち寄る二十四時間営業のスーパーで買い物を済ませた。

 中学生相手に授業をし、この生徒の成績がどうの、あの生徒の志望校がどうのと同じスクールの教室に入る他の科目講師と話をしていたら深夜の二時。

 遅すぎる晩御飯と明日の朝食を購入し、五年ローンで購入した愛車に乗ったところだった。


 毎日、午前十一時には出勤して、帰宅は深夜の二時や三時。一日の労働時間は平均すると十三時間にはなる。

 残業代など民間会社のそのまた底辺のような会社では出るわけもない。

 正社員として働き始めた同期入社の仲間たちは次々と退職していき、いつの間にか彼女だけになっていた。

 それでもしがみ付いて仕事を続けてこられたのは、子どもが好きだったからだ。教えることも好きだった。

 そして、どんなに身勝手な注文を職員に要求してきても、会社自体の理念は決してぶれてはいない。資源の少ない日本の国を支えてきたのは人の力。その人を育てるのもやはり人。会社は日本のため、将来のためにここまでひた走ってきた。

 彼女はそんな会社が好きで、ここまでやってきたのだ。


 それでも女の身では過酷すぎる世界だった。

 肉体的にも精神的にも疲れ果てている。授業中もいつの間にか笑顔が強張っていることがある。余裕がなくなり、生徒に感情的にあたってしまって自己嫌悪に陥ることも多々あった。

 食事も洗濯もままならず、異性との出会いの時間なんてまるでとれない。


 辞めようと思うことはほぼ毎日のことである。


 机の中には退職届がいつでも提出できるようにしまってあった。

 明日こそ「辞めます」と言おう。そう決心をしても、「先生のお陰で英語が楽しくなってきたよ」なんて生意気盛りの中学生に言われた日には、今までの苦しみなんて吹っ飛ぶのだ。

 テストの結果をうれしそうに持ってくる生徒もいる。

 前よりも家庭学習をするようになったと保護者に感謝されることもある。

 その度に思うのだ。

 私は必要とされていると。

 少なくともこの人たちの幸福のために微力ながら貢献できたのだと。

 この充実感が彼女の支えとなっていた。


 この仕事以上にそれを感じられる仕事はあるのだろうか。そう考えると退職の決心はいつも鈍った。


 身体のことを考えて深夜はあまり食事を取らないようにしているが、この日、九月二十六日未明に限っては、スーパーの駐車場の車の中で菓子パンを三つも頬張っていた。

 あまりお酒を嗜まないので、ストレス解消は甘いものばかり。

 この日もクリームパンにチョコファッション二つ。

 とても深夜二時過ぎに食べるような物ではない。

 しかし食べなければ、このドラ疲れた身体は回復しないのだ。


 広々とした駐車場の中、こんな時間にも関わらず五十台以上の車が止まっている。タクシーやトラックの姿もある。

 みんな彼女と同じような疲れを癒すためにここに立ち寄っているに違いない。 頑張っているのは私独りでは無いのだと思うと、なんだか自然と涙がこぼれた。

 生きていくということは、九つ苦労と不満でも一つ喜びがあればそれで幸せなのかもしれない。


 ガタンという音で森田は目が覚めた。


 不覚にもそのまま運転席で寝てしまったらしい。


 驚いて腕時計を見ると午前六時三十分。

 三時間以上寝ていたことになる。

 余程疲れが溜まっていたのだろう。今日で十日間連続出勤になっていたのだ。


 彼女は慌てて車のエンジンをつけ、家路につこうとした。


 その時、凄まじいスピードで彼女の車の前を通り過ぎた影があった。


 反射的にブレーキをかけた。身体は前のめりになったが、車はわずかに前に進んだだけであった。

 ほっとしたのもつかの間、通り過ぎた先で激しい衝突音。

 目の前を猛スピードで走り抜けたタクシーが前方を塞いでいたトラックに衝突したのだ。


 「なにこれ……」


 森田は周囲の異変に気が付いた。

 逃げ惑う人々の姿。我先にとぶつかり合う車の群れ。クラクションと飛び交う怒号。

 一体何が起きたのか。

 地震か?

 揺れているようにも感じたが、どうもそうではなさそうだ。


 集まった車が駐車場の出入り口に集中し、渋滞になっていた。

 そこに無理を承知で割り込もうとする車。

 一体何を慌てているのか……。


 彼女は車の窓を開けた。


 「うっ!ドラ臭い」


 腐ったような臭気が鼻をさす。

 急いで窓を閉めた。

 吐き気がこみ上げてくる。


 昔、世間を騒がした薬品テロを思い出した。それしか考えられない。だとすればこの場を早く去らねば大変なことになる。

 車を出て徒歩で逃げるか、車を運転して逃げるか、彼女は悩んだ。

 ここから出入り口までの道は、先ほどのタクシーがフロントをぐしゃぐしゃにして止まっていた。もう動かないだろう。迂回すれば出入り口にたどり着けるがこの渋滞の様子だと動きは取れなそうだ。

 朝方になって客の数も増し、駐車場の車は百台近くになっていた。


 車を置いて逃げるのが賢明だと彼女は判断した。


 しかし、この臭気を吸い込んでいいものなのだろうか。

 辺りをまた注意深く窺う。

 必死の形相で逃げている人たち。

 しかし、誰も口や鼻を覆ってはいない。というよりそんなことよりも何かの行方を盛んに気にしているようだ。


 と、森田の車の目の前で人が倒れた。

 自分と同年代らしき女性。倒れたというより勢いよく転んだ感じである。確実に膝は血まみれだ。

 しかしこの女性はまったくそんな傷の状態など気にはしていない。

 転げるようにして立ち上がる。

 そこへ後方から二人の男性が迫った。


 助けてあげるのかしら。


 森田は一瞬そう思ったが、男たちの行動は予想に反したものであった。

 女性の首筋に噛り付いたのだ。

 もう一人の男は女性のふくらはぎに食らいつく。


 女性のかん高い悲鳴が響き渡った。


 この時になって初めて、外を走る人々が二種類いることに気が付いた。


 逃げる者と襲う者。至る所でその光景が繰り広げられていた。


 首を噛み切られて女性は為すすべ無くその場に倒れた。

 引き倒されたという表現の方があっているのだろうか。血が森田愛の車のフロントガラスに飛び散った。

 男たちは歓声を上げながら乱暴に倒れた女性にのしかかり、肌の露出している部分に手あたり次第に食らいつく。

 女性は悲鳴をあげながら魚のように手足をわずかにバタつかせていたが、やがて静かになった。


 森田は顔を両手で覆い、茫然自失でその光景を見守っていたが、我に返って携帯電話を取り出した。

 すぐに110番通報する。

 この女性が死んだことは確認しなくてもわかる。

 とても信じられない。こんな目の前で人が殺されたのだ。


 携帯電話からは

 「只今、電話がつながりにくい状態になっております。後ほどおかけ直しください」

機械的な女性の声が繰り返される。


 悲鳴はあちらこちらで聞こえてきた。

 普通の服装のサラリーマンや主婦、店員の姿もある。様々な人たちが恐ろしい形相で、逃げ惑う人たちを襲っていた。

 車で逃げようとしている人たちも大勢いたがパニックになって衝突を繰り返していた。

 渋滞は極限に達し、もう動いている車は一台もいない。クラクションだけが鳴り響いていた。


 外に出て逃げるしかない。


 そう判断し、ドアを開けようとしたとき、向かいの車の中でこちらに気づいて合図を出してきた者がいた。

 両手で×を作り、外に出るなと警告している。

 眼鏡をかけた中年の男性だ。首を振って絶対ドアを開けるなというジェスチャーをした。

 よく見ると車に避難している人たちは襲われてはいない。

 無理に車をこじ開けようとしている人もいない。

 車の中にいれば安全なのか?

 やむを得ず森田はすべてのドアに鍵をかけてじっと身を隠した。


 悲鳴の中から唸り声も聞えてきた。


 まったく現状が把握できていないが、彼女は自分がここに閉じ込められたのだということを感じていた。逃げ場無く取り囲まれたのだということを。


 これから先この狭い車内に永延隠れ続けることになろうとは、森田にはこのときはまだ知る由もなかった。




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