第2話 東京都東村山市 後編
第2話 東京都東村山市 後編
「あなたー。美咲がそろそろ帰ってくる時間だから迎えに行ってね。私は手が離せないから」
部屋の奥から妻の恵の声。
「ああ、わかった。すぐに行くよ」
八重樫琢磨はソファーに座ったまま、僅かに振り返ってそう答えた。
「あの日」九月二十六日から一ヶ月が過ぎた。
一度も外出を試みてはいない。
その間、琢磨は人間の精神がこんなにも簡単に崩壊するということを初めて知った。
恵は完全に夢の中を生きている。
夢の中では平和な家庭が続いているのだろう。
琢磨は毎日仕事に行き、一人娘の美咲は元気に学校に通っている。
そんなごく普通の幸せが恵だけの中で続いている。
食料は完全に尽きた。
テレビの放送で、水道水は汚染されていると聞きまったく使用していない。
電気はまだかろうじで生きているが、それもやがては止まるだろう。
窓から外の景色を眺めると、やつらが昨日と同じようにうろついている。
遠くで立ち上る煙が幾つも見えた。
テレビをつけても放映されている局はどこも無い。
情報はインターネットだけだ。
電話の混線状態は終わったが、どこにかけても相手はでなかった。
「あなたー。明日は会議だったわよね。アイロンかけておくからどっちのワイシャツにするか決めておいてねー」
「ああ、決めておくよ」
希望の無い人生がこうも苦痛に満ちていたとは……。
明日も今日の繰り替えし。
明後日も一週間後も一年後も、きっとそうなのだろう。
ストレスの溜まる営業回りからは解放された。
うんざりだった満員電車からも。
忌々しい上司にももう会うことはない。
すべては終わったのだ。
そして美咲は帰ってはこない。恵の正気も戻らないだろう。
あの日、琢磨が話した惨劇の現場。恵は決して受け入れることはしなかった。必ずどこかで美咲は生きていると言い張って泣きわめいていた。外に飛び出そうとする恵を必死に止める日が何日も続いた。
テレビで放送される内容はどれも絶望的なものばかりで、やがて恵はおかしくなった。
何を待って生きているのだろうか。
少し前には、いつか混乱は収まると信じていたが、今はもうそんな期待はしてはいない。
誰もやつらを止められなかったのだ。
警察はおろか軍も政府も何もできなかったに等しい。
今更原因なんてものに興味はない。それがわかったところで何も戻ってはこないのだ。
昨晩、恵が何かを食べていた。
よく見ると部屋に置いてあった観葉植物の葉っぱだった。
恵にはそれがサラダに映るらしい。おいしそうに口にしていた。
琢磨の涙はもう枯れ果てている。
湧き上がる気力も無い。
一日一本と決めていた最後のタバコに火をつけた。
空虚な煙が立ち上る。
「あなたー、美咲の身体に悪いからタバコは外で吸ってねっていつも言っているでしょ。ねえ美咲。ほんとしょうがないよねー。向こうに行っちゃ駄目よ」
恵には時間の感覚も、ストーリーの連結も何も無い。
状況はその場、その場で一変する。
琢磨は言われた通りにタバコの火を消し、大切そうにテーブルに吸殻を置いた。そしてゆっくりと立ち上がり、洗面台に向かう。使ってはいけないと言われた水道水で歯を磨き、ひげを剃った。
「あら、もうそんな時間?たいへん、お弁当を作ってなかったわ」
琢磨の行動を見て、恵が慌てて台所に立った。
食材なんてもうこの家には無い。
それでも恵は包丁を取り出し、その辺りに散乱しているゴミを弁当箱に詰め込んだ。
「困ったわ。野菜が無いの」
「いいよ。それで充分だから」
「そう?ごめんなさいね。今日の晩御飯はあなたの大好物の野菜炒めにするから」
「楽しみにしてるよ」
そう言って琢磨は恵の頬に優しくキスをした。
冷たい肌の感触。
恵はやや表情を赤らめて、弁当箱をバックに入れて手渡した。
琢磨は新品の靴下を履き、真っ白のワイシャツに袖を通した。
美咲からプレゼントで貰ったピンクのネクタイを締め、グレーの背広をまとう。
昔と何も変わらない朝がそこにはあった。
「今日は早く帰って来られるの?」
「ああ。誘いは全部断って帰ってくるよ」
「私は近所のママ友たちと懇談会があるんだけど、なるべく早く切り上げてくるわ」
「いいよ、ゆっくりしてきなさい。風呂にでも入って待ってるよ」
琢磨は黒のカバンを手に取る。
何年もこれを持って出勤してきた。
お弁当の入ったバックと二つ、大切そうに右手で持って玄関へと向かう。
恵は見送りに来てくれた。その表情には一点の曇りも無い。
使い古した革靴をゆっくりと履いた。
昔はよく憂鬱な気持ちでここを出発したものだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
琢磨は、「愛している」と伝えようと思ったが口にはできなかった。
そんな言葉、普段は吐いたことが無い。それを言ってしまったら、何も変わらぬ一日は始まらない。
「気をつけてね」
「ああ」
琢磨はドアを開き、アパートの階段へと向かった。
灰色の壁。
窓からは清々しい空が見えた。
タバコの吸い殻にもう一度火をつける。
「もう十一月になるからな。寒くなってきた。コートでも着てくればよかったか」
そんな独り言を言いながら階段を降りる。
アパート共同の玄関口。
錆びついた自転車が横たわっている。
郵便受けの自分の名前を確認した。
八重樫琢磨、恵、美咲。
幸せな家庭だった。
ごく普通ではあったが、楽しかった。
確かに自分たちはここで暮らしていたのだ。
人生に悔いなど何も無い。
ドアを開ける。
一日が始まるのだ。この家庭を守るため、この幸せを続けるために働く一日。
風で目の前の木が揺れた。
今日は風が強そうだ。
景色がぐるりと回転する。
募る唸り声も琢磨の耳には届かない。覆いかぶさってくるやつらの隙間から空が見えた。
一日働けば野菜炒めが食べられる。
今日も頑張ろう。
やがてすべてが真っ暗となった。




