1章 それそれの運命 第1話 東京都東村山市 前編
はじめに
人類の転機となった「あの日」二千十六年九月二十六日から二か月以上が経過しました。
私、山岡朝洋は、北海道旭川市の自宅からインターネットの掲示板を通して、多くの生存者の方々と情報を交換して参りました。
ここで、私自身の話は一度お休みし、他の方々がいかにして過ごしてきたのかをお伝えしていきたいと思います。
情報交換がやむを得ない理由で途中で終了した場合もございました。
私の勝手な想像のもと脚色させていただいている部分もございます。
ご了承ください。
悲しく悲惨な話も多いと思いますが、生き残った私たちはそこから多くのことを学ばねばならない責務がございます。目を背けず、しっかりと現実を直視し、前へと進んでいきましょう。
そうですね、それでは東京都東村山市のご夫婦のお話からさせていただきます。
1章それぞれの運命
第1話 東京都東村山市 前編
八重樫琢磨は三十一歳のどこにでもいる平凡な会社員であった。
妻は二つほど年下の八重樫恵。
結婚して七年になる。
古いアパートで狭い間取りだったが、一人娘の八重樫美咲と三人で慎ましやかに幸せな家庭を築いていた。
「あの日」二千十六年九月二十六日の月曜は、残暑がまだ幾分残っており、夜は寝苦しかった。
週の始まりはいつもそうだが身体が重い。気持ちも重い。今日も満員電車に揺られて目黒まで出勤である。
日本の景気もなかなか回復しないなか、八重樫琢磨の勤める保険会社も苦しい経営を迫られていた。彼自身も責任ある役職に就き、課せられたノルマをこなすことに懸命な毎日を送っていた。
この日は、彼には珍しく、いつもの時間に起きられず、寝坊をしてしまっていた。妻の恵も同様である。
自分自身の不注意でもあったが、怒りの矛先は妻に向けられた。
怪訝そうな表情で恵も夫の準備を手伝っている。
娘の美咲は小学一年生だ。不機嫌な父親の雰囲気を敏感に感じてさっさと食事を済ませて、学校へ向かう準備をしていた。
「なんでこんなときに限って背広が無いんだ」
琢磨の怒気はことあるごとに激しくなっていく。
昨日クリーニングに取りに行くはずだった背広の事を、二人とも忘れていたのだ。
「グレーの背広があったはずよ」
妻が必死に打開策を呼びかける。
琢磨は舌打ちして掛けられたワイシャツの奥から古い背広を引っ張りだした。 その勢いでそばに掛けられていたネクタイが数本一度に床に落ちる。
琢磨が苦々しくまた舌打ちした。
「しょうがないでしょ。あなたも忘れていたんだから」
「しょうがないじゃないだろ。お前が買い物に行くついでに取ってくるって話だったろうが」
「一緒に買い物に行ったんだからあなたが気がつけばよかった話でしょ」
いつもの夫婦喧嘩。
美咲は巻き込まれまいと慌てて玄関を飛び出した。
「ちょっと待って美咲。行ってきますって言ってないでしょ。忘れ物はないの」
恵が急いで玄関の方を覗き込むと姿はそこにはなく、「行ってきまーす」という可愛らしい声だけが聞こえてきた。背後からは琢磨がまだぶつくさ文句を言っているのが聞こえてきた。
恵にとってもなんだか憂鬱な朝の始まりだった。
「あなた朝食は?」
「いいよ。どこかで買って電車で食べる」
「食べられるの?」
イライラした表情で頷きながら琢磨は玄関で靴を履いた。
いつもは娘と一緒に家を出るのだが今日は置いて行かれた。
こんな時間だから電車は満員ではないだろうが、会社には完全に遅刻だ。
腹痛という言い訳をしておこうか……。
琢磨は自宅を出て、アパートの階段を下りて一階へ向かった。
外に出るためにはアパートに設置されてるたった一つの共同玄関を通らなければならない。
いつもは一階で佐藤さんの奥さんに出会うはずだったが、今日は誰もいなかった。自分がいつもの時間に出勤できなかったからだろう。琢磨はそう納得した。
玄関のドアを開き、外に出た。
なんだ……これは……。
臭気の異変に驚いた。
腐った匂いが鼻をつく。
そして騒音。
怒鳴り声、悲鳴、パトカーのサイレンに救急車や消防車のサイレン、辺りは騒然としていた。
しかし歩く人の気配は無いのである。
途端に頭がガンガンと痛んだ。
昨日の夜は妻と飲み過ぎた。お陰で二人とも寝過す結果になった。起きて十分で飛び出してきたのだ。慌て過ぎていて外の異変に気が付かなかったわけである。
「美咲……美咲……」
先に出ていった娘が気になった。
この異変は周辺で何かあったに違いない。どこかの工場が爆発でもしたのだろうか。妙な化学物質が飛び交っているとも限らない。
琢磨は急いで携帯電話を取り出して自宅に電話をする。
「なんだ。つながらないぞ」
会社にもかけてみたが繋がらない。
混線していて繋がりにくい状況になっていたのだ。
そのとき、琢磨は一瞬悲鳴を聞いたような気がした。
背後のアパート内からだ。女の子の悲鳴のように思えた。
琢磨はドアを開いて階段を上る。
美咲はいつも五階の理奈ちゃんと一緒に学校に登校していたことを思い出した。まだこの建物の中に居るのか……。
一気に五階まで上った。
各フロアは六部屋横並びになっている。一番奥の部屋が理奈ちゃんの家だ。
息を切らしながらフロアの半ばまで進んだとき、奥で三人の子どもたちがうずくまって何かをしている光景が見えた。
チョークで地面に何かを書いているのか?
三人が囲んでいる真ん中に何かがある。
近づくにしたがって、子どもたちが座り込んで何かを食べていることに気が付いた。
一心不乱に何かを食べている。
理奈ちゃんだ……。後ろ姿でわかる。他の二人は見たことがないがこのアパートに住んでいる小学生なのだろうか。美咲の姿はない。
琢磨はもう少し進んでみた。
じとりと汗が額に滲む。
臭気は濃くなり、むせ返すような気持ち悪さが募った。
赤いものが散らばっていた。
液体と破片。
貪り食う子どもだちも顔を真っ赤にしてした。
無邪気な笑顔。白い骨がその手から地面に落ちた。
肉を、肉を食っている。
声を掛けようとしたが、今にももどしそうだ。これは二日酔いのためだけではない。
子供たちの寸前まで進んだ。
中央に置いてあるものは、まさか、人間、なのか……。
無残な肉片。
子供たちは両手を伸ばして内臓を取り出し、歓喜の声を上げながらほおばっていた。
何が起きている?
琢磨の視界がぐるぐると回る。
これは夢の続きなのか。
だとしたら早く目を覚まさなければならない。今、目を覚ませば会社に遅刻しないで済むかもしれないのだ。
しかし、子供たちの声も、匂いもすべてがリアルに感じる。
いや、今までも夢か現実か判断つきかねるような夢を見てきた。きっとそれなんだ。
中央には、血や肉片でべったり汚れ裂かれた服やスカート、美咲のお気に入りの服と一緒だ……。
なんだかおかしさがこみ上げてきた。
こんな不吉な夢は見たことがない。
よほど仕事のストレスが激しいのだろう。
精神的に参っているのかもしれない。
今日は起きても会社には休みをもらおう。
美咲が帰ってきたら三人で散歩でもして気持ちをリラックスさせよう。
琢磨はふらつきながらもと来た道を戻り始めた。
二階の自宅へ向かう。
こんな光景には耐えられない。
早く目よ覚めてくれ!!
階段をゆっくりと下りていく。
外からは車の衝突音が聞こえてきた。
階段の上からは駆ける足音、唸り声、悲鳴。
琢磨は耳を塞いで自宅のドアを開く。
「あなた、どうしたの。今の悲鳴は何?」
食器でも洗っていたのだろう、手を洗剤で泡だらけにしながら恵が玄関で出迎えた。
「ずっとサイレンが鳴っているけど、外で何かあったの?」
恵の声を無視するように琢磨は室内にあがりソファーでどたりと倒れた。
リモコンに手を伸ばしてテレビをつける。
「……緊急警報です。只今、日本国中に警戒緊急警報が発令されております。外出は控えてください。鍵をかけて絶対に外出しないようにしてください。指定されている避難所への避難も避けてください。繰り返します。只今、日本中に緊急警報が発令されております。絶対に外出はしないようにしてください……」
どこの局も同じような放送をして、アナウンサーが同じことを繰り返し叫んでいた。
「何これ……。あなた美咲は?美咲はどこ?」
妻が慌てて玄関へ飛び出していきそうになった。
琢磨はその右手を掴んで離さない。
「どうしたのあなた。美咲は外よ。探しに行かないと」
恵の叫びに、琢磨は何も答えず、ずっとその右手を握りしめていた。
これは現実かもしれない。
そんな思いが少しずつ彼のなかに芽生えつつあった。




