序章 終幕
お待たせいたしました。
この掲示板を活用するようになって多くの人と交流を持つことができました。 ネット社会を構築した人類に感謝です。
未だ事態が好転するような話は聞きませんが、同じ境遇で戦っている人たちがいることが私たちの勇気になりました。
北海道旭川市の自宅に滞在するのももはや限界を感じております。
私は妻とここを出ようかと相談しているところです。
食料が尽き、飲料水としてきたアルコールの類ももう残り僅かでございます。
計画的に食いつないできましたがこれ以上は無理です。
体力の限界に達する前に行動に移す覚悟です。
層雲峡を脱出したあの日のように……。
さて九月二十六日の話を最後にいたしましょう。
私と妻は孤立無援のなかを五階から八階まで戻ってきました。
途中の七階で出会った沖田春香という少年の作戦に参加し食料を得たもののすぐに彼らとは袂を分かつことになります。
彼らには彼らの使命があるようでした。
「しまった……水を分けてもらうことを忘れていた」
もうすぐ八一0号室というところで私は大切なことに気が付きました。
私が大切に抱えるダンボールには食料しか入っていないのです。飲料水は沖田の仲間である桂という男が先に持ち帰っていたのです。
忘れておりました。
いくらなんでも水無しではもちません。
「そこに自販機があるから買っていけし」
妻が指さす先には小さな自販機がございました。
まさに天の助けでございます。
急いで財布を出します。
なんということでしょうか、こんなときに限って万札しか入っていないのです。
小銭を数えると二百六十円です。すがる様に自販機に浮かび上がっている価格を確認します。
一番安い水のペットボトルが百三十円。なんとか二本は買えます。
「トモ、たいへん。カバンをどこかに置いてきちゃった……」
おそらく五階の浴場です。
かなりパニックになっていたのでよく覚えていませんが、妻を抱えたときにカバンが邪魔でその場に置いてきたような気がします。
仕方ありません。
こうして生きて戻って来られただけでも感謝ものです。
「部屋の鍵はあの中だよ……」
妻のその言葉を聞いて私は立ちくらみを覚えました。
ここまで来て部屋に入れない。
部屋に入るためには、五階のあの場所に戻らなければならないのです。
その時の私のショックをわかっていただけるでしょうか。
私は笑うしかありませんでした。
「なんだったらついでに一階のフロントで両替でもしてもらうか」
自虐的な言葉を独り言のように口にしました。
考えてもみてください、九死に一生を得てここまで辿り着いたんです。
今考えても奇跡としか言いようがありません。
犠牲者が周囲にいたから逃げ延びられたのです。
生存者が少なくなった今、標的にされるのは私たちだけでしょう。自宅を丸ごと賭けてもいいですよ。私たちは三十分と持たないはずでございます。
私はダンボールを両手に持ちながら、壁に力無くもたれかかりました。
頭の中は真っ暗です。ゴール目前の絶望。
計画的に物事を進めること。
忘れ物はしないよう注意すること。
この二点は常日頃から生徒に言ってきかせてきたことでございました。
この人生で最も重要なタイミングで、自分自身がそれを実践できなかったのでございます。
心底己に腹がたちました。私は口だけの男だったのでございます。
「鍵は二つあったでしょ。ひとつはトモが持って出たはずだけど……」
私の落胆の表情を注意深く見つめながら妻が言いました。
そうです。
フロントから預けられた部屋の鍵は二つあったのです。
そして私がこの部屋を出る際に確かに持って出ました。
私は妻の顔を見つめ返しながら、恐る恐るズボンのポケットに手を入れます。
あそこまでドタバタしたのです。どこかで落としたとしても気が付くことはありません。
私は祈る様に右のポケットに手を入れます。
一番可能性の高い場所です。
「無いの?」
不満げな、いや怒りすら感じるような妻の口調です。
右には入っていませんでした。
この時の私の緊張感は、それこそ全財産を賭けて挑んだルーレットの結果を待つようでした。
左のポケットに手を入れます。
あってくれ!!心から祈りました。
口にも出ていたかもしれません。
どちらにもありませんでした。落としたのです。
あんな大事な物を。三歳の幼児でも落さないよう大切にするだろう物を私はどこかで落としたのです。
命の次に大切にしなければならなかった物を。
私は馬鹿です。利口なふりをしてきましたが、世界で一番の馬鹿です。
オセロで言えば勝ったつもりで有頂天になっていたら、最後に置かれて全部をひっくり返されたようなものです。
ここまでの苦労はすべて水の泡。
なぜもっと注意しなかったのか。
後悔は先に立たずと言いますが、こればかりは自分が少しでも意識していれば避けられた失敗でした。
「そのセーターのポケットは?」
もうすべてが終わったと思った矢先に、妻がそう尋ねました。
私は上着に茶色のセーターを着ていました。
確かにポケットが両脇にございました。
私は一心不乱に手を突っ込みました。
「あった……あった……鍵があったよアヤちゃん」
いまさらですが妻は「アヤコ」というのです。
ちゃん付けはこの歳で気持ち悪いかもしれませんが、付き合い始め、結婚してもずっとこう呼び続けております。
今更かっこつけることもできません。御聞き苦しい点はご容赦ください。
私のセーターのポケットの中には部屋の鍵だけでなく、車の鍵、自宅の鍵がすべて収まっておりました。
ズボンのポケットよりもよほど落ちそうなポケットでしたが、落ちずになんとか耐え忍んでくれたのです。私は物の頑張りにここまで感謝の気持ちを持ったことはございません。
涙がこぼれて鍵に落ちました。
思えばこのとき私は妻の前で初めて涙をこぼしたのでございます。
しょうがない男と笑われるでしょうが、私は安堵の気持ちでこれまでの緊張の糸が寸断されておりました。
「ちょびちょびしちょ。早く行けし」
まあ、もたもたするなといった意味でしょうか。
私は何度も頷き、よろよろと立ち上がり前に進みました。
もちろん水を二本買っていくことも忘れておりません。
たくさんの後悔のなかで、たくさんの経験のなかで私は多くを学びました。
己のふがいなさを痛感しました。
そしてこの思いが今後のサバイバルに大きな影響を与えることになります。
ようやく立った八一0号室の前。
この部屋を出てから数時間。
人生でこんなにも濃い数時間を過ごしたことはございません。
悪夢のような数時間。
それでも私と妻は無事にここに戻ってきました。
私たちの生命を繋いでくれた犠牲者の方々に感謝です。
これが人生というものなのでしょうか。
「トモ、部屋の中で電話が鳴ってる」
妻の一言で我に返ると、随分けたたましく内線がドアの向こうで鳴っております。
もし、やつらが近くにいたら立ち塞がられて私たちは部屋に入ることができなかったでしょう。
私は急いで鍵を開け、部屋に入りました。
すぐに鍵をかけ、襖を開きます。
出る時と寸分変わらぬ私たちの部屋。
投げ捨てられたスナック菓子の袋。テーブルの上には妻が飲み干した酎ハイの缶の山と、私が飲んだ発泡酒の缶が数本。散らばった浴衣……。
「もしもし。もしもし」
私は電話の受話器を取りました。
フロントからか、警察からか、もしかすると沖田春香が心配してかけてくれたのかもしれません。
私は向こうの反応をしばらく待ちました。
「なにをやっていたんだ!!」
怒りに任せた乱暴な叫び。
そう、高橋守の声でございました。
「俺の麻由希はどうなった!!なんでLINEで応答しないんだ!!」
そうでした。
私はこいつのために部屋を出たのです。
こいつのせいで死ぬところだったのです。
「ふざけるな、何とか言え!!じじいたちはどうなった!!あいつらも探しに行ったはずだ!!俺の麻由希はどうしたんだ!!」
私は何も答えずに受話器を床に置き、電話機からケーブルのコンセントを抜きました。
気味が悪いほどの静寂。
夢だったのか……。
そんな気すらするほど静かです。
窓の向こうはすっかりと晴れて紅葉がいよいよ色付いておりました。
山も空も何も変わらぬ一日を迎えております。
どこかで悲鳴が聞こえてきました。
もう驚いたりしません。
ドアの向こうで唸り声がします。
自然は変わるのです。これがこれからの地球の自然。
人類は絶えずこの自然に抗う存在なのでございます。
「アヤちゃん、疲れたから寝ようか……」
そう呼びかけると、妻はすでに布団にくるまり寝息を立てています。
緊張と恐怖でよほど疲れていたのでしょう。
それを見守りながら私も静かに眠りにつきました。
悲鳴と唸り声をBGMにして……。
さて、本日はここまでとさせていただきます。
ようやく本題に入れる準備ができました。
ここからが本当に伝えたい内容になります。
開き直った人間の強さ、日本人の逞しさを伝えていきたいと思います。
いえいえ、すみません。本題はやつらの生態でございました。それを忘れてはいけませんね。
次回からはしばらく掲示板に載せられた他の方々の状況について触れていきたいと思います。
それでは一度失礼させていただきます。




