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第12話

 お待たせいたしました。

 私の勇敢な行動に賞賛をしていただいたコメントを多数寄せられました。

 恐縮でございます。


 私が格闘技などを習得しているような憶測も飛び交っておりましたが、まったくそのような経歴はございません。

 女性に手を上げたことが無いばかりか、男同士の喧嘩も皆無でございます。

 他人に暴力を振るったことなど生まれてこのかた一度も無いのです。

 自分の力量も、相手の危険性も見抜けないからこその蛮勇だったと思います。


 恥じるつもりはありません。

 あの時の自分は確かに勇気ある行動をしようとしていたと今も誇りに思っております。


 さて九月二十六日の午前中の話に戻しましょう。


 私は掃除用のモップを握りしめ、大きな深呼吸をゆっくりとしました。


 意識することはゴルフのスイングをするときと同じでございます。

 力を抜いて振りきること、これだけでございました。

 廊下の幅や天井の高さを考えると、このような長い棒を振り回すことなど出来ようはずもありませんでしたが、私は立ち向かうことだけを、この身も妻のことも忘れ幼い命を救うことだけを考えていたのです。

 おそらく妻も同じ心境だったと思います。


 赤ちゃんの泣き声がする部屋のドアを力づくで突入しようとしているのは三人。

 髪を振り乱し、必死の形相で体当たりを続けております。

 辺りにはぶつかった衝撃で傷ついたせいなのか、血のようなものが巻き散らかされておりました。


 やつらはまだこちらには気がついてはおりません。


 わたしはジリジリと間合いを詰めていきます。


 奇襲攻撃をすればまず一人は倒せる算段でした。


 五mほどの距離まで接近しました。


 やつらの腐った匂いが鼻をつきます。

 唸り声が一合玉の花火のように強い振動で腹の底に響いてきます。


 握力を抜き、大きく振りかぶり、一気に駆けて距離を詰め、やつらに襲い掛かろうとしたその時でした。

 背後から呼び止める声がしたのです。


 「何をしようとしてるんです?」


 私ははっとして後ろを振り返りました。

 妻のものとは明らかに違う透明な声。


 「そんなものを振り回しても勝てっこないですよ」


 従業員用の準備室の隣の客室のドアがわずかに開き、そこから誰かがこちらを覗き込むようにして話しかけてきておりました。


 「無茶はやめて、まずはこっちの部屋に来てください」


 私も妻も互いを見合ったまま動けません。

 そんな私たちの様子を見て、小声で一方的に話しかけてきます。

 赤ちゃんの泣き声と唸り声にかき消されてやつらには届いていないようです。


 「ほら、これ」


 ドアの隙間から白く細い手が伸びてきました。

 手にしているのはスマートフォンです。


 「これがあの部屋に置いてあるんですよ。あの声は本物の赤ん坊じゃありません。だから早くこの中へ」


 手招きに誘われるまま、私たちは急いでそのドアから部屋に入りました。


 モップがドアの上の方に辺り大きな衝突音がしました。

 ヒヤリとしましたが、やつらには聞こえてはいないようです。


 「もたもたしないでくださいよ。音が聞こえると面倒です。もっと中へ」


 私たちは玄関口から襖を開き、室内へ進みます。


 「襖を閉めてください。そうすればそうそう外には声が聞こえませんから」


 妻が言われるままに襖を閉じました。


 室内は私たちの部屋とまったく同じ造りになっておりました。

 窓の外の景色もまったく同じでございます。

 布団なども片づけられていて、誰かが宿泊していたような気配は感じられません。


 「すごいですね。そんなものでやつらに立ち向かおうなんて」


 そう言われて、私はモップを、妻はパイプイスを畳の上に置きました。

 音をたてぬよう恐る恐るでございます。

 汗ばんで手のひらはグショグショです。

 妻は肩で息をしながら畳に腰を落としました。


 「一応自己紹介しておきますね。僕は沖田春香おきた はるかです」


 女の子だと思っておりましたが、名前を聞き、その表情をまじまじと拝見し、初めて相手が男の子だということに気が付きました。

 身体も足も細く、肩までのショートカットに薄紫のカーデガン、内は黒のシャツに黒のジーンズ。後ろからの姿は明らかに女性の線でございました。

 目は綺麗な二重で瞳は大きく、鼻筋もすっとしていて大変な美形でございます。

 歳は、見たところ十五歳ぐらいだったでしょうか。中学三年生から高校一年生ぐらいのようです。


 「私は山岡と言います。こっちは私の妻です。沖田くん、ですか、あなたはひとりですか?」


 浴場で石和いさわさんにも同じような質問をしたことを思い出しました。 そして同時に彼女の身に起こったことも思い出しました。私は彼女を見殺しにしたのであります。

 心に重い何かがし掛かります


 「今はそうですね。山岡さんたちは何号室のお客さん?」


 声は透明感があり、私の罪の意識をほぐしてくれます。

 声だけ聞くとやはり女の子としか思えません。

 彼はその長い脚を畳に広げ、私を見上げるようにしてそう質問してきました。


 私もたくさんの生徒をこれまで担当してきましたが、彼はその誰とも違う空気を持っておりました。


 例えるならば、神話に出てくる妖精のような雰囲気です。


 「八階ですよ。八階の八一0号室です」


 それを聞くと彼は無邪気な笑顔を浮かべました。


 「凄いな。あの声を聞いて八階から助けに来たんだ。勇気ありますね」


 勝手に独りで納得して鼻歌を歌い始めました。


 「いったい何のためにこんなことを?」

 妻は疲れ切って座り込んだままでしたので、私が問うしかありません。


 「ああ、これのこと。あいつらは音に反応するんです。普通の音でも反応するけど、一番興奮するのは声みたいです」


 そのことはここまでの経験でなんとなく私も掴んおりました。

 思い出したくも無い経験をしてきたのです。

 しかし、情報を聞き出すにはとにかく聞き手に回るのが第一だということを自分の心に言い聞かせました。

 彼は確実に私たちよりも事態を把握しているようです。

 こちらの意見を言うことや、こちらの知識をひけらかすことはNG。気持ち良く喋らせることが肝心です。それで情報を引き出せます。

 ティーチングの鉄則はとにかく質問を投げかけることにあります。

 相手の答えに対し、頷いて聞くだけで、相手の信頼を得ることができるのです。


 「そうなんだ。で、あいつらをあの部屋に誘き寄せて何をするつもりなのかな?」

「あそこの廊下を渡りたいんです。あの先に食堂があるから。食料調達ってわけ」


 食料……たしかにこのまま籠城して持久戦になった場合は、一番必要になるのは食べ物でございます。

 しかし、状況が一変してまだ数時間しか経っていません。

 パニックになったり、逃げ惑っている人たちが大勢いるなかでこの少年は随分冷静沈着に先のことを考えて行動しているのであります。

 子どものほうが環境に適応するのは早いのでしょうかが、それにしても早すぎます。


 「水も危険なんですよ」


 「水?」


 「ここの蛇口から出る水を飲んで感染したんじゃないかって聞きましたからね。だからペットボトルの飲料水も必要ってわけです。あそこにはそれも置いてあったから」


 いったいこの少年は誰からこんな情報を聞いて行動しているのでありましょうか。


 「やつらがあの部屋に突入した瞬間がチャンスなんですよ。一気に走って向こうに行く。食堂にいたやつもあそこに来てるから食堂には誰もいないはずです」


 なるほど。素晴らしい戦略でございます。

 しかし携帯電話が混線している中で、どうやって向こうの部屋の携帯電話を鳴らしているのでしょうか。


 「それはね。簡単。アラームが鳴ってるの。赤ん坊の声のアラームを最大音量にしているってわけ」


 彼はそう言ってウインクし、満面の笑みを浮かべました。


 彼に出会うことがなければ私たちはこの後四日間も籠城はできなったに違いありません。


 さて、本日はここまでとさせていただきます。


 私は彼のことを今でも「天使」だと思っております。


 私たちは天使の加護を受けて層雲峡を生き延びたのであります。


 運命の出会いはまたも私たちに奇跡の風を起こしてくれたのです。


 それでは一度失礼させていただきます。


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