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第11話

 お待たせいたしました。

 アメリカ合衆国から発表された突拍子とっぴょうしもない記事について、ここで私も一言触れさせていただきます。

 ご覧になられていない方もいらっしゃると思いますので、記事の内容を整理してみました。


 特筆すべきは三点でございます。


 一つ目は、やつらの体温が常に四十一℃であるということ。

 憑りついている死のイメージから、氷ほどの冷たさかと私は思っておりましたが、人間の体温よりも温かいとは驚きでございました。

 人間に対する心根とは随分反比例しているものです。

 ただこれで数日観察していて、やつらの身体からだに雪が降り積もらないことの原因がわかり、納得いたしました。

 こちらがいくら期待したとて、一日中極寒の北海道にあってもやつらは凍り付くことは無いのでしょう。


 二つ目はやつらを解剖したところ、消化器官が存在しなかったということでございます。

 人間の生肉を食したところで、それを分解吸収し栄養分とすることは無いということです。ではなぜ人間ばかりを襲っているのでしょうか。


 三つ目が最も驚きでございました。

 ではどこから運動するためのエネルギーを供給しているのか、なにが活力の源になっているのか。

 アメリカ合衆国の博士たちの研究により解明されたのは、その皮膚で光合成を行っているということでございました。


 やつらは植物に近い生命体ということになります。


 厳密には違うのかもしれませんが、わずかな日光と汚染された大気を取り込み、それをエネルギーに変換しているそうでございます。

 人間を食さなくても、半永久的に動いていられることになります。

 さらにやつらは汚れた空気を健全な空気に体内で変換して排出しているそうでございます。

 実際、やつらが生息する地域の放射線量は著しく自然の平常値に戻っているとのことでした。


 やつらは人間が破壊し、汚してきた環境を回復させているのでございます。


 この説が真実であるのならば、やつらと我々人間、はたしてどちらがこの地球にとって必要な存在なのでございましょうか。

 地球上の生物すべての多数決を採れば、圧倒的に人間側が負けることは明白です。

 やつらが襲うのは人間だけ。

 人間にひたすら虐げられ、餌にされてきた動物たちはやつらが活躍する限り自由を得られるのですから。

 私たちが平穏を取り戻すために戦うことはもはや正義では無いのかもしれません。私たちが生き抜くことは罪なのかもしれません。


 あなたはこの話をどこまで信じますか?


 さて九月二十六日の午前中の話に戻しましょう。


 私は妻を抱きかかえながら危機的な状況の五階の浴場を脱出し、やつらの餌場となっていた宴会場の前を抜け、ようやく他のフロアに続く階段へとたどり着きました。

 一階から外へ脱出することよりも、まずこの身の安全を図ることを優先し、私たちは八階の部屋で籠城ろうじょうすることを決断しました。


 もちろん八階への道のりは平坦なものではないことは覚悟の上でございます。


 薄暗い照明のなか、グレーのコンクリートに囲まれた階段は静寂に包まれておりました。


 素足に冷たい感触が伝わります。


 それ以上に空気が冷えておりました。


 心なしか風も感じます。


 四十歳にもなると普段でも階段を上ると膝が痛みます。ましてや妻を抱きかかえながらではなおのことでございます。

 シャツが自分の汗でベタリとしておりました。

 この日はまた朝から随分と汗をかいたものでございます。ダイエットに挑戦しても失敗の連続でしたが、この日だけで五㎏は痩せたのではないでしょうか。


 六階から七階への踊場へ差し掛かった所で、私の両腕の力はとうとうついえました。

 両腕が痙攣し、膝の痛みが限界に達し、足が前に進みません。

 ですが、夫として、男として、ここで限界を宣言するわけにもいきませんでした。

 しょうもないプライドを守りたいということではなく、私は何があっても妻を守るつもりでおりました。

 例えこの身がどうなっても……。


 「トモ、いいよ。無理しちょ。降ろせし」


 「なんで、まだまだいけるから。それとも加齢臭臭いかな?」


 「まあね。なんてウソ。とりあえず一服したいから降ろして」


 そう言うと妻は私の手を離れ、階段の手すりにもたれながら煙草をくわえ、火をつけます。

 妻は一日にひと箱は吸いつくすヘビースモーカーでございました。

 絶え間なく続く緊張と恐怖のなかようやく味わう安らぎだったようで、目を閉じて微笑んでおりました。


 さすがは長年連れ添った妻でございます。何も言わなくても私の状態の厳しさを感じ取り、自ら歩くことを選択いたしました。


 私は握力を失った両腕を垂らしながら七階へゆっくりと向かいました。


 振り返ると妻も落ち着いた様子で私のすぐ後を付いて参ります。

 わずかな期間で妻も随分精神的に強くなったものです。


 ようやく七階まで上ったところでございました。


 コツン、コツン……


 階段を歩く足音。


 私は妻を振り替えました。

 私も妻も裸足でしたので音は鳴らないはずでございます。

 妻が恐怖で歪んだ表情をしておりました。


 どこから聞こえてくる音なのか……。


 上か、下か……。


 私は下であることを願いました。

 じっとして耳を澄まします。


 妻が諦め顔で首を振りました。


 上です。足音は上から聞こえてきます。

 しかもすぐ上です。あの唸り声も近づいてきておりました。


 恐る恐る階段の隙間から上を眺め見ると、男の姿がすぐ上の階にありました。


 よりにもよって八階にいるのです。私は慌てて首を引込めました。


 ここはもう使えません。

 やつらがいる限り、上へ進むことは断念せざるを得ないのです。


 私たちは進路を修正し、七階にある別階段を目指すことにしました。


 フロアに出、直線に続く廊下を慎重に進みます。


 両側に連なる部屋からはまったく人の気配は感じません。


 始めから宿泊客が居なかったのか、脱出したのか、息を殺して潜んでいるのか……。


 さらに奥へと進んだところで私たちは声を聞きました。


 「あ、赤ちゃんの泣き声じゃない?」


 妻が敏感に反応しました。


 私の妹の子もまだ幼かったですし、妻の妹の子も同様でした。だから聞き間違えることはありません。確かに赤ちゃんの泣き声です。

 声は目前の曲がり角の向こうから聞こえてきました。


 私たちは神に祈るような気持ちで角を曲がりました。


 もし、赤ちゃんがやつらに襲われていたとしたら……恐ろしいイメージが頭の中に広がります。


 さらに廊下は奥に繋がっておりました。

 その途中ぐらいでしょうか、三人ほどのやつらが、部屋のドアにぶつかったり、殴りかかっておりました。

 そのなかの一人が若い女性だったことが衝撃的でございました。母性の欠片も残すことなく、その女性は赤ちゃんを食したい一心で悪戦苦闘しているのでございます。

 もはや、赤ちゃんの泣き声がその部屋の中からのものであることは疑いようもありませんでした。


 その光景を見て、私は初めてやつらに怒りを感じました。


 強い憎しみもこみ上げて参りました。


 私たちには子どもがおりませんでしたので、赤ちゃんに対するこだわりや愛おしさは人並み以上でございました。


 私のすぐ隣には従業員用の準備室がございました。

 ドアノブを開き、中をのぞくと武器になりそうなものがいくつかございました。私は柄の長い掃除用のモップを手にしました。妻も室内を物色し、鉄製のパイプイスを持ち上げました。


 私たちは本能の命令に従うまま、人間というしゅを守るべく戦うことを選択したのであります。


 なんという無謀な決断だったのでありましょうか。


 無知とはまさに蛮勇。


 私たちは先ほどまでに見てきた凄惨な光景を忘れ、一時の感情に囚われておりました。


 そんな私たちの決意を知ってか知らずか、赤ちゃんの泣き声はより一層高くなり、私たちの心に響きました。


 さて、本日はここまでとさせていただきます。


 それにしても赤ちゃんの泣き声とはなんと希望に溢れたものなのでしょうか。


 一日も早く、子どもたちの声が溢れる日常を取り戻したいものでございます。


 それでは一度失礼させていただきます。


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