第10話
お待たせいたしました。
先日のお話のなかで反響のあった「教職」について少し触れさせていただきたいと思います。
掲示板では、咄嗟の判断でそのようなことがわかるのか、という内容のご指摘、質問が多数ございました。
集団の中にあっても瞬時に相手が何を考えているのか感じる力のことです。
すばり、教師にはできるのでございます。
大きな教室に三百人の生徒相手に授業を行ったことがございましたが、その時はさすがに無理でした。
二百人のときも厳しかったと記憶しております。
百二十人までならば授業の中で板書し、生徒たちに振り返った瞬間だいたいは把握できます。
誰が話を聞いていて、誰が聞いていないのか。
誰が集中していて、誰が聞いているふりをしているのか。
説明していても誰の心に響いていて、誰の心には届いていないのかわかるのでございます。
四十~五十人であればなおさらです。
だいたい一クラスの人数は四十人前後でございますから、十年以上の経歴でそれができない教師などおりません。
ただ、わかっていてもその生徒たちの反応にどう応えるかは人それぞれでございますが……。
若い教師や情熱を持った教師はそれこそ攻め込んでいきますが、それ以外の方々は聞いていないな、届いていないなと認識していてもそのままです。スルーするのでございます。
己の力量の及ぶ範囲を職歴の中でいやというほど思い知らされ、若干諦めが根底にあるのかもしれません。
どちらにしても表情や仕草、雰囲気などで瞬時にその人間の状態を把握することはできるのでございます。職業病なのかもしれません。人に対せば無意識でその判断を常に行っているのでございます。
お疑いならばぜひ最寄りの教育者の方に質問されるべきでございます。もっとも、生存されている人間自体が少ない世の中ではございますが……。
さて、九月二十六日の午前中の話に戻しましょう。
私は妻を抱きかかえ、暴れまわる男の背後から脱出するところでございました。脱衣室のドアを開けば、そこから五階の廊下に出られるのでございます。
妻の嗚咽が背中を向けていた初老の男に聞こえた、と思った瞬間、妻は機転を利かして持っていた木製のハンガーを反対側に投げつけました。
男はまずそちらに向いたのです。
私は走りました。
ドアはもう一mほどでございました。
一歩踏み込んだとき、私は妻を両手に抱えていてドアを引けないことに気が付きました。
その時は何も思案が浮かばず、そのまま突っ込んでドアをぶち破ろうと考えたぐらいでした。まさに早計でございます。もしそうしていたら私たちは跳ね返され、あえない最後を遂げたことでありましょう。
ここでも妻はタイミングよくドアの取っ手を引いてくれたのでございます。
思い返してみると、感情の波に押し流されていても妻は随分冷静だったようです。
ただ、私の一歩目の踏み込みが反対側でした。
ドアの蝶番の方に身体が向いておりました。
わずかなのでしょうが時間のロスが生まれたのです。
一歩右にさらに踏み込まねばドアから出られないのです。ほんのわずかな時間の中で、妻の機転に関心し、また、己の先を読めない動き出しに後悔しました。
結果としてはこれが功を奏したのでございます。
今考えれば当たり前のことなのですが、ドアの向こうにはやつらがいたのでございます。
これだけの石和さんの悲鳴です。
辺りの連中が寄ってこないわけがありません。
この時の私たちは、その場を逃げることしか頭にありませんでした。そもそも先を考えて一手打つためには私たちには経験値が少なすぎました。
外にした三人が、ドアが開いた瞬間になだれ込んできたのです。
私が右に一歩踏み込む寸前でございました。
間近で見るのが初めてのことでしたので、まったく目がついていかず、なにか塊が飛び込んできたように感じました。そもそも三人以上いたのかもしれません。
トイレの木製のドアは半壊の状態になっており、その隙間から石和さんの虫の息が聞こえておりました。
見殺しにしたと非難される方もいるかもしれませんが、私には何もできませんでした。何かしていたら私も妻も今、ここにはいなかったでしょう。
やつらはその勢いのまま、半壊したそのドアの隙間に頭から突っ込みました。
まるで躊躇がありません。
一人が後ろから来た者に弾き飛ばされ、もともといた初老の男性もろとも隅まで転がっていきます。まさに野生の肉食獣の迫力です。発見されたら勝ち目がないことを私は痛感しました。
私はすぐさまドアから廊下に飛び出しドアを閉めました。
私はやつらが取っ手をとってドアを開いたり閉じたりできないことに気づいておりました。鍵ではないのです。ドアが閉まっているのか、開いているのかが問題なのです。
廊下に出た私は大きく肩で息をし、辺りを窺いました。
並んでいるマッサージチェアは閑散としており、誰もおりません。
背後の脱衣室へのドアの向こうで、何かが引きずり出される音を聞きました。
そしてやつらの歓喜の叫び。
妻は耳を塞ぎ、ずっと目を閉じたままでございました。
悪夢にしてもあまりに酷い話です。
私は妻を抱えたまま右手に進みました。
マッサージ店を過ぎ、分かれ道に差し掛かります。
道なりでエレベーターです。
それに乗れば一階の出口にも八階の自分たちの部屋にも行けるのでございます。
しかし、かなり先のエレベーター前に男の姿があったのです。
その姿を目撃するより先にあの低い唸り声がここまで届いておりました。向こうはまだこちらに気づいていないようでした。
私はエレベーターを断念し、分かれ道を曲がったのでございます。私の記憶によれば、そこは宴会場に続いており、そちらにもエレベーターと階段がございました。充分にこのフロアから脱出できます。
無論、この時はやつらの縄張りの広さなど知りようはずがございません。
幸運なことにこの周辺の連中は石和さんの悲鳴に引き寄せられており、目撃したのは離れのエレベーター前にした一名だけでございました。
今考えるとなぜ私たちがやつらに遭遇することなく五階の浴場まで来られたのかよくわかります。
高橋守が、私たちに対して行った依頼と同じことを、片っ端から他の宿泊客に繰り返していたのです。断った客も多かったと思いますが、あの老夫婦のように引き受けた人たちもいたのでしょう。
その人たちが襲撃され、縄張りが一時空いたのです。だから私たちは何事も無く辿り着けたのでした。
おそらく被害者はあの老夫婦だけでは無かったはずです。
宴会場は三部屋連なっておりました。
私は妻を抱えたまま素足でその前を通り過ぎます。
耳を澄ませば襖の向こう、宴会場の中からやつらの声が聞こえてきました。
幾分控えめな歓喜の叫びとともに何かが飛び散るような音。
躊躇などしている時間などありません。
私は音をたてぬよう気を配りながら進んでいきました。
そして、真ん中の会場の襖が破られているに気が付き、心臓が止まるほど驚きました。その間の歩幅としては七歩ほどでございましょうか。もしやつらがこちらを見て食事をしていたら、私たちはその目前を通ることになります。
肉食獣は普通獲物を食している最中はほかの獲物を襲わないと聞きますが、やつらにその概念が適用されるとも限りません。
私たちはなすすべなく襲われるのです。
しかしこのような場所でまごついている場合ではないのです。
退くことも許されないのならば進むしか道がありませんでした。
妻はずっと目を閉じたままでしたが、この時ばかりは私も目を閉じてゆっくり進んだものです。
聞こえてくる音が変化することの無いよう祈りながら。
襖を破って中の人間に襲い掛かれば廊下には背を向けた格好になります。
でももし逃げ回った人間を追いかけていればどちらを向いていてもおかしくはありません。が、どちらにしてもやつらの集中力であれば、食事中に顔を上げることはないはずです。
やつらの唸り声は高まることも無く一定でございました。
私は呼吸などできようはずもありません。
まるで深海の底を歩くようにゆっくり前へと進んだのでございます。
はたと気づくと最後の宴会場の前も通り過ぎておりました。
開かれた宴会場から発する血の匂いに辺りの連中は引き寄せられていたのでしょう。周囲には誰もおりません。返す返すも、私たちの生存はそのほかの犠牲者の上に成り立っておりました。
ようやく辿り着いたエレベーターのボタンを押すことを私はためらいました。 エレベーターは一階に止まっております。もしボタンを押して音でもしようものならば、到着前に私たちは発見される可能性があるのです。
エレベーターはボタンを押したときに音が鳴るのか、到着したときに鳴るのか、それともまったく鳴らないのか、頭の中が混乱している状態で思い出すことができません。
こんなところで賭けに出るわけにもいかず私たちは階段へと進みました。
正直このときまで下へ進むか上に進むか決断しておりませんでした。
一階の外に五十人ぐらいいたことはわかっています。
今頃は崖を登り切って露天風呂まで達している頃かもしれません。ということは外にはいないのか……いや、その前にあの広いロビーを通らなければならいのです。
また、一階へ向かうより八階に向かったほうが近いということも最後の決め手になりました。運命の決断でもございました。
階段は三人ぐらいが一度に通れるぐらいの広さがありました。
やや薄暗かったことを覚えております。
とにかく発見されたら逃げようが無い環境です。
両手の感覚も無くなってきておりました。しかし妻を降ろすと、もしものとき逃げられなくなります。やつらに遭遇した場合、妻は必死に逃げることをせず、諦めて蹲ることでしょう。だからもうしばらく頑張る必要がありました。
この後、私たちは一気に八階まで進めない状況に陥ります。七階で新館から旧館へと一度渡り歩くことになるのです。
今考えてもよくまあ戻りきれたものでございます。
さて、本日はここまでとさせていただきます。
外を見ると随分と雪が降って参りました。
明日の朝になれば膝ほどまで積もるかもしれません。
このままやつらが雪の中へ埋まってくれるといいのですが。
それでは一度失礼させていただきます。
 




