第八篇 妥協の真髄
「政光なら平気で夜中の三時まで起きてるはずだから、今日電話しても大丈夫」
と、月葉に言われたのを信じ、翔也はアパート廊下に出て政光に電話をかけた。内心ひどく緊張している。というのは、こっちは政光の電話番号を知っていても、政光はこっちの番号を知らないので、まず自分が柄井だと認識してもらうまで苦労しそうだ、と思っているからだった。
しかし、それは杞憂に終わった。
「あぁ、柄井か」
ワンコールで出たと思うと、こちらが何か切り出す前にそう言われて翔也は面食らった。
「そ、そうです、柄井です」
「お前の電話番号なら、草壁からもらったから問題ない。──そんで、草壁でも対処できない用って何だ?」
流石に月葉は核心を彼に伝えなかったらしい。翔也は電話帳のついでにもしかしたらと、そこまで月葉に期待した自分を恥じる。
翔也はちょっと間をおいてから、一息に訊ねた。
「えっと……、その、紺屋先輩って、江城先輩のこと、どう思ってるんですか?」
「えぇぁっ?」
凄まじい声が聞こえて、思わず翔也は受話器から耳を離した。まだ通話状態であることを確認して、すぐにまた耳にくっつける。
「ど、どうしたんですか?」
「な、何でお前がそんなこと知ってるんだよ」
紺屋の声は揺れていた。
「ええと……、本人から聞いたんですけど……」
「マジか……、──まぁいいけど。で、何て言ったっけ?」
「え……江城先輩のことをどう思っているか、っていうシンプルな質問で──」
「シンプルかつ、窮極に答えにくい質問だ、お前も分かってるだろう」
「まぁ、想像はつきます」
翔也は内心冷や冷やしながら言った。何だか様子がおかしい。
「……なぁ、なんだ、端的に言うと最強だ」
「さ、最強、ですか……」
「まず、年下だろう、そして肩に掛かる程度のセミロングの髪、そしてなんといってもあの可愛さ、ここだけで俺の女の子を見る水準を撃破するに足る実力がある。そして、あの妙に抜けたところがあるだろう、ドジというか。そうして於いて、あのしどろもどろになって俺に告白する姿は一体どうなっていやがるとね、もう心臓を絞め殺す気ですか、ってな」
「…………」
「そんでもって、俺を好きだという、もうこれだけで神だ。その勢いだけで、混沌が秩序に一斉転換だ、半端がない。しかし、俺は何故か焦ってしまって断ってしまった。本当に焦っていて、何故かすぐさま胸に飛び込ませるだけの度胸を作る猶予が俺には無かったんだ」
「………………」
あの告白の時、そんな風に思っているようには聞こえなかった、と翔也は言いかけてやめた。それ以外に言うべき言葉が見当たらなかった。それ以上に、間違った番号にかけてしまったのではないか、と心配した。
政光の話は続く。
「するとどうだ、規華は健気にも『心の隅の角っこにでも覚えていてくれれば私は幸せですから……』と言った。もうヤバイだろう、どんなエロゲーだよこれは、とね、もう必死だ、引き止めるのに必死だ。そして、その時、俺はずっと弟子となる人間を探していた。もう、もう彼女以外ありえないと確信したね」」
「──あの、それって、どこまで言っていいんですか?」
「ン?」
「……江城先輩にそれを言うとしたら、どこまでそれって告げてもいいんですかね?」
翔也は自分の声に性悪な響きを聞いた。政光は焦ったように言ってくる。
「……ちょっと待て、一体どういう展開になってるんだ」
「流石に好奇心で俺はこういう電話はしませんよ」
「……つまりどういうことだ」
「──江城先輩に頼まれたんです、自分がどう思われてるのか訊いて欲しいって」
「…………」
「こ、こういう返事は予想外だったので……、どうしますかね」
もっと誠実な回答がくるのかと思ったら、とんでもなく素直な有様を聞いてしまったので、翔也は今面白がりながらも戸惑っている。
「──今、何時だ?」
「丁度二時くらいですね」
「俺は現在、絶賛夜のテンション中だ」
「すごい分かります」
「──だから、絶対に、今のことは江城に話さないでくれ」
さっきは『規華』と名前で読んでいたのに、ちゃっかり苗字に変えている。
「話さないでくれ、って言われても……、じゃあ、どう報告すればいいんですか?」
翔也が若干意地悪く訊くと、政光は少し唸ってから言った。
「俺がどうして後継者を募ったか分かるか?」
「えっ……、分からないです」
「……そうしないと、あまりにも生徒が選挙に無関心になるんだよ。今までの選挙の話、会長からいくらか聞いただろ? いくらか努力して立候補すれば、自動的に生徒会長になれるような選挙……、あんなもん俺はいたたまれなくて仕方がなかった。だから話題性を狙って俺は去年、草壁と宣戦布告したんだよ。お陰で選挙は大盛況、俺にもファンができたようで申し分ない結果だった」
「……それでまた、後継者を立てれば去年のように選挙は盛り上がる、と?」
「その通りだ。だが……、そうなると、ある意味去年以上に注目が立候補者に集まるわけだ。そのプレッシャーがどんくらいあるか、俺には察しがつかない。俺は本気で江城には俺の後継として、会長に立候補して欲しいと思っている。だが、本人がどう思うか……そこが少し心配なところだ。あーっと、だから彼女にはそう伝えておいてくれ」
「……はぁ、分かりました」
翔也が了解すると、政光は声のトーンを落として付け加える。
「……なにぶん俺も、告白されるなんてイベント、生涯で初めてなもんで全く勝手が分からないんだ……、少なくとも俺が卒業するまでは、さっきのことは口外しないよう、よろしく頼む」
「……面子って、なかなか面倒な代物ですね」
「お前も直に分かる、それじゃ」
電話が切れた。意識を失ったディスプレイを見やって、翔也は軽くため息を吐く。
政光の恋愛への情熱と不器用さはすこぶる意外だった。もっと飄々としているのと思いきや、凄まじい内部事情を見せつけられてしまった。……夜のテンションというものは、本当に恐ろしい。
それを踏まえて考えてみると、批評党と妥協党の恋路の濃さは異常なほど偏っている。妥協党に溢れるても注がれ続ける感情と、乾いていも根底で繋がっている関係と、いずれにせよ極端すぎるケースであった。
自分はどうなのか。周辺の世界はありえない勢いで回っている。だが中心に居る翔也自身は全く回る気配もなく、ただそれを呆然と見つめているだけだ。
だが実際、自分にできることなどない。あまりにも自分は無力なのだ。できることは、ただ口をつぐんで世界の回転が円滑になるよう手助けをすることだけなのだ。必ず、いつか自分が回る必要が出る瞬間が来る。ただ、黙々と、その日のために、来るのかも知らぬ日のために、準備しておかなければならない。
──目を覚ますと、生徒会室は淋しげな暗さに染まっていた。体の節々が痛む。
翔也は一瞬状況が分からずぼんやりしていると、視界の端に規華の顔が映り込んだ。目をこすりながら、やけに嬉しそうに覗きこんでくる彼女に訊ねる。
「……あれ、俺、寝てました?」
「うん、何だか死にそうな顔してこの部屋に入ってきたかと思ったら、すぐベッドに倒れこんで爆睡開始だったよ。後から来た会長が布団かけてあげたから、もっと入り口から見えにくくなって、彰介なんて多分存在に気づいてなかったと思う」
確かに、身体にペラペラの白い布団がかけられている。ほとんど役に立っていなさそうだが、無いよりはマシ、というようなものだろう。翔也はそれを押しのけつつ、上半身を起こした。
「えっと、じゃあ俺が爆睡してる間に生徒会は終わっちゃったわけですか」
「うん、ついでに終わってから大分時間経ってるけど」
「……マジですか」
翔也は愕然として掛け時計を覗き込むと、昨日月葉と喫茶店に入った時間とほとんど変わらなかった。となると、規華は翔也が起きるまで待っていてくれたことになる。
「起こしてくれても良かったんですけど……」
翔也がぼやくと、規華はニヤニヤとし始めた。
「えぇ、寝顔がなんだか可愛いかったから起こすにも起こせなくってねぇ。でも、どしたの? 生徒会室入って即爆睡だなんて、なんか危ないクスリでもキメたりでもしたの?」
「いえ、夜のテンションのせいです」
「夜のテンション? なになに、何かやらかしたの?」
「……やらかしたのは、どちらかというと──、いや、なんでもないです」
規華は首を傾げたものの、それ以上言及して来なかった。その代わりに、少し不安げな表情になり、恐る恐るといった風に訊ねてきた。
「──ねえ、それで、先輩何て?」
「あぁ……、そのために待っててくれたんですか」
「それ以外に何がある!」
肩を軽くこづかれた。それでようやく眠気が吹っ飛んだ気がする。翔也は昨晩に紺屋が言っていたことを軽く要約して伝えた。
「……というわけで、先輩が紺屋先輩の推薦をどこまで本気で受け止めているかが問題になってるわけなんですが……」
「そ、そうなんだ……そんな魂胆があったのか……」
規華は難しい顔をしたが、すぐに頬を緩めて考えるように視線を泳がせた。
「で、でもそれって、名誉あるチャレンジを私にさせてくれる、っていう話なんだよね」
「そうなりますね」
「ってことは、私のことを相当信頼してくれてるんだ……まだ会って少ししか経ってないのに」
規華は心の中でガッツポーズでもしていそうな表情で言う。──なぜだか翔也は落ち着かなくなってきた。
「あの……、もう先輩は生徒会長に立候補するつもりなんですか?」
「えっ……?」
翔也の質問に規華は目を丸くしたが、すぐに穏やかな表情になった。
「そうだね。生徒会長……立候補……してみようかな。今の、発言で踏ん切りがついたような感じがするよ」
「……怖くないんですか?」
「怖い? そうかな……、どちらかというと、楽しみというか……ってこんな考えじゃマズイか」
規華は舌先を僅かに覗かせた。その言葉を聞いた時、翔也は自分の中に焦りが湧き始めているのに気づく。その焦燥を吐き出すように、翔也は言った。
「お、俺も……、会長から後継者っていうふうに指名されたんですよね……まあ仮、という感じですけど」
「うん、知ってるよ。だから柄井もここに来てるわけなんだし」
「……でも、まだどっちともつかずなんですよ。正式に会長の後を継いで立候補するか、しないか……腹を決められないんです」
「そうなのかー……、別に柄井なら大丈夫そうだけどね。ま、今はまだ悩んでいられる時期だし、そう気落ちすることは無いと思うよ。あの会長さんならするって言っても、しないって言っても笑って受け入れてくれそうだからね」
「……そうですかね」
翔也は自分が姫翠に立候補辞退の申し出をしているところを想像しようして、すぐに取りやめた。いたずらに自分を苛めてもしょうがない、規華の言う通り今は悩んで居られる時期だから──
その晩、翔也はアパートの廊下に出て携帯を取り出した。もうじき日付が変わる頃合いで、周りですっかり沈黙した民家たちを奥の見えない闇が覆っている。しかし、夜中に訪れる幣原瑠子の部屋よりはまだ明るい、と翔也は思った。
「もしもし」
「おう、柄井か」
昨日と同じくワンコールで政光は応答した。昨晩よりも大分落ち着いた声をしていたので、また妙なことを聞かされることはない、と翔也は安堵する。
「お前、今日生徒会来てないよな? 何してたんだ」
「いえ、行きましたよ。ずっと寝てましたけど」
「……あの白ベッドでか? お前、適応が早すぎるだろう……」
「驚いても一瞬で驚き尽くすタチなんで、適応も早いんですよ」
熟睡するまでの過程を翔也は簡潔に話してやると、政光は面白がるように笑った。
「お前、この時間帯に慣れてないんだろ。無理に夜更かししても良いこと無いぞ」
まだ生徒会室に通い始めて三日だというのに、なんとも不躾なことをしてしまった、と翔也はひどく慙愧に堪えない思いがしている。それでも一切お咎め無しという生徒会は、果たして寛容と言うべきか、適当と言うべきか。
電話口から政光の咳払いが聞こえた。
「それで、何の用だ」
「江城先輩から聞いたことを一応、報告しようと思いまして……」
翔也は規華が言っていたことを説明した。要旨としては政光が信頼していることを知ったので、正式に政光の後継者となろう、ということだ。
「なるほどね……、もう意欲はスゴイのか」
政光は前回の勢いとは正反対な、落ち着いた語調で言った。
「まぁ、それは後で俺が直接問い直すことになるだろうな。……俺への憧れに任せて、軽率に決断されたんだとしたら困るからな」
「あれ……、意外と殊勝ですね。俺はてっきりまんざらでもない風に思われるのかと……」
「──まぁ、好かれるのは悪くないことだ、お前も直に分かる。あと、昨日のことは忘れろ。……じゃあ、報告ありがとな。今日はさっさと寝ろよ」
そんな風に通話終了の流れになってしまったのを、翔也は慌てて止めた。
「あ……、最後に一つ、質問良いですか」
「ン? 何だ?」
「……どうして、妥協をするんですか?」
翔也にとっては渾身の質問だった。彼自身のアイデンティティに深く突っ込むような質問だと覚悟をしていた。これが、これほど踏み込んだ話を政光とできる最後の機会なのだから、是非とも最後に訊いておきたいことだったのだ。
「ん……? 俺ってそんな妥協してるように見えるか?」
政光はきょとんとした風に言った。でも、翔也は気勢を挫かれることなく続ける。
「俺はそうは思いませんけど……、やっぱり、『妥協党』と名前がつくくらいなんですから、やっぱりその要素になる、その、心がけみたいなものがあるのかと思って……」
「──俺は妥協が大好きなのは事実だ。だが、それはむしろ妥当というニュアンスに近い妥協だ。妥当性を欠いた妥協は、思考停止に違いなく、なによりナンセンスだろ。んでもって、妥当性を求め過ぎたら、それは批評になる、月葉みたいにな。──妥協っていうものは怠惰のように見えるけどもさ、案外難しいんだな、これが。できねえヤツが下手に妥協するから、妥協にマイナスイメージがつきまとうんだ」
「──」
「まぁ、なんていうんだ。俺は妥当を探してるんだ。その妥当ってのは……喩えで言うなら、全人類が一、二の三、で妥協すれば世界は平和になるだろう。スケールはでかすぎるが、まぁ、つまりそういうことだ」
翔也はその壮大な喩え話を頭の中で転がしてから、慎重に言った。
「……よく分からないんですけど、とりあえず面倒なことが嫌いってことですか?」
「本当によく分かってないようだが……、別に間違っちゃいない。ただ、少しばかりアクティブな面倒くさがりってところだ」
「なるほど……、分かりました、ありがとうございます。では、すみませんでした、時間取らせちゃって……」
そう言って通話を切ろうとすると、政光の声が慌てた風に聞こえてきた。
「ちょっと待て、俺も一ついいか?」
「何ですか?」
「お前、生徒会長になるつもりがあるのか?」
あたかも政光が背後にいるような気がして、翔也は思わず振り返った。しかし、自宅の無骨な扉が蛍光灯に照らされて、悄悄と佇んでいるだけだった。
その質問はあんまり触れてほしくない、忘れようとしていた部面であり、翔也の心をひどく揺さぶった。しかし黙ってもいられないので翔也は唇を湿らせて、重々しく言葉を溢す。
「……まだ、分からないです」
「…………分からない、か。分かった。じゃ、まだ寒いから暖かくして寝ろよ」
政光は言い終えるとさっさと切ってしまった。耳に当てている携帯のディスプレイがいきなり冷たくなった気がする。翔也はゆっくりと携帯を耳から離して、ポケットにしまった。
「俺が、生徒会長……なんて……、まさか……」
忘れるように努めていた、『会長』という単語を呟いた瞬間、世界が一斉に翔也の進むべく方向から退いた心地がした。そこにはぽつんと、危なっかしい道が伸びているだけ。そこを歩くと、大勢の生徒からじろじろと観察されて、あれこれと噂をされる。たまに、誰かが立ちはだかってにたにたと笑う大衆と面を合わせることを強要する。だが、進まなければならない。
それがひどく怖かった。あの凄絶な数の視線を前に毅然としていられるほどの才幹を、翔也は自分に認めていなかった。自分はパッシブな男なのだ。エキストラの一人として細々と暮らしていくように、自分で志向してきたような男が、公衆の前で自分を晒すなど考えられなかった。
確かに、そんな道を姫翠は歩いてきた。それは、彼女が特別だからだ、と翔也は心底で思っている。素はあんなに引っ込みがちだけれども、その素性を隠すだけの面皮を作るだけの才覚があった、だからあれほどの高名を得ているのだ。
自分は、違う。
見せかけの自負や矜持でさえ背負えないほど、この背中は弱々しく痩せている。
分からない、と言ってしまったが、会長の後継者となることは断ると、腹の中で決めていた。隣人とは少し気まずくなるかも知れないが、──それでも、姫翠は別の人材を見つけるに違いない。だから、早めに翔也も生徒会室から退かなければならない。少なくとも、四月中には──。




