第六篇 あの日できた風穴
その部屋に踏み入れるのが何回目になるか、翔也は最初のうちこそ数えていたが、今ではすっかり忘れてしまった。それでも、毎回入る時に抱く期待と、すぐにそれがひっくり返る落胆は未だに慣れることができない。
いつもその部屋は薄暗かった。訪れた時間が遅いからというのもあるが、そもそも照明器具がベッドの脇に置いてあるそれ一つしかついていないのだ。
「来たよ」
翔也が声をかけると、幣原瑠子はベッドの上で上半身を起こした。
「今日はいつもよりも遅いね」
「あぁ、ちょっと学校で色々あって」
「へぇ」
二年近く伸ばしっぱなしの彼女の髪はひどく長く、カーテンのように前髪が顔を隠していて、表情は部屋の暗さと相俟ってほとんど窺えない。その細やかな髪の隙間から見える右眼の僅かな輝きだけが、彼女の表情の全てだった。
「……何だかすごい成り行きで、生徒会に顔出すことになってさ」
「翔君が生徒会? 嘘だぁ」
「いや、行ったことは本当だ、まだ入るとは決まったわけじゃないけど……。まぁ、多分、嘘になるだろう」
「そうなの? ……じゃあ、あの生徒会長さんにも会ったの?」
翔也はどきりとして瑠子を見た。ぼんやりとした部屋の照明に照らされた彼女は、なんだか今にも闇夜に紛れて居なくなってしまいそうだった。
「そうか、お前、入学式は出てたんだっけ」
「うん……まぁ、終わったらすぐ帰っちゃったんだけど……」
姫翠に話した幼馴染とは、瑠子のことに他ならない。翔也が気にしていたクラスの空席も、実際は瑠子が座っているはずだった。
翔也と瑠子が中一の頃、煙草を吸ったのか、火花が散ったのか知らないが、ここからそう遠くないガソリンスタンドが爆発事故を起こした。そこをたまたま通りかかっていた瑠子とその母親は不幸にも被害に遭った。
猛火は一瞬で彼女たちに迫った。母親は、恐らくは殆ど本能的に、娘を抱きつくようにしてかばった。母親は背面を広範囲に渡って深い火傷を負い、程なくして亡くなった。瑠子の方は、母親のお陰で一命を取り留めた。
──しかし、吹き飛んだガラスの破片が瑠子の母親の肩口からはみ出した左眼に突き刺さったらしく、手の施しようもなく失明してしまった。それと同時に左眼周囲もひどい火傷を負い、今も残る傷跡を残した。
一晩にして肉親を失い自分の顔も醜くなったことから、瑠子は想像もつかないような苦悩をすることになる。
翔也は発狂寸前の彼女を目前にして、何も言うことができず、ただ、その手を掴んでやるだけしかできなかった。ただ、その手を瑠子はきちんと握り返してきて、震える声で言った。
「わ、私を、嫌わないで……」
翔也は何回も承知した。それがたった一つ与えられた、救われる道に思われたから。
以来、こうして頻繁に彼女の部屋を訪れている。
瑠子は左半分の亡くなった顔を、もう誰にも見せたくなかったために学校に行くこともなく、一日中ベッドの上で過ごすようになった。今でも、こうして部屋が薄暗く、前髪を伸ばして顔を隠すのは、翔也にもその顔を見せたくないからだろう。
それでもなんとか自宅で勉強をして中卒認定を受け、翔也と同じ高校進学を果たすことができたのは、元来の聡明さが幸いしたと言っていい。クラス割り振りもそうした事情が吟味されて、翔也と同じクラスになり得たらしい。──翔也を支えにして高校生活を過ごせるように。
結局一日ももたなかったが、翔也は仕方が無いと思った。それでも、いつか少しずつでも復帰してもらいたいとの一心で、以前と同じくこの部屋に通い続けることにしたのだった。
「私もああいう風になりたかったな……」
「……」
姫翠の姿は瑠子の心を掴んだらしかった。そんな会長の歩んできた経緯を教えてやったら、瑠子も同じく奮起してくれるだろうか。翔也は一瞬そう考え実行しようとすら思ったが、姫翠の泣きそうな顔を思い起こすと罪悪感が湧き出してきて、すぐさま取りやめた。
「生徒会行って、何してきたの?」
「そうだな……、ほとんど新入生の各委員会でどう扱うか、だったな。大分気楽そうな雰囲気だったよ」
「そうなんだ……、生徒会って他に何人いるの?」
「それがさ、俺も驚いたんだけど、会長含めて三人しかいないんだって」
「ええっ、三人だけで大丈夫なの?」
「何か大丈夫らしい……、まぁ生徒会自体がない高校の話も聞くし、案外大丈夫なんじゃない? ──なんか、今日はいつもよりよく話すね、なんか良い事あった?」
「え? ……別に無いよ。でも、あの会長さんが素敵だったから」
瑠子は照れくさそうに言った。彼女が感情を顕すのは久しぶりのことで、翔也は少し嬉しくなる。
「凛としてて、立派な人だよ」
「いいなぁ、間近で見れて」
「──お前も学校に来れば、会えるんだけど」
一瞬躊躇ったが、翔也は思い切って言ってしまった。瑠子は驚いたように翔也見る。それから少し困ったように目を伏せ、沈黙の後に口を開いた。
「……怖いよ……」
心の底から聞こえる悲鳴のような、小さな声だった。
「そうだよな、良いんだ、別に無理に言ったわけじゃないから」
「……ごめん」
瑠子はしゅんとして言った。
──三十分程話し込み、頃合いを見て翔也は帰宅することにした。
「じゃあ、また明日」
「うん」
幣原家を後にする翔也に、瑠子の父が玄関まで見送りに来てくれた。
「……翔君、いつもありがとな」
「いえ……約束しましたから」
翔也はあっさりと言うが、彼女の父の心情もある意味瑠子以上に揺れて朽ちそうになったことは弁えていた。一瞬にして愛する人とその娘が元の姿を失うその衝撃が、どれほど彼を痛めつけたのか。以前よりすっかり痩せてしまった瑠子の父を見れば、断片だけでも窺うことができる。
瑠子の家を出ると柔らかい風が頬を撫でていった。毎回、この時にどこかほっとしたような気持ちを抱くことを、翔也は否定できない。いやしくも口に出す言葉と内心には、信じがたいズレがあるのではないかと、他人ごとのように翔也は思っていた。
家に着いた時、隣の家の明かりがついていなかった。姫翠は不在らしい。
翔也は細々と息を吐いて、自宅の扉を開いた。
次の日も翔也は生徒会室へ向かったが、昨日と同じく誰も居なかった。翔也は肩透かしを食らった思いで入室して、何となく昨日と同じようにベッドに腰掛ける。
翔也は上履きを脱いで脚をベッドの上に投げ出した。そのまま、横になってみる。小学校の時、誰かが手を滑らせてとばしたリコーダーが額に直撃して、失神した時もこれと同じように固い保健室のベッドに横たわっていた気がする。
翔也がなんだかひどく懐かしい感慨に襲われて、いい気分になった瞬間だった。
「こんちはああああっ!」
扉が割けるような音を立てて開いた。翔也は驚いて硬直したものの、物騒な格好をした部隊が突入してきたわけでもなく、入ってきたのはどうやら規華一人であるようだった。
「…………って誰もいない。せっかく、気合入れたのになあ」
前にも月葉に咎められたというのに、あまり改善する気はないようであった。
それよりも、やはりこのベッドは入り口から見事な死角になるらしい。規華は翔也の存在に全く気づく様子もなく、手近にあるパイプ椅子に腰掛ける。あの騒々しい入室を見てしまったからには、今更のこのこと出ていくことが躊躇われた。
「なぁ、もうあの突撃はやめてくれ……、外から見てたけど、中にいる人間を殺すつもりなのかよ……」
そこに呆れたような彰介の声が入ってきた。彼も翔也の存在には気づかないらしい。
「だって普通に入ったとして、もし中にいる人達に気づいてもらえなかったら、『いつの間にいたの?』って気まずい雰囲気になるじゃん」
「それにしたって極端すぎるだろうよ。それなら、『ラーメンお待ち!』って言えば誰だって気づくはずだ」
「……それは流石に場が凍るよ」
「心臓が凍るよかマシだろ」
お互い真面目に言い合っているとは思えない応酬を本気でしているようなので、翔也は一層姿を晒しにくくなった。
規華がふと思いだしたように言った。
「──そういえば、今日三年の先輩って何かあるんだっけ?」
「何か進路関係の講演かなんかで少し遅れるんとか言ってなかったか」
「あぁ、そうだったそうだった。でも一年の子も来てないね」
「柄井翔也だ、覚えてやろうぜ。──ま、多分どっかの勧誘にでも引っかかってるんだろ。俺も解禁日に絡まれて大変だったわ」
自分の名前が出て翔也は一瞬身をすくませる。最早ここまで来ると、故意に彼らの会話を盗み聞きしているように思われてしまいそうだ。幸いそんな翔也の動揺が二人に伝わることはなかった。
「そんな童顔だから一年生に間違われるんでしょ」
「俺って言うほど童顔じゃなくねえか? 見た目と中身全然違うだろ」
「誰かと中身を交換したかのように違うよね──。ところでさ」
ふいに規華の声が小さくなった。
「郡山って……、月葉に告白したの……?」
「えっ! なんだよいきなり!」
「……昨日、そう聞いたからさ」
規華の様子は、彼女が政光に告白した時のそれとほとんど一緒だった。基本的に、彼女は恋沙汰について不慣れなところがあるらしい。
反面、彰介に関してはそうでもないようだ。
「まぁな、相当ダメ元だったけど……でもこれ以上手をこまねいててもしょうがねえと思ってさ」
「じ、実を言うと、わ、私も……告っちゃったのよね……」
「えええええ! 草壁先輩にか!?」
彰介がそう言った瞬間、椅子が倒れた音がした──、さしずめ規華が立ち上がったのだろう。
「なっ、ちち、違うっ! そんなわけないでしょ!」
「わわ、分かった、分かってる、俺はきちんとお前が紺屋先輩が好きだってことくらい分かってる!」
「──そ、そう……」
彰介の主張に、却って規華は恥ずかしそうに細々とした調子になってしまった。
「……それで、郡山はいつ再チャレンジするのかなぁ、って気になって」
「さ、再チャレンジって、何を?」
「何をって……もう一回アタックし直すんでしょ?」
規華の質問に、彰介は少し黙ってからぽつりと反問した。
「…………お前はすんのか」
「だって……、そういうものじゃないの? 初対面って理由で断られたなら、自分をアピールしていつかリベンジしようとするものじゃないの?」
「いやぁ、何だかさあ、告る前までは俺と草壁先輩との差が日本からロンドン並の遠さがあるように思えたから大分熱狂的で居られたんだけど、今はこうして何気なく話せるっていう状況になったじゃん。それだけで俺、大分満足しちゃってるんだよな。──だから、そんな考えてないんさ」
「……そ、そう……」
それきり規華は口を閉ざしてしまって、生徒会室が静かになる。心臓の鼓動が、彼らの耳に届くのではないか、と翔也が冷や冷やし始めた頃合いに、扉が開く音がして、彰介の声が言った。
「トイレ行ってくるわ」
返事はなかった。翔也は、規華が本気で塞ぎこんで脳天気な彰介に憤慨しているのではないかと、思わず棚の陰から顔を覗かせてしまった。
規華は返事をする代わりに、手をひらひらと振って彰介を見送ったようで、別段怒ったような表情も見せていなかった。独りきりになったと思った彼女は、椅子に座り込んでぼんやりと床を見つめている。
「……あの、先輩」
「うぎゃあああ!」
翔也が堪えきれずに声をかけると、規華は文字通り飛び上がって椅子から転げ落ちた。かなり痛そうな音がしたので、翔也は急いで彼女に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「うわああああっ……って、柄井かああ! 某諜報組織のエリートスパイかと思ったじゃんか!」
「す、すいません……」
規華は最初こそ興奮していたが、椅子に再び腰掛けた時には落ち着いたようだった。
「いつからいたの?」
「最初っからです。──随分威勢よく入ってきましたよね」
「えっ、あ、あれも聞いてたの!」
「……思えばあれのお陰で完全に出ていくタイミングを見失ったんですけど」
「じゃ、じゃあ、郡山との裏話も?」
「……はい」
翔也は頷いた。
規華は一瞬目を伏せて、それから翔也の眼を真っ向から見据える。その瞳は動揺を湛えていた。「うぇえ……、じゃあ、全部知っちゃったわけ……? その、私が、紺屋先輩のことが好きだ……、ってこと……」
知ってるも何も告白の現場に立ち会わせていた、といえるはずもなく、しかし平然として今初めて知ったような口ぶりで肯定することも憚られたので、翔也は静かに首肯してみせた。
すると、規華は気難しい顔を作って唸る。
「むぅぅぅん……、そ、そうだ、じゃあ、ついでにバラしちゃうと、彰介も月葉のことが好きなの! こ、これで対等でしょ!」
「誰とどう対等になるかは知りませんけど……、まぁそういうことにしておきます」
ついででも対等でも無かったが、敢えて突っ込まぬよう翔也は言葉を慎重に選びながら言った。すると、規華は急に顔をそばめて、恥ずかしげにさっきよりも細かな声を出した。
「……じゃあ、柄井はどう思った? その……、今の私と、郡山の話」
翔也は彼女のその唐突な萎縮ぶりに驚いた。その原因は単純に不器用な恋心と取ることもできるだろうが、どちらかというと、もっと露骨に表れているのは純粋な政光への懸想だ。
「先輩、一途ですね」
「……ううう、悪いかっ」
規華が出したそんな言葉の矛は、先端がかなり丸かった。なるほど、彰介と言わずとも、誰だってからかいたくなるものだ。それでも翔也は精一杯真面目に言うべきことを考える。
「まぁ、俺はそんな恋愛なんてしたこと無いんで大したこと言えないですけど……、それぞれが思ってる筋道があるんですよ。先輩の再アタックするっていうのは、……かなり、リスキーだと思いますけど、紺屋先輩なら多分、理解してくれるんじゃないですかね」
「……本当かなあ、あの人何考えてるかわかんないだもん」
「──確かに、そうですね。まぁ、言ってることが全てって気がしないでもないですけど」




