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第三篇 遅れてきた客人

 彼女はロッカーから二、三歩踏み出すと、埃を払うように制服を叩く。

 翔也は目が眩む思いだった。トイレからこの教室に至るまでの出来事も衝撃的ではあったが、このような展開を迎えてしまっては、今までの経過が前菜だったと言っても過言ではない。その経過を忘却させるくらい、現況は異常であった。

 翔也が何も言えずに佇んでいると、彼女は視線をふっと彼に向けた。

「教室を間違えたの?」

 透き通っていくような声だった。どこかで聞いたことがある声。声だけでなく、その姿も見たことがある。

「え、っと……そ、そうです、Y棟に行くつもりが、こっち来ちゃって……」

「そうなの。でも、間違えた方が早く覚えられるから、悪いことじゃないね」

 掃除用具入れから登場したとは思えないほど優雅な語り口だ。

 翔也はそんな風に思ってから、慌てて思考をできるだけ実際的な方向に引き戻した。あってはいけないようなことが今、ここで起こっているのに、のんびりと雑談している場合ではない。

「……えっと、何でそのロッカーに入ってたんですか……?」

 無意識のうちに、恐る恐るといった口調になっていた。彼女はそんな彼の態度を包みこむような柔和な表情をして、教室前方に向かって歩き出す。

「今日、ここで告白がある、っていう話を聞いたから」

「は、はぁ……」

 つかみ所のない回答だったので、曖昧な反応をせざるを得ない。彼女があの告白を見に来たということなど、分かりきったことのような気がしていた。それよりも、その裏にある事情を知りたい、と貪欲に思っていたのだ。

 そんな翔也の思いを見透かしたかのように、彼女は丁度一番前の席あたりに立ち止まって、その深遠な瞳を彼に向ける。

「……案外冷静だね、こんな色々起きてるのに」

「驚く時は一瞬で驚き尽くすタチなんで……」

 彼女の眼に、静かな興味の炎が宿った気がした。

「そうなんだ。──今の告白を受けていた方のは、紺屋政光……名目上は、生徒会書記ってことになってるけど、実際は副会長と変わらないかな。選挙ってちらっと言ってたと思うけど、彼は去年の九月の選挙で初めて出馬してきて、会長にはなれなかったけど票数的に生徒から相当の信頼を受けている、そういう理由から、生徒会室入りしたの」

「へぇ……でも、結構変な人ですよね」

「変……か。それが彼の強みかも知れない」

 彼女は軽く笑った。

「政光の基本的な姿勢だもの。あの妥協を好む性格と、まぁ潔さっていうの? その『真摯な妥協』を貫くのが政光は上手い……。だから、彼を支持する人のことを総称して『妥協党』って呼んだりして、選挙の時は話題になってたなぁ」

 『妥協党』。あまりにもマイナスイメージの強い名称だ。実際の公的な選挙でそんな党が出馬してきても、誰も票を入れないだろう。それでも、副会長になれるだけの票をかき集めたというのは、彼の非凡さを感じさせる部面である。

「……それで、どうしてそんな彼の告白現場を見たいと思ったんですか?」

「──そんなに知りたいの?」

 軽く投げかけられた疑問であったのに、それを肯定することで、もう安易に引き返せなくなってしまうような気がした。しかし、どう考えた所で否定することを思いつかなかった。この一途に知りたいと思う気持ちは、どこから湧いてきているのか。

 それは他でもない。

「だって、生徒会長が掃除ロッカーから出てくるなんて、おかしいじゃないですか」

 それが唯一にして最大の疑問だった。

「……やっぱり?」

 麗人はいたずらを成功させた子供のような笑みを浮かべた。思いもよらぬあどけない仕草に、翔也は一瞬どきりとする。それが、浅井曰く『天界で五年に一度咲く花』と称される、大楽庭学園の生徒会長、由利姫翠なのだから尚更のことだった。

「よく私が会長って分かったね。そんなに私って有名人?」

「え……、だって、入学式の時、前で話してたじゃないですか」

「あれはほとんど儀礼的な感じだしさ、私をこれっぽっちも見せられない場所だから、てっきり印象に残らないものだと思ってたけど……、そこで私の顔を覚えるなんて、君って結構真面目なのね」

「……よく教育を受けてますから」

 あの究極にずぼらな父が否応なしに反面教師となるので、最低限の作法は身についている。むしろ身につけないと、堕落していくような気がする。

「まぁ質問に答えると、私が気になったのは、あの『弟子』のこと」

 姫翠は背中を向けて窓辺に歩いていき、縁に手を置いた。

「多分、単純に後継者って解釈で良いと思う。政光も私と同じく三年生だから、もう来年選挙に出ることはできない。そこで、どういう意図か知らないけど、次期生徒会長に立候補させる人材を探しているらしいの。──そんな時に、今日彼がここで誰かと会うって情報が流れこんできたからには、監視しないわけにはいかないでしょ?」

「え、でも、次期ってことは、もう三年生の会長は参加できないんですよね。なら、別にそこまで気にする必要は無いんじゃないですか?」

「そうかも知れないね……、ただ、去年の選挙の熱烈な盛り上がり方から、今年の入念な後継者育成、という流れから考えると、私がただ何もせずに引退するのは、立場として危うくなってくるかも知れない……、ただでさえ、前例を聞いたことがないから」

「去年の選挙って……そんなに盛り上がったんですか?」

 翔也が訊ねると、姫翠は髪をなびかせて振り返った。

「私が初めて当選した時──、一昨年の選挙の時は私がぶっちぎりだったの。それが毎年の伝統だったらしくって、先輩の代もその上も、皆ほぼ票をひとり独占して生徒会長の地位を手に入れたんだって。そんな消極的だった例年に比べたら、去年は異常だった……、一年、生徒会長をしていたっていう私のステータスが無ければ、負けていたんじゃないかな」

「そんなにその、紺屋って人すごいんですか?」

「少なくとも立候補前から注目はされていたけど、それだけならまだ例年通りだったと思う。また私が会長になる、って感じの風潮の中で、彼と同じくらい信頼が厚かった子と一緒に、どちらかが私に勝ってみせる、って宣言したもんだから、一気に盛り上がったの」

 全校生徒が二千人以上が一斉に興味を持った──文化祭の直後でその熱が余った状態だから、尚更その盛り上がりはすごかっただろう。

「そんな選挙になんとか勝って、私は二年目の生徒会長をしてる最中、なんだけど──」

 姫翠は困ったように頬を指先で小さく掻いた。

「いわば政敵みたいな政光が後継者を準備してる、なのに私は何もしないってことを、生徒がどう思うかってことを考えれば、私も何かしらやらなくちゃ立場が無いからね……。 ──だから、彼の後継者を偵察しに来たの。後輩からの告白っていうのはちょっと予想外だったけど」

「……えっとその、紺屋先輩はまだ会長へのライバル意識があるんですかね」

「うぅん、全然そんなの感じないけどなあ」

 少し寂しげに姫翠は言った。仲良くしているつもりだったのに、裏に実は敵意を隠しているかもしれない、そういう気持ちは翔也にも察せられる。

 その時、翔也は思い出した。先ほど廊下で目撃した告白のケースでも、『生徒会』という言葉が出ていた──。

「あの、去年のその選挙の時、紺屋先輩と一緒に立候補した人ってもしかして、クサカベって人ですか?」

 すると姫翠は驚いたように口元に手を当てた。

「うん、そうだけど……何で知ってるの?」

「ええと…………、さっき、廊下を通っていた時に──」

 翔也は洗いざらい聞いていた事柄を話した。先程まで、この教室でなされていたのと、同じような展開の会話をしていたこと。しかし、その態度はまるきり正反対であったこと。「見習」と称して彼を生徒会室に連れていったこと。

 姫翠は少し嬉しそうに翔也の話を聞いていた。

「彼女は草壁月葉っていう三年生……、名目上は生徒会会計だけど、実際は副会長。実際その声を聞いたっていうから、よくわかったと思うけど、あの子の取り柄はその毒舌……もとい『批評』ね。結構おとなしそうな感じだけど、あの痛烈な『批評』が話題になって、当時は彼女を支持する層を『批評党』って呼んだりしてた」

 『批評党』。『妥協党』とは、正反対なスタンスである。しかし、その苛烈なイメージがなんとも寄り付きにくい印象を与えるし、実際彼女──草壁月葉の言葉も苛烈だった。それでも票が集まったということを考えると、あの言葉の裏に限りない含蓄があって、それが生徒の心を捉えたのかも知れない。

 ふと気がつくと姫翠は考えこむように視線を落としていた。翔也はなんとなくその面貌を眺めていたが、やがて、彼女は見られていることに気づいて、ゆっくりと翔也に目を向ける。

「ってことは、今、生徒会室に四人くらい集まってるってことになるの?」

「そうですね」

「生徒会室に向かったってことは、私に素直にあの後輩たちのことを報告するつもりがあるわけだから……私がここで張り込んでる必要無かったの?」

「……そうなりますね」

「…………」

 姫翠は押し黙った。そのままじっと真正面から見られて、翔也はつい視線を逸らしそうになる。しかし、ここで逸らしてしまったら、二度と姫翠と話ができないかもしれない、という根拠のない不安が湧き出した。むしろ開き直ったようにその瞳を覗き込むように意識する。

 すると突然、姫翠の眼は真剣な色を帯びた。

「私が掃除ロッカーに入ってた、って絶対、誰にも言わないで」

 『批評党』党首ほど鋭くはないが、ぐいと迫るような口調に、翔也は一瞬たじろいだ。

「い、言いませんよ……」

 実際にその光景を目撃した翔也ですら、一瞬信じられなかったのだから、まして噂で広まったとしても誰も信じなさそうなものなのだが。

「絶対ね、絶対だよ!」

 姫翠は語調を強めて念を押した。

「……分かりました……」

「うん、絶対だからね! ──じゃあ、私は生徒会室に行かなきゃいけないようなので」

 姫翠は翔也の脇をさっと抜け、扉まで小走りで向かっていく。だが、ふっと立ち止まり翔也を見返して言った。

「あ、そういえば名前は?」

「か、柄井翔也です」

「ん、柄井君、覚えておくね。……なんだか、また近いうちに会いそうな気がする」

 姫翠はうち微笑むと、歩みを止めていた足を進めだした。

 彼女はそんな風に言ったが、また会長と対面で会話できる機会なんて無いだろう、と翔也は感じ、咄嗟にその背中に声をかけた。

「あ、ちょ、ちょっと待って下さい! 最後に一つだけ!」

 翔也が咄嗟にそう声をかけると、彼女は引き戸に手をかけて肩越しに振り返った。

「何?」

「……何で、掃除ロッカーに入ってたって知られたくないのに、俺の前には出てきたんですか?」

 姫翠は考えるように視線を泳がせて、やがて柔らかく微笑んだ。

「驚かしたかったから」

 それだけ言うと彼女は手を掲げて、教室から出ていった。

 今度こそ本当に一人になった。止まっていた時間がようやく動き出したような感じがする。

 翔也は掃除ロッカーへ歩いて行って、開けっ放しだった扉を閉じた。扉にはスリットが三本並んで空いていて、そこから教室の中を見渡していたのだろう。どれほどこの中に居たのか知らないが、かなりご苦労なことだ、と思った。

 電気を消して廊下へ出る。四月とはいえ日が落ちると肌寒い。昼は活況としている廊下だが、夜は静寂に満ちてひんやりとした空気を漂わせている。

「驚かしたかったから……、か」

 数分後、今度こそ自分の教室に戻ると鞄はきちんとそこにあった。とりあえず安堵する。

 なんとなく戯れに、掃除ロッカーを開けてみたが、もちろん誰もいない。だらしなくぶら下がる雑巾に、埃だらけのモップ、刷毛がボロボロの箒に傷だらけのちりとり、あちこちがへこんでいるバケツと言ったものが、乱雑につめ込まれているだけだ。

 我慢しきれなかったのだろう。この汚い空間にたまりかねて、出てきたに決まっている。翔也ですら、一分も入っていたいと思わない。いわんや、良い育ちの由利姫翠となれば、尚更だろう。ロッカーに入っていたことが無駄だったと悟った時の、あの沈黙がそう物語っていた。

「……全く敵う気がしない……」

 翔也はぼやいた。


 あくる日の土曜日、非常に麗らかで過ごしやすい日の午前中、翔也は宿題をやっていた。春休みのうちにやっておくべきものだったが、やはりやらずじまいであったものだ。しかし、それほど難しくも無いので、今日と明日で余裕で終わらせられるだろう。

 翔也もは昨日から考えていることがあった。あの生徒会長と接してみて、生徒会に入っても良いかなと思ったのだ。単純な好奇心に起因する憧れであった。そのことを昨晩、早速メールアドレスを交換した浅井に打ち明けてみたら、しばらく返信が来なかった。後に届いた文面曰く、「腹がぶっ壊れるかと思った」ということで、笑い転げていたらしい。

「生徒会は完全に選挙で選ばれた人しか入れないから、部活感覚で入れるわけがない。もし、入りたいなら、評議委員にでもなって、学園を揺るがすほどの大活躍しないと無理だな」

「そうかい」

 翔也は仏頂面で返信をした。こうして生徒会への道は閉ざされた。

 生徒会へ入りたいと思ったのは、そもそもあの熱烈な勧誘を切り抜けたいという目的があったからだ。またトイレに入るのは御免なので、もういっそ開き直って、浅井にのこのこついていって、雑学研究会に入るのも手かもしれない。

 そう思い立って、浅井へのメールを打とうとした瞬間、チャイムが鳴った。返事をして、翔也は立ち上がる。そういえば、今日は新居者が来る、とのことだった。なのに、父は全く気にかけた様子もなく仕事へ行ってしまった。適当すぎる、と翔也は思った。ただ、昔に比べれば事前に知らせるようになっただけマシだとも思った。

 どうか優しそうな人であって欲しい。初めての客である宇垣が初めて訪れた時、翔也は卒倒するほどビビったものだった。

「はい」

 翔也は若干緊張しながらドアを開けた。

 するとそこに立っていたのは、翔也と同じくらいの身長の女性で──

「あっ」

「あっ……」

 翔也が声を上げたのと、来客が声を漏らしたのはほとんど同時だった。そして、瞬時に気まずい空気が漂い始める。この空気のままではいたたまれないので、翔也は生唾を呑み込みながら口を開いた。

「か、会長……ですよね」

 彼の目前で、彼以上に驚愕の色を見せているのは、紛れもなく大楽庭学園の生徒会長、由利姫翠その人に違いなかった。

 翔也は戸惑いながら言う。

「も、もしかして、今度うちに引っ越してくるのって……会長のことだったんですか」

「……」

「あ、いや、ち、違いますよね。会長ほどの裕福な方なら、こんな安アパートでなくても他に選択肢がありますから、こんなアパートに引っ越してくる必要も無いですよね……はは……」

「…………」

 翔也は本格的に困り果てた。姫翠は顔を強張らせたまま、うんともすんとも言わない。なんだか、昨日の彼女とは別人のようだった。

 服装は地味目なカーディガンに、薄い色のロングスカート。もしかしたら、姫翠は瓜二つの姉妹がいてこの人はそっちの方、と思ったが、明らかに姫翠は翔也の姿を見て動揺しているようだったので、その線は違うだろう。絶句されるほどの心当たりが無い。

「う、うーんと……ど、どうしたんですか……? お、俺なんかやっちまいましたかね……?」

 翔也が観念した風に訊ねると、姫翠はようやく言葉を発した。

「──あっ、えっとその……、んーっと……」

 しどろもどろになって、彼女はなにか弁明しようとしているが、何も言葉がでて来ないようであった。しかし、ちらちらと何度もある方向へ視線を向けている。翔也はもしや、と思って道路のほうを見やってみると、案の定引越し屋のトラックが待機していた。

「……や、やっぱり、うちに引っ越してくるのって……会長だったんですか」

「………………はい」

 姫翠は限界まで顔を伏せて、小さく言った。さながら、窓ガラスを割って怒られている小学生のようであった。──魔法から解けたかのように、昨日あった威厳は彼女から感じられない。去年の熱烈な選挙を勝ち残ったことを、少し誇らしげにしていた生徒会長ではなく、そこにいるのは、一介のの女子高生だった。

「……えっと、とりあえず、荷物を入れましょうか……手伝いますよ」 

 訊きたいことは山ほどあるが、そちらの方が優先であった。

 家具はそれほど多くなく、ほとんどダンボールばかりでしかも数も多くなかったのですぐに積み下ろしは終わった。その間、姫翠は一切翔也の顔を見ようとせず、ずっと俯いたままであった。

「ええっと……、とりあえず、うちに上がって行きませんか?」

 あまりにもいたたまれなくなった翔也がそう提案すると、初めて姫翠は顔を上げてぼおっと彼の顔を見つめた。今にも逃げ出してしまいそうな、弱々しい表情をしている。

「……す、すいません……」

 降参したかのように彼女は頷いた。

 ──柄井家で、客人に出せるような物は麦茶しかなかった。それをガラスの無骨なコップに注ぐ。菓子類も一切無かった。男の二人暮らしというものを、翔也は改めて恨めしく思う。

 麦茶を姫翠に差し出した時、彼女は既に涙の堰が崩れそうな状態になっていた。翔也はひどく申し訳ない気分になる。

「えっと、すみません、こんなのしかなくて……」

「えああ、えっと、そうじゃなくってですね……」

 ほとんど涙声で彼女は言った。なんだか口調も安定していない。それでも絞り出すようにして彼女は続ける。

「……し、知られちゃったから……、もう、ダメなんだなぁ……って……思ってるだけです……」

 ダメなんだ、という言葉が、翔也の肺の底に直に突き刺さる。それほどの悲痛を感じさせる様子だった。

 どうにか慰めようと、翔也は苦心する。

「だ、ダメじゃないですよ。……むしろ歓迎してます!」

「……う、ううん、そうじゃないです……。わたしは……、お金もちの家の生まれで……、裕福に暮らしてるって、思われてなきゃいけないのに……、……たった一人で、アパート暮らしって、知られちゃったら……」

 途端に翔也はぐっと詰まって、何も言えなくなった。それでも無反応はまずいと思い、冗談めかして乾いた笑みを浮かべて見せる。

「……す、すいません、こんなボロっちぃところで……」

「あ、えっと、違います……、ご、ごめんなさい、そんな、失礼なこと言っちゃって……」

 殊勝に詫びて、姫翠はいつのまにか止めどなく流れていた涙を必死で拭う。翔也はティッシュをたぐり寄せて彼女に渡してやる。

 彼はなんとなく彼女の言わんとすることを理解していた。なんだか、それを改めて姫翠に説明させるのは酷なような気がしたので、翔也は先手をとって言った。

「──あ、あの……設定だったんですか、裕福だ、っていうのは」

 翔也は浅井が会長のことを羨ましがっていたのを思い出し、また自分も彼と同じ気持だったと回想する。

 姫翠は意気消沈して言う。

「……うん……、生徒会長になるには、そういう地位が必要だったから……」

「……なるほど。苦労なさってたんですね」

 翔也は麦茶を一口飲んだ。とにかく、彼女のアイデンティティが崩壊寸前であることは分かった。その同一性は、彼女が金持ちで良い家の生まれであるという建前の上に成り立っているようで、その裏側を覗いてしまった翔也は、いわば彼女の本性──知られては「ダメ」だった姿を「目撃」してしまったわけだ。裕福であるという一面によって保たれてた尊厳も、そうではないという一面の露見によって、ただの精巧に作られた模型になってしまった。

 そのことに彼女は動揺しているのだ。きっと、翔也に幻滅、失望されることを恐れている。──それなら、失望なんてしていないことを伝えなくてはならない。



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