第二篇 遭遇と邂逅と
さて、どうにかトイレに入ることができた。翔也が画策したのは、このまま勧誘の嵐が止むまでここにこもり続けよう、ということなのだが、軽率で稚拙な作戦だ、と今更になって思い始めている。放送部員に絡まれることが分かっていたなら、荷物をひっさげてあの勢いのまま校舎から出てしまえばよかったのだ。一年生の教室は校舎の一階にあるのだから、いっそ窓から逃げ出してしまえば良かった。──と考えたものの、自分のヘタレぶりを考えると、そんなことできるはずもないな、と思い至った。
殺風景で狭苦しく嗅覚的にも優しいトイレとはいえないので、長時間滞在するのも精神的に辛い。暇つぶしに携帯で何かできないか、と思って見てみたら、電池残量が悲鳴をあげていたので再びポケットに突っ込んだ。
何もすることなくトイレの個室にこもるとは、見てくれも相当情けないし、自分自身も辛い。もっと明日は考えてから来よう、と翔也は痛切に思った。
とりあえず、外の騒ぎが収まるまで待った。耳を澄ませて喧騒の中の一声一声を聞き出してみるものの、すぐに飽きてぼんやりと天井を見上げる。全く分からず空白だらけな解答用紙を前にして、時間切れをただ待つテストを彷彿とさせ、段々気分も滅入ってくる。
──どれだけ経ったか定かではないが、静かになったと判断して個室を出たときには、日は大分傾いて鮮明な橙色の光をタイルに伸ばしていた。
何もしないというのは非常に疲れる。翔也は長時間じっとしていて固くなった身体を引きずるようにトイレを出ようとした。
「もう流石に残ってねえか……」
「今年は調子悪いなー」
しかしすぐ出たところでそんな話し声がしたので、慌ててまたトイレに引っ込む。未だに一年生を探している勧誘者のようであった。その気配が遠のいたところで、トイレから脱出する。翔也は肺に沈殿したトイレの空気を浄化するように大きく息を吐いた。
「帰るか……」
この顛末は誰にも言うまい。特に、父親には絶対に。
そう固く心に誓いながら廊下を歩いて行くと、違和感に気づいた。違和感というか、張り詰めた雰囲気のような、緊張感と言うか。
それは外から流れこんできているようだった。
翔也はその雰囲気の正体を確かめようと窓の方に寄って行って──、慌てて外から姿が見えなくなるようにしゃがみこんだ。
すぐそこで、男女が向かい合っていたのだ。片方がひどく恥じらった様子で片方は何かを待つような様子で、放課後の校舎裏というスポットに立っている。
誰がどう見ても告白の場面だった。雰囲気と状況が克明に物語っている。
何故隠れたのかよく分からないが、また立ち上がったら見つかってしまうかも知れない。といっても、しゃがんだままで移動するのも体裁が悪いが、ここでじっとしているのも奇妙な光景には変わりない。結局、どちらかを行動に移す必要があるのだが、彼らの成り行きを知りたいと思う心が勝った。
翔也は息を殺してじっとして耳をそばだてた。
「えっと、突然呼び出してすみません」
男の声がした。窓が開いているようなので丸聞こえだ。その上ずった声から、彼が緊張していることがありありと分かる。
「た、単刀直入に言いますけど……好きです、付き合って下さい」
前置きも一切なしに放たれた言葉に、翔也はぎょっとした。今まで見てきたドラマでの演技や小説での活字からは感じ取れなかった告白者の心情の機微が、その言葉にぎっしりと詰まっていて、それが文字通り歯を浮かせてくるような気分がしたのだ。
翔也は心臓を絞られるような思いで、相手の返事を聞き零すことなく捉えようとした。あたかも彼自身が告白しているかのような心持になっているが、翔也はそんな自分の心境にも気づかないほど外の出来事に熱中している。
「悪いけど」
だが、すぐさま返された女の言葉の鋭さが、翔也を現実に強烈な勢いで引き戻した。
「あなたとあたしって、初対面よね」
穏やかな声ではあるが、あらゆる安心感の隙間を縫って、触れて欲しくないところをピンポイントで刺し抜くようなその口調に、翔也は自分のことを直接指摘されたかのように動揺する。
「そこまであたしは軽率じゃないから。ごめんなさい」
弩で胴体を真正面から貫かれたような衝撃が翔也に走った。これが失恋というものなのか。傍らで見ていても切なすぎるこんな瓦解が、誰しもを強くしていく苦い思い出となっていくのか。そして、この経験こそが、まさしく青春の真骨頂とでもいうのだろうか──。
「……やっぱりそうですよねー」
そんな気の抜けた男の声が、翔也の陥っていたセンチメンタルな感慨をぶち壊した。
吹っ切れたような彼の言葉は続く。
「草壁先輩が会長に立候補された時から気になっていたんですけど、やっぱり大分人気でいらっしゃる方ですから、そのぶんのハードルも高いかなーとは思ってて何となくそのままだったんですけど、やっぱり春になってそんな気分が立ち現れたというか、思い切ってやってみよう、という感じになりまして、告白に踏み切ったんですけど──」
翔也は呆然としながらそれを聞いていた。彼の言ったことはほとんど事実なのだろう。けれども今、はっきりと正面から振られたのに、全く落ち込む様子もひるむ様子もその語りから感じられないのが、あまりにも現実離れしているように思われたのだ。
「でも、過度に期待していたわけではないので、お気になさらなくて大丈夫です」
きっぱりと言い放たれた言葉だったが、翔也は却って寂しさを感じた。自分があの立場でそんなことを言うのは到底不可能だと思う。
時間が静止したような空白の後、女の方がゆったりとした様子で言った。
「期待してなかったのにアタックしたの?」
その一言に怒気は含まれていなかった。しかし、男の方から動揺したような気配がした。
「……いえ、微塵には期待してましたよ。宝くじを初めて買ったときと同じような、あのほのかな期待感っていうんですか、あんな感じです」
「そんな事言って、保険を作ったつもりなの?」
「……」
「そんな単純な保険で耐えられる程、こういうことに関して経験を積んできたような顔にも見えないしね。実際大丈夫なんかじゃないんでしょ? 明日の朝は枕が涙でずぶ濡れになってるんじゃないの? 逆に泣くほどの覚悟が無かったんなら、恋なんて憧憬に目が眩んだ愉快犯、っていう評価がいいところね。仮に本気なんだとしたら、そんなちゃっちい保険かけてるところが気にくわないし、何となくだったんだとしたら、その視野の狭さが気に入らない。──分かる?」
場が静かになった。それは言われた相手の立場を考えれば、しかるべき静かさだった。
一瞬の間隙も与えない批評に、翔也はむしろ感心してしまった。なんとなく男に感じていた曖昧な「何か」が、綺麗に整頓されて形になったような気がしたからだ。──流石に愉快犯とは言い過ぎた評価かと思うが。
その場からすぐさま立ち去りたいようなきまずい静寂が続いた。翔也は誰も目の前を通りすがらないことを祈りながら、この空気が切り裂かれる瞬間を待った。
「……大丈夫?」
意外にも先に口を開いたのは女の方だった。
「はっ、えああ、だ、大丈夫ですっ」
男の方は過剰と思えるような慌てっぷりだ。
「ずっと口をぽかんと開けてるから、どうしたのかと思った。あたしも言い過ぎちゃったから、てっきりすたこら逃げていくかと思ったのに」
「……いやー、何だかまさにそのとおりだと思って……」
「それはそうよ、あたしはただ、見たまんまを言っただけだから」
「そうなんですか……。だとしたらあなたは鏡のようですね、人の心を映す──」
「今度は口説いてるの?」
「いえ、思ったまんまを言っただけです」
何だかすごい方向に事態が進んでいっている。翔也はよくできたラジオドラマを聞いてるような気分で、じっと外の会話に耳を傾けていた。
女の方が困ったように言う。
「何だかすごいやりづらいんだけど……」
「そ、そうですかね」
「……ただの青二才かと思ったのに」
「そりゃひどい、俺ってそんな風に見えますか?」
「そんな風にしか見えないからそう思ったの。……まぁいいや。なんだかあなたに興味が湧いてきた」
「え?」
と、思わず言ったのは男の方ではなく翔也の方で、慌てて手で口を塞いだ。こんな背筋がひやりとする経験も久しぶりだ。
幸い外の二人には聞かれなかったようで、彼の動揺をよそに会話は進んでいく。
「そ、そりゃどういう意味ですかい」
「人間的な意味に決まってる。自分の言われたくない部面を言われて、全力で呆然としてからニヤけ面で素直に認める人なんて初めて見た」
「……まぁ、そうそういないでしょうね」
そこで一旦、間が空いてから女の声が意を決したように言った。
「…………分かった、恋人はダメでも見習なら認めてあげる」
「え、マジすか! ……ってミナライ!? 何ですか、それ!」
「顎で使える下っ端のことよ。そうね、これから生徒会室に一緒に来て欲しいんだけど、時間は大丈夫?」
「先輩、それ見習の定義が間違ってます……! あ、えっと時間なら大丈夫ですよ。もし承諾してもらった時のために、たんまり用意してありましたから」
「……取らぬ狸の……、──とんだ与太者ね」
女はぼそっと悪態をついたが、悪意はからきし感じられなかった。
かくて、二人は何やら話しながらその場から立ち去っていった。翔也はなんとなく残念に思ったが、同時に興奮もしていた。というのも、彼らの会話には会長、選挙、生徒会、といった単語が含まれていた。もしかしたら、物凄い会話を聞いてしまったのかも知れない、そう考えるとテンションも上がらずにはいられない。まぁ、生涯誰にも言うことはないだろうが。
翔也はすっきりとした気分で立ち上がり、教室を目指した。
教室はがらんどうで誰もいなかった。皆、各々の憧れる部活を見学しているか、嫌とも言えずに強烈な勧誘に連れ去られてしまったか、無事に脱出してまんまと帰ったか──流石に、トイレに立てこもっていたのは翔也一人だけだろう。
自嘲的にそう思いながら自分の机にある鞄を取ろうとして──、凍りついた。
鞄は無かった。置いたはずの場所にはワックスで光る床があるだけだった。そんなはずはない、と焦って周囲を見渡すも、それらしきものは見当たらない。
窃盗。ちらっとそんな言葉が脳裏をよぎり、鞄の内容を思い出してみる。高価なもの、定期は制服のポケットに入っている、しかし鍵は鞄の中だ、買ってもらったばかりの電子辞書もあの中だ──、考える事に危機感は増していく。
──そんなさっきと趣の全く異なる緊張感の中、ふと一つの机にぶら下がっている体育館履きの袋が目についた。名前を書く場所、クラス記入欄に『Z1R』と書いてある。これは、『Z棟の一年R組』という意味である。
それに気づいた瞬間、翔也は壮大な安堵感に包まれた。完璧な勘違いだったのだ。トイレから出た時に、左に曲ってY棟に行くべきだったのを、右に曲ってのZ棟に来てしまったのだ。場所が違うのだから荷物がないのは当然である。
翔也は安心しきって近くの椅子に座り込んだ。全くドジなヤツ。生きた心地がしなかった。父が知ったらどれだけ笑うだろうか。きっと、一日中腹を抱えて笑うだろう──。
そんな安心感も束の間、静かな廊下から足音が響いてきた。
翔也はまた緊張する。まずい、あの足音がもしこのクラスの人のもので、ここで鉢合わせたら気まずいことになる。
身を隠そう、と決めた。いや、この場面で都合よくあの足音の主がこの教室に入ってくることなど、決して無いと思ってる。どれだけ小心なんだと思われても仕方がないと思う。でも、やっぱり新しい環境なのだから、慎重にやらなければならない。下手したらこの三年間を棒に振りかねない失態を犯すかも知れないのだ──、そう言い聞かせて、翔也は立ち上がった。
教室内を見渡すとすぐに黒板近くの年季の入っている教卓が目につく。一時しのぎだ、あの下にもぐるだけでも十分だろう。
翔也は半ば小走りで教卓まで駆け寄ると、その下にもぐり込んだ。
「すいません、遅れましたあああ!」
次の瞬間、誰かがそう大声で言いながらすごい勢いで後方の入り口から駆け込んできて、翔也は心臓が跳ね上がるほど驚いた。本当に危なかった。
「って、あれ、誰もいない……」
教室に飛び込んできた人物は、翔也に気づく様子もなく気が抜けた声でぼやく。明るめな女の子の声だった。
「…………今のは無かったことにしよう」
彼女が神妙な様子でそう言うのを、翔也は申し訳ない気分で聞いた。
しかし、そんな緊張感の欠けた気分も束の間、翔也は状況はむしろ悪化していることに気づく。もし、彼女が教室を歩きまわって何気なく教卓を覗き込まれて、発見されてしまったらどうするというのだろう。
神にもすがる思いで祈る。直ちに退出して欲しい。最悪、その場で動かないでいてくれればそれでいい。
そんな折、前方の引き戸が開く音がして、また誰かが入ってきた。翔也はただひたすらに全力で身を縮めて硬直する。
「……一年のRのことだったか」
男の声だった。さっきの告白者の男よりも、深くて染み渡るような声だった。
「ご、ごめんなさい、わ、私も勘違いしてて……」
「へぇ、呼び出した方なのに?」
「うぅ……緊張し過ぎちゃって……」
新しい足音は教卓を意に介すこともなく教室の中央部に向かって歩いていったので、翔也はひとまず安心する。
「それで、何の用? こんな時間に」
「え、えっと、ちょっとお話が……」
翔也はぎくりとした。女の方の声からたったさっきまで窓の外にあった、数々の不安と躊躇をねじ伏せて顕れた緊張を感じたからだ。
彼は唾を呑んだ。あまりステレオタイプ的に断言するのは難を感じるものの、男女が放課後に二人きりになって、片方がやたらと赤くなっている状況が転がる方向は、一つしか無いように思われる。
やがて、まるで翔也の期待に応えるかのように、女の方が口を開いた。
「あ、あの……わ、私、初めてあなたを見た時から、す、好きでした……、だだ、だから、つ、付き合って下さい!」
果たして、告白だった。彼女の声はさっきの男の比では無い位震えていた。
翔也も合格発表の時、自分の番号を探すような心持で返事を待った。なぜならさっきの二人と違って、今の二人は初対面、という気がしないのだ。少しばかり親交があるのならば、こちらのほうは可能性は高い。というよりも、むしろほとんど決まったようなものだろう──と断定できるほど翔也自身に経験は無いのだが。
それほど、間を置かずに男は返事をした。
「……えっと、初めて俺を見たって、いつ?」
「せ、選挙の時です」
「君はその時から俺を知ってたとしても、俺が君を知ったのは昨日だからさ」
「そ、そのとおりです、念願が叶ったんです」
「──悪いが、ほぼ初対面はちょっとな」
男が申し訳なさそうに言った瞬間、女の方からひどい落胆の音を聞いた気がした。翔也は自分の予想が外れたのもそうだし、教卓の板を挟んだ向こうの失恋劇にも愕然とする。何度も遭遇したからといってで慣れるようなものではない。こういう残念な返事が来た直後の空気の中に、今後一切入りたくないものだ。先ほどのケースは異端としても、今回ばかりはいたたまれない。
女の声が、ショックを抑えこんで若干強がるような口調で言う。
「そ、そうですよね、やっぱり、普通は……。でで、でも気にしないで大丈夫です、気持ちを伝えられるだけで十分ですから……。……うぅんと、ちょっと良い夢見れたなぁ、って感じですから、そう思ってる私みたいなヤツがいるんだなあ、って、ちょっと心の隅の角っこにでも覚えていてくれれば私は幸せですから……」
翔也は段々と細くなっていく言葉に、心が絞めつけられているような気分だった。
「えっと……こんな時間に呼び出してすみませんでした。さようなら……」
さめざめと彼女は言った。どうやら、このまま踵を返して立ち去ろうとしているらしい。
しかし、すぐさま男の声がそれを阻止した。
「高潔だな」
「……え?」
「長いことの念願だった、俺と会合できる機会がようやく訪れ、気の毒なことに失敗したのにもかかわらず、その純真なる心で現実を即座に受け入れ、謙虚に身を引こうとする、その姿勢、──できる。見事な妥協の精神だ」
誰も予想しなかった男の言動に、女の方は相当戸惑っているらしい。
「そ、そんな、こういうこと言う子なら、他にも居ますよぉ……」
「普遍性が問題なのではない、実際に俺の目の前へ現れたことが問題なのだ」
「ええぇ……、じゃ、じゃあ他の子が昨日こういうことを言っていたら、同じことを思ったんですか?」
「さぁな。しかし、これほどの感銘は受けなかっただろうと思うよ」
「ええええぇ……」
さっき告白を受けていた女の方とは正反対の態度だった。潔い、と言って過剰とも思えるほど褒めたたえている。その姿勢を妥協と認識した上で、見事と言っている。なかなかの奇人だ、と翔也は思った。
「……これから暇かい?」
男の方が少しばかり真剣さが増した調子で言う。
「はい、暇ですけど……」
「恋人は難しいが弟子になら、してやっても良い」
「で、デシですか……、それ、何するんですか?」
女の言葉に若干の戸惑いが混じるが、それを潰すように男は続ける。
「何もしなくて良い。今から一緒に、生徒会室に来てくれ」
「セ、セイトカイシツって、まさか──、ってちょ、ちょっと待ってください!」
いつの間にか男の方が歩き出していたらしく、女の方が慌てて追っていったようだ。完全に足音が遠のいたことを確認して、翔也は教卓から這い出して立ち上がる。
また、生徒会、という言葉が出た。さっきも思ったことなのだが、連れて行ってどうするつもりなのだろう。見習、弟子と言ったからには、何か心得でもつけるつもりなのだろうか。
また明日、浅井に生徒会事情でも訊いてみるか。何か知っているに違いない。
「って、明日は休みか」
思わず独り言が出た。そうなると月曜日になるが、これだけ印象の強い出来事があったのだ、話題にすることを忘れるはずもあるまい。
ふと時計を見ると、思っていたよりも時間は遅くなっていた。もう外はほとんど暗くなって、電気のついていない教室内がなんとも寂しげな感じだ。
急いで教室に戻って帰ろう。翔也がそう思い至って、前方の出口へ足を向けた瞬間だった。
静かな教室内で突然、物音がした。柔らかく平べったい金属を叩いたような音だった。
文字通り跳び上がるほど驚いて、咄嗟にその方向を見ると、教室後方に置いてある掃除用具入れのロッカーの扉が勢いよく開いた。翔也は驚愕のあまり声も上げることもできず、ただ呆然とその現象を眺めているだけだった。
──ねずみ色の狭苦しい箱に入っていたのは、あまりにもふさわしくない佳人であった。




