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第十篇 揺らぎ霞む道

 目を覚ますと外は真っ暗だった。いつの間にか眠ってしまったらしい。既に深夜かと思って時計を見てみると、まだ二十一時を回ったばかりだった。

 翔也は身体を起こしてあぐらをかいた。さっきまでの出来事が夢のようだった。しかし、この身体に息づいている臆病心はまぎれもなく本物だ。それだけは、絶対に変わることのない事実だった。ただ、先刻よりも他人事の様に感じられる。

 しかし、会長になることはない、と打ち明けることへの意欲は芽生え始めた。なるべく今週中に言ってしまえれば良い。辞退の理由は、──役者不足、それだけでいい。彼女もそれで分かってくれる。

 妙にさばさばとした気分だった。まだじっとりとした嫌悪感の残滓が心を抉ってくるものの、先程よりはずっとマシだった。僅かではあるが死のうと思った自分が馬鹿らしく思える。瑠子の元へは後で言って、素直に謝ればいい。素直に、自分の臆病という悪性を晒してしまえば良い。無理に達観している自分を見せる必要はない──。

 そんな考えは所詮、観念的なことでしかないことは翔也は重々承知だった。所詮は、他人ごと、未来の自分任せ。実際にそうした場面になった時、十中八九行動できない。また言葉を奪われたように、姫翠の目の前で口をパクパクさせるだけになるだろう──。

 翔也は無意識のうちに携帯に手を伸ばした。恥ずかしながら、今頼れるのは彼女しかいない、そう感じたからだ。彼女なら、的確な道しるべをくれるような気がした。

「もしもし」

 数コールの後、月葉の声が聞こえてきた。表情が全く分からない声だった。

「もしもし、えっと、柄井です」

「分かってる。何の用?」

 翔也は一瞬、躊躇した。

「えっと……、相談したいことがあるんです」

「相談? あたしに?」

「…………」

 そうだ。翔也はほとんど本能的に月葉を頼った。そのことを肯定するのに、どうしてこんなためらいが必要なのだろうか。

 しかし、翔也が何か言う前に月葉が言った。 

「……まぁ良いわ。今はちょっと宿題で忙しいから、明日にしてくれる?」

「……大丈夫です」

「明日、八時に生徒会室に来て。ちょっとだけなら聞いてあげるわ」

 月葉は何の詮索もせず単調に言い、すぐに電話が切れた。翔也はぼんやりと、通話時間が記されたディスプレイを眺める。尽く気力がそこに吸い込まれていくようだった。


 一日ぶりの生徒会室は若干暗かった。翔也は電気をつけて、近くに立て掛けてあったパイプ椅子を開いて座る。約束の十五分前だ、月葉が先に来ているはずもない。こちらから相談を持ちだしたくせに、彼女より後に到着することは絶対に避けたかった。ただ、昨晩は上手く眠れなかったので、油断すると居眠りしてしまいそうだ。翔也は舟漕ぎをしないように、入念に時間が経つのを待った。

 数分後扉が開いて、月葉が入ってきた。翔也はすかさず言う。

「おはようございます」

「おはよう。早いのね。思ったより早く着いたからまだ来てないと思ったけど」

 彼女は翔也の向かい側に座った。いつもはベッドから見ているだけなので、こうして誰かと向い合って座るのは新鮮な気分だ。

「それで、大分思いつめてたみたいだけど、どうしたの?」

「えっと……」

 翔也を凝視する月葉の表情は、以前喫茶店で話した時のような「甘い」ものではなかった。バッターボックスに立った、飛んできた球を全力で捉えるべく構える打者のような、隙の全くない表情だった。

 翔也は尻込みして口ごもる。だが、月葉はそんな翔也に助け舟を出す気など一切無いらしく、感情の読み取れない鋭い視線を彼に浴びせ続ける。少なくとも、そう思えた。翔也は拳を強く握り、爪を掌に食い込ませた。このままではまた逃げ出しかねない自分の足に、杭を打ち込むようなつもりで。きめ細かい痛みが手に広がる。

「俺はもともと、会長の後継者『候補』ということで生徒会に通ってましたが……、俺は、立候補をするつもりはないんです」

「そう。なら、姫翠にそう伝えればいいじゃない」

 その言葉は投げナイフのように、翔也のこめかみの傍らを抜けていった。月葉は言葉を続ける。

「もともとそういう約束で、あなたはここに通っていたはず。それなら、何の負い目を感じる必要もないと思う」

「…………そ、それはそうなんですけど」

 翔也は目を逸した。彼女の言っていることは尤もだが、それができるなら昨日の時点でとっくにその旨を伝えている。しかし、翔也はその理屈をひっくり返すだけの手駒を持っていなかった。だからこそ、その手駒となるヒントを月葉に指摘してもらおうと思ったわけだ。

 ここで引き下がったら彼女に会ってもらった意味が無くなる。翔也はようやく、自分の思うところを月葉へ正直に伝えた。自分に生徒会長になれる器は無い、大勢の前に立てるだけの度胸もない、それよりももっと適任の人が居るに違いない──だから、姫翠の申し出は断る、と。

 月葉は眉を潜めた。

「……何を怖がってるの? あなたが単純にその意志を伝えれば、会長は了解してそれで終わりになるはず。後は、何の腐れも残らないはずでしょ?」

「…………」

「確かに、もう二度と姫翠と話す機会だって無くなるかも知れないけど、それはまた別の話でしょ。あなたから離れようとしてるのに、その後も関係を持てるだなんて厚かましいことを考えてるなら、あたしは何の手助けもしないわ」

 その言葉を聞いて、翔也は雷撃に打たれたかのようにある考えが湧いた。

 ──そうだ、普通ならそれで完結する。生徒会長立候補の誘いを断れば、翔也はただの一年生に戻るだけで、三年生である姫翠との接点はほとんど無くなるに相違ない。

 だが、翔也は彼女の秘密を知っている。会長という名誉の裏に隠れている姫翠が、彼に提案をしたのだ。「生徒会に、来てみない?」と。その言葉を聞いた時から、自分には荷が重いとはっきりと分かっていたはずだ。しかし、翔也はその時会長の彼女の内面を知った気になって浮かれていた。好奇心というふざけた理由で、姫翠に期待をさせてしまった。

 その期待を裏切ることを、翔也は甚だしく恐れているのだ──、生徒会長ではない、控えめで危なっかしい、普通の少女である本来の姫翠をがっかりさせることを、翔也はひどく怖がっている。

 月葉はそのことを知らない。だから、翔也の悩みが愚かしく見えるのだろう。ここまで過剰に、姫翠の気を使うことを怪訝に思うのだ。

「……もしかして……、あなたは、姫翠に……」

 ──月葉が呟くような言葉で、翔也は我に返った。彼女は言いにくそうに、顔をやや下に向けていたが、やがて疑問をぶつけてきた。

「恋をしてるの?」

 月葉は恥ずかしそうに視線を逸らしながら言った。

 しかし、翔也は慌ても驚きも納得もしなかったし、何より実感を持たなかった。自分が姫翠を見る視線の一切は尊敬と憧憬から成っていたわけで、恋なのでは、という月葉の指摘は却って滑稽に思われてしまった。

「な、何か言いなさいよ」

 翔也がぽかんとしていると、月葉は怒ったように言った。

「──す、すいません……。ええっと、俺は、会長に恋なんてしてません。ただ……、似たような気持ちは持ってます」

「似たような気持ち──」

 月葉は何かに気づいたようにそう呟き、少し身を乗り出して声をひそめて言った。

「……十中八九、それね。恋心でない、でもそれに似たような気持、それがあなたを焦らせてる。──確かにあたしもそれが恋心とは思えない。でも……、それなら尚更、もっと早く行動しないとまずいと思う。後になれば、なるほどあなたが辛くなっていくだけだと思うから」

「……」

 翔也は押し黙った。なんと答えたらいいのかわからない。月葉の言うことは全くの正論──、彼女の批評を聞く気分とはこんなものだったのか。でも、彰介はその指摘をあっさりと受け入れてしまった。やはり、彰介も会長になるだけの器があるのでは……

 そんな自己嫌悪に陥る翔也を見た月葉は、少し考えるように視線を遠くに向けたが、やがてやんわりと言った。

「まぁ、最終的に行動するのはあなただから、あたしはこれ以上とやかく言えない。ただ、あたしはあなたはすぐに行動するべきだと思う。……それだけは言っておくわ」

 ──生徒会長に、俺はなれません。そう言うだけで良い。

 理由、まだ一年で勝手がわからないし性格も向いてないし、才覚もカリスマの片鱗もない、一般人よりも少し劣っているだろう自分が……、由利姫翠の後継者なんて、無理に決まっている。

 たったそれだけだ、それを言うだけで良い──、生徒会へ翔也を誘ってくれた『由利姫翠』に、たったそれだけを……。

 翔也は立ち上がった。

「すいません、今日、生徒会には出ません。すぐ帰って……色々と考えたいので」

「……分かった」

 月葉はゆったりと頷いた。


 放課後、すぐに翔也は帰宅した。空っぽの家に入り、じっと考えこむ。

 姫翠が帰ってきたら、すべて告白する。自分は会長にはならない。自分には荷が重いから。要点はここだけ。後は、悲しい顔をする姫翠を前に、自分が耐え忍ぶだけだ。たった、それだけだ。それだけで、済むはずだ。その後は、良き隣人として接していく。会長、なんて大仰なものではなく、一人の少女として捉えて交流していきたい。翔也はそう言うつもりだった。告白を憚らせるものの正体さえ知ってしまった今は、もう逃げないで立ち向かうだけ。

 日が暮れていく。静かな室内で、翔也はひたすら隣の部屋に聞き耳を立てていた。彼女が帰宅した気配があれば、すぐに訪ねていこうとしていた。

 しかし、その気勢は来客を告げるインターホンの音に挫かれた。

「はい」

「あ、翔君っ……、由利だけど、上がってもいい……?」

 翔也は戸惑いつつも承諾して、扉を開ける。姫翠は今しがた帰ってきて、そのまま翔也を訪れたといった体裁だった。制服であるのにかかわらず、その振る舞い方は「素の」姫翠だった。

 ちゃぶ台を挟んで二人は向かい合い、室内に微妙な静けさが落ちる。姫翠はそんな雰囲気に押しつぶされるように背中を丸め、困ったように視線を伏せていた。そんな彼女を目の前にして、翔也がさっきまで練っていた設計図はごっそりと頭の中から飛んでしまった。

「ど、どうしたんですか、うちに訪ねてくるなんて……」

 翔也はかろうじてこれだけ言うことができた。でも姫翠は翔也と目を合わせようとせず、気まずそうに視線を泳がせている。

「あ、あの……どうしたのかなって……。私と会っても翔君、なんだかよそよそしかったし……、今日も生徒会来なかったし……。な、なにか悩み事でもあるの?」

「……」

 翔也の手のひらは汗でじっとりとしている。細い声で質問する姫翠の姿はあまりにも小さくて、翔也の発言次第では泣きだして外へ飛び出していってしまいそうだった。

 翔也は目を一旦瞑って唇を湿らせる。そして、家に帰ってからひたすら考えていたことをなんとか思い起こした。

「会長……、あの、一つ訊いても良いですか?」

「……うん、なに?」

「俺が、もし会長の後継者になりませんと言ったら……、どうしますか?」

 これが精一杯の言い回しだった。もう、直接的に言うことが自分にはできないと、翔也は自覚していた。だから、こんなひどく婉曲的な物言いになってしまったのだが……、でもそのお陰で随分と気が楽だった。胸が締め付けられるような思いがするのは、相変わらずなのだが。

 しかし、姫翠は予想外にあっけなく答えた。

「そしたら、私は後継者を立てないよ」

「えっ」

「だって……、もう、私が信じられるのは君しか居ないんだもの」

 彼女は照れるように言った。

「政光から後継者の話を持ちだされた時、私はそこまで深く考えてなかったけど……、後継者を見つければ、当然その人と接する時の内容は濃くなくちゃいけなくなるでしょ? そしたら……、私の『会長面』の裏に、気づかれる時が来るかも知れない。その時に……、その人がどう思うのか、って考えるだけで、私は、もう後継者を探す気になんてなれない……。私が君に出会えたのは、本当に幸運だったと思ってるの。こんな私もすぐに受け入れてくれて、こんな親切にしてくれる人が他に居るとは思えない。もし、君が立候補しないって言うのだとしたら、私がそのチャンスを逃しちゃっただけのことだから……、私はもう後は何もしない。卒業まで安穏に過ごすだけ、かな」

 翔也は眼が眩むような思いがした。自分にかけられた期待が、恐ろしい重さを持っていたことを思い知った。全ては──、好奇心から生徒会に行ってしまった時から始まっていたのだ。

「……分かりました」

 翔也は半ば呆然と頷くと、姫翠は慌てた風に言った。

「うん。で、でも、私のことなんて気にしないで、会長になるっていうことは、自分の意志で決めてね。それだと選挙に勝てなくなっちゃうから」

「はい──、分かってます」

「後は……、辛いだろうけど、私の秘密は……、誰にも、言わないで。良心が痛んでも、身体が傷んでも……、喋らないで」

 「喋らないで」という言葉は、姫翠の口から出たとは思えないほど鋭利だった。その不自然な鋭さが、翔也の眼前にふっと疑問を浮かばせた。

「あの、会長は……、どうしてそこまで隠し続けるんですか?」

 姫翠は恐ろしいものでも見たかのような顔をした。

「え……?」

「もう学校で会長を認めていない人は居ないはずです。会長と廊下ですれ違った時のことを考えただけでも分かります。だから、今になって本当の身の上を告白しても、それはまぁ驚きはするでしょうけど……、誰も卑下にする人は居ないと思うんですが……」

「……確かに、そうかもね……」

 彼女は瞳に翳りを宿して言った。

「でも、そうするわけにはいかないよ……、まだ、早過ぎるから」

「……早過ぎる?」

「うん。まだまだ、早い。でも、あともうひと踏ん張りだから……、このことが、秘密になっているのも、あともう少しのことだから……」 



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