第九篇 踏み出せない足
翌日の放課後は、評議委員会があった。全てのクラスの評議委員が集まると大変なことになるので、それぞれの棟ごとに集まる。その日は簡潔な自己紹介と、仕事内容の説明だけで終わった。
「じゃあ、うちは部活だから。じゃあね」
と言って去っていったのは、翔也と同じく評議委員になった山倉英里子だ。まだクラスメイトの全員の顔を覚えきれていないので、彼女とは初対面であるような気分だった。
「よう、柄井」
評議委員が集会していた部屋から出ると、翔也は声をかけられた。振り向いてみると、その声の主は彰介だった。
「あれ、郡山先輩も評議委員だったんですか」
「仕方なくな、仕方なく。クラスの連中で他に『らしい』ヤツが居ないからさ」
「確かに先輩、見た目だけはらしいっていえば、らしいですからね」
「まぁな。要は人間が見た目なんだよ……って、『だけ』ってどういうことだよ」
「あれ、『だけ』なんて言いましたっけ、俺」
「すごいさりげなくだったが言ってた言ってた。……ってどこ行くんだよ、お前」
生徒会室に向かおうとする翔也を、彰介は呆れた顔で引き止めた。
「あれ、生徒会室行くんじゃないんですか?」
「今日は委員会があるから、無くなったんだよ。昨日言ってただろ……、って昨日お前居なかったんだっけ」
「いえ、いた事には居たんですけど……」
翔也がまた例の生徒会のベッドで眠りこけていたことを話すと、彰介は驚いた顔をした。
「マジか、全然気づかなかった……。誰もお前のこと話題に上げないから、てっきりお前という存在は俺だけが今まで見てた幻想かと思ったわ」
「……そんな存在感ありませんかね、俺」
「というか、あのベッドの存在感が無いんだろ。仮に、会長があそこでぐっすりしてても、誰も気付けないだろうなぁ」
そんな風に話しているうちに、二人は下駄箱に到着した。
「そういや、何だかんだでお前とじっくり話すの初めてだな」
校舎から出ながら、彰介は言う。翔也は同意した。
「そうですね。先輩いつも江城先輩と喋ってますから」
「同学年の方が話易いだろ。それに、お前いつもあのベッドのとこに居るから、下座に座らざるを得ない俺はお前を会話に取り込むことができないんだ」
「言われてみれば……」
何だかんだ言って、翔也はあのポジションが気に入っていた。自分の立ち位置が中途半端なだけに、すごくしっくり来る場所なのだ。
やがて、二人は校門を通過する。一昨日は月葉と通って、昨日は規華と通って一直線に『覇王』に向かったわけだが、いずれもなかなか深いところまで入り込んだ話をしながらだった。
翔也は彰介の横顔を窺う。彼にはあの従姉妹同士の二人のように、内面を開かす気配も全くなく、また政光のように強烈な感情を醸成しているという風でもない。ある意味、今生徒会に集まっている中で、最も「何を考えているか分からない」人物な気がする。しかし、翔也はなぜだかそこに親しみを感じた。思慮が読めなくとも安心して傍らで歩けるような、不思議な安堵感が彰介の周囲には漂っているからだ。
そういえば、彰介も後継者候補として月葉に選びぬかれたはずだが、先程評議委員が終わった直後の「仕方なくな、仕方なく」という発言から考えると──、どうなのだろうか。もしかしたら、あまり乗り気でないのかも知れない。
「あの、郡山先輩って」
翔也は思わず訊ねてみた。
「草壁先輩の見習いをやってるんですよね? あの……、生徒会長に立候補するための」
「まぁ、成り行き上だけどなー。俺、今どうしようかと迷ってるんだよなー」
彰介はあくまで軽い調子で言った。翔也は唾を呑み込む。
「お、俺も悩んでるんですよね、どうしようか……」
「あー、まぁ、そうだよなあ。まだ入学したてだしな、それは当然だよ。ここに通って一年経った俺でさえも、迷ってるんだからなぁ」
翔也の真剣さがあまり彰介には伝わらなかったらしい。彰介はあくまでマイペースで、翔也はそれをひどく羨ましく思う。
彰介はそのままの口調で続けた。
「あー、でも迷うよなぁ……、まぁ、俺の場合はお前のよりもふざけてる理由なんだがさ……、このまま後継者を辞退したら草壁先輩と離れることになるだろ? それが……、なんというか、引っかかるところでさ。かといって、そんな理由で立候補するのも草壁先輩に申し訳ないし……ぶっちゃけ、どう思う?」
「……す、すいません、よくわからないです」
翔也はできるだけ明るく振る舞うように務めた。しかし、その奥底にある負の感情は見透かされてしまったらしく、彰介は慌てて言った。
「わ、悪かった、お前は俺と違って真剣に悩んでるんだな。あーっと……、悩んでる人間にこんなこと言うのもあれだが……、もし不安で後任なんでできない、って思ったらすぐに会長に言うべきだと思うぞ。引き伸ばすのが一番マズイだろう……ってそりゃ、俺にも言えることか。はぁ」
「……そ、そうですよね、やっぱりはっきりと意志表示しないことには……」
翔也は言葉を濁しつつも、なんとか言うことができた。
彰介ならば、きっと会長立候補の道を諦めたとしても、あっさりと月葉にその旨を言うことができるに違いない。それに、どうやら立候補の可能性も本人の中には残っているらしい。
その点、翔也はもう現時点で立候補をしようとはほとんど思っていない。しかし──、それを言ってしまうのが怖かった。何故かは分からない。仮に辞退したとしたら、生徒会長としての姫翠との結びつきはなくなるだろうが、女子高生としての姫翠との関係は隣人として続いていくはずだ。それなのに何故──。
それから当たり障りのない話題に移り、やがて彰介とはお互い逆方向なので駅で別れた。
結局、誰にもこの心境を打ち明けることができなかった。翔也はもやもやとした気分のまま電車に乗り込み、車窓の風景をぼんやりと眺めていた。
「あれ、今日は早いね」
瑠子の言うとおり、翔也は日が沈み切る前に幣原家を訪れた。陽光に部屋の明かりの大部分を託しているために、夜に比べればかなり明るい。瑠子の残った瞳に宿る光を、久しぶりに見た気がした。
「今日は生徒会がなかったんだ」
「そうなんだ。──ねえ、生徒会、もう入るって決まったの?」
思いがけない質問をされて、翔也は言葉に詰まった。だが、沈黙を恐れて口が勝手に動く。
「いや、生徒会って選挙に当選しないと入れないんだ……、俺が入れるわけないよ」
「え? でも、翔、生徒会に通ってるんだよね」
きょとんとして瑠子が訊ねる。
「──実を言うと、会長に立候補してみないかって誘われてるんだ。だから、その下積みみたいな感じで通ってるだけ」
「生徒……会長に、翔が立候補?」
瑠子は細々とした視線を翔也にぶつけた。不思議な感情を湛えた、やけに心をつつく瞳だった。
翔也はその目の色を変えたくて、諭すように、しかしきっぱりと言った。
「あぁ、でも断るつもりだ」
断言するのにはなんとも情けないセリフだなと、翔也は口にしてから思う。しかし、彼にとって膨大な数の生徒の上に立つことは、頂上が霞むほど高く屹立する山に丸腰で挑戦することと同義だった。
瑠子の眼光は虚空を捉えているように見えた。凍りついたように、翔也のことを見据えている。
息苦しさに耐えかねて翔也はぼやくように言った。
「俺はそういう柄でもないし、選挙に勝てる見込みも無いし……さ」
言い終えてから、翔也は全身が石のようになった心地がした。いかにもそれは、言い訳めいた台詞だった。ますます自分が矮小なものになった気がする。どうして、頭の中で繰り返す時は完璧に思えることが、実際言葉にするとここまで表情を変えてしまうのだろう。
これを、姫翠に言おうとしていたのだ。彼女はどんな顔をするだろう。想像するだけで鳥肌が立つ。そして、その自覚してしまった浅ましさは、いよいよ翔也の会長立候補への諦念を募らせる。どんどん逃げ場がなくなっていく。
不意に、翔也の手に何かが触れた。瑠子の手だった。弱々しく彼の手を握る。
気がつくと瑠子の顔が近くに寄っていた。火傷の痕が憎らしくその左半分を跋扈している。そして、逆側の右半分は悲しげな色で染められていた。
「翔」
翔也の身体が強張った。こうも強気な瑠子の声を聞いたのは、何年ぶりのことか。まるで、まだ幼くて綺麗な顔を持っていた頃の瑠子のようだった。
「もう、大丈夫だよ。もうお見舞いに、来てくれなくて大丈夫。私のこと気にしなくて、大丈夫。翔は、私と違って頑張ってるのに、私がいつまでもその足にしがみついてたら、翔がしたいこと、できないもんね……。もう私の所に来なくなってもいいから、生徒会長に頑張ってなってね。──翔、ごめんね、今まで、ずっと甘えてて……、本当に、ごめんね……」
瑠子の瞳から一滴の、大粒の涙が落ちた。翔也は瞬きも忘れて、それを見ていた。
彼が生徒会長を疎んだのは瑠子を慮ったからではなく、自分の弱い心ゆえのことなのに、その弱い心が瑠子に翔也を諦める覚悟を作らせてしまった。そして、その覚悟は、恐らく一朝一夕で出来上がったものではない。常々翔也から自分が離れる日のことを考えていたから、今こうして打ち明けられたに違いない。
しかし、翔也は自分がいつまでも彼女を訪れるものとばかり考えていた。──依存していたのは瑠子ではなく、他ならぬ翔也の方だった。
あらゆる方向から銃口を突き付けられた気分になった。もう、翔也は自分が何と言うべきかわからなくなった。何と言っても、何をしても、その見えない銃口から自責の弾丸が飛び出してきて、心がずたずたにされてしまいそうだった。
「違う……」
翔也は、ほとんど本能的に言った。
「瑠子……、俺はそんな……」
知らず知らずのうちに、立ち上がる。
「そんな、お前を荷物みたいに思ったことは、一度も…………」
声が震える。最早、瑠子の顔は見えなかった。
「無かった、のに」
翔也は脇に置いてあった荷物を持って、何故だか分からないが部屋の出口に足を向けた。部屋を出るまで、瑠子は何も言わなかった。翔也が意識的に耳を閉ざしていただけかも知れない。
幣原家を出て少し歩き、翔也は自分の顔がひどく濡れていることに気づいた。
「俺、馬鹿だな……馬鹿すぎる」
瑠子の尊大な覚悟の言葉を否定することは、翔也の脆弱な心を見せびらかすことに他ならなかった。翔也はそれを憚った。瑠子を犠牲にして、あまりにも愚鈍であると自覚している自尊心を、必死で守ろうとしていた。
そして、結局逃げてきた。もう二度と、あの家へは行けない。
翔也は果てしなく虚ろな気分で自宅へと向かった。もし、その行き先を間違えてしまったら、自殺でもしかねない足取りだった。
ようやくアパートまで辿りついて、自分の部屋へ向かう途中で姫翠の部屋の扉が開いた。そして、私服の姫翠が姿を現す。
「あれ、翔君……、どうしたの……?」
彼女はひどくうろたえた様子で翔也に近づいてくる。今、一番会いたくない人に出会ってしまった。
「い、いえ、何でもないです」
「それで何でもないんだったら、感情を制御できてなさ過ぎだよ。……んと、何があったの?」
「…………先輩、俺」
本当に、生徒会長になることを辞すつもりなら、今、ここではっきり言うべきだ。翔也は頭では分かっていて、現に今言おうとしている。しかし、その先がどうしても出て来なかった。そんな言葉が脳内に無いかのように、または喉に蓋でもされているかのように、その先の言葉が紡げなかった。
「やっぱり、何でもないです……」
「え、今、何か言いかけたよね……?」
「……いえ、いつか、きっと話しますから……、今は、すみません、一人にさせてください」
そう言って姫翠の脇を抜け、自分の部屋へ入った。
また逃げてしまった。
翔也は何気なく鏡を見ると、そこには酷い顔をした自分が居た。何に打ちのめされたのか分からない不思議な泣き顔の自分が、わけも分からない風に立っていた。




