番狂いの山猫領主様に薬を届けていたら、効いていたのは薬ではなく私だったようです
祖母の薬屋を継いで、半年が過ぎた。
ノルデン領の北の外れ、山のふもとにある小さな町ミルハ。石畳の坂道を少し上がったところに、青い扉の店がある。軒先には乾燥中の薬草が何束も吊るされていて、風が吹くたびにかさかさと音を立てる。
「エマお姉ちゃん、おはよう!」
朝の掃き掃除をしていると、近所の男の子が手を振って駆けていった。
「おはよう。転ばないようにね」
「お姉ちゃん、今日も薬草のにおいがするね!」
……うん。それはもう、どうしようもないのよ。
毎日薬草を刻んで、煎じて、干して、混ぜている。背中に垂らした亜麻色の三つ編みにも、生成りのワンピースにも、緑の前掛けにも、指先にまで香りが染みついて、洗ってもなかなか落ちない。祖母も同じだった。抱きしめられるといつも、苦くて青い、でもどこか甘い匂いがした。
わたしにとっては、懐かしい匂いだ。
祖母が亡くなったのは去年の冬。王都の薬師学校を出たばかりだったわたしは、迷わずこの町へ移ってきた。最初は「若すぎる」と心配されたけれど、半年経った今では、町の人たちもずいぶん頼ってくれるようになった。
そう、平凡で、穏やかな毎日。
その日の昼過ぎまでは、そう思っていた。
「こちらが、薬師のエマ・メルツ様でいらっしゃいますか」
店の扉を開けて入ってきたのは、ふっくらとした中年の女性だった。茶色の髪からのぞく長い耳は、兎獣人の証。上質な紺の仕着せを着ている。
「はい、わたしがエマです」
「わたくし、領主館で侍女頭を務めております、ヒルデと申します」
領主館。
思わず背筋が伸びた。この町を含むノルデン領を治めているのは、山猫獣人の領主様だ。お会いしたことはないけれど、噂だけは知っている。
冷静沈着で、めったに笑わない。領民思いだが人を寄せつけない。
そして最近は――。
「急なお願いで申し訳ございません。こちらの処方で、お薬を調合していただきたいのです」
ヒルデさんが差し出した紙には、館の侍医エッカルト様の署名があった。中身を読んで、わたしは首をかしげる。
銀葉草、眠り苔、それに蜂蜜。
これは、ただの鎮静茶だ。寝つきの悪い子どもに飲ませる程度の、ごく軽いもの。
「あの、どなたがお飲みになるのでしょう」
ヒルデさんは一瞬ためらってから、声を落とした。
「……旦那様です。オーレリアン・ノルデン様」
「領主様が?」
「町でも噂になっておりましょう。旦那様は今、番狂いを患っておいでなのです」
番狂い。
獣人には、生涯ただ一人の番がいるという。出会えば本能で分かり、互いに強く惹かれ合う。たいていは番の気配を感じたときにはもう相手が目の前にいるものだけれど、まれに、気配だけを感じて見つけられないことがあるらしい。
そうなると本能が暴れだして、眠れず、食べられず、少しずつ理性を削られていく。それが番狂いだ。
「半年ほど前から急に……。初めはお眠りになれないだけでしたが、近頃は、その……爪を出されることも増えまして。これまで町医者や王都の薬師にも頼りましたが、どなたのお薬も効かず、皆さま怖がって二度と来てくださらないのです」
ヒルデさんの耳が、しょんぼりと垂れた。
「エッカルト先生が、町に腕のいい若い薬師がいると」
……腕のいい、と言われて嬉しくないわけがない。
でも、この処方で番狂いが治まるとは、正直思えなかった。
けれど、困っている人を前にして断る理由もない。
「すぐに調合します。お届けはわたしがしても?」
「まあ……よろしいのですか。旦那様は、その、今は少々……」
「薬師ですから。飲んでいただくところまで見届けたいんです」
ヒルデさんは目を潤ませて、何度も頭を下げた。
領主館は、町を見下ろす丘の上に建っていた。
灰色の石造りの、堅牢な館。中に入ると、廊下の壁のあちこちに、細く深い爪痕が刻まれていた。
思わず足が止まる。
「……旦那様が、夜中に」
ヒルデさんが小さく言った。
最奥の部屋の前には、若い衛兵が二人立っていた。どちらも疲れた顔をしている。
「旦那様、薬師様をお連れしました」
返事はない。代わりに、扉の向こうから低い唸り声が聞こえた。
喉の奥で鳴る、獣の声。
手の中の薬瓶が、かすかに震えた。わたしの手が震えているのだ。
大丈夫。お薬を渡すだけ。
自分に言い聞かせて、扉を押し開けた。
カーテンの閉ざされた薄暗い部屋。その奥の長椅子に、男の人が座っていた。
少し長めの灰銀の髪が、乱れて額にかかっている。頭には、先に黒い房毛のついた三角の耳。床に垂れた太い尾は、苛立たしげに左右に揺れている。
顔を上げたその人の瞳は、獣のような金色だった。
瞳孔が、針のように細い。
「……出ていけ」
かすれた声だった。
「薬臭い。……頭が、割れる」
ひどい言われようだ。
けれど、本当に苦しそうだった。目の下には濃い影があり、頬はこけ、握りしめた肘掛けには爪が食い込んでいる。
「領主様。薬師のエマと申します。お薬をお持ちしました」
「要らん。どうせ効かない」
「では、効かなかったら二度と参りません。一度だけ、飲んでいただけませんか」
金の瞳が、じろりとわたしを睨んだ。
怖い。逃げ出したい。
でも、ここで背を向けたら、この人はまた一人で夜を越すのだ。
わたしは一歩ずつ近づいて、薬瓶を差し出した。
その瞬間、彼の手が伸びた。
爪の出た手が、わたしの手首をつかむ。
後ろでヒルデさんが息をのむ音がした。
……痛く、ない。
つかまれているのに、爪は肌に触れていなかった。
見上げると、領主様は固まっていた。
針のようだった瞳孔が、ゆっくりと丸くなっていく。揺れていた尾が、ぱたりと止まる。荒かった呼吸が、静かになっていく。
「……何を、した」
「え? 何も……お薬を、お渡ししようと」
領主様はわたしの手首を見下ろし、それから自分の手を見た。爪が、すうっと引っ込んでいく。
「……頭の中が、静かだ」
呆然と呟いて、彼はわたしの手から薬瓶を受け取った。蓋を開け、一息に飲み干す。
部屋の中が、しんと静まり返った。
「旦那様……!」
ヒルデさんが口元を押さえて泣きだした。扉の外の衛兵たちも、信じられないものを見るような顔をしている。
え、あの……効いたの?
だって、ただの鎮静茶なのに。
飲む前から落ち着いていたような気もするけれど……きっと、香りが効いたのだ。銀葉草は香りにも鎮める作用があるし、きっとそう。
領主様はしばらく黙っていたけれど、やがて、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「……エマ、と言ったか」
「は、はい」
「明日も、来てくれるか」
さっき「出ていけ」と言った人とは思えない、静かな声だった。
部屋を出るとき、廊下の端に白髪の老人が立っているのが見えた。エッカルト先生だろう。
先生はわたしを見て、何か言いたげに目を細め、それから黙って小さく頷いた。
それから、毎日領主館へ通うことになった。
午後の診療を少し早めに切り上げて、薬瓶を持って丘を登る。
初めの数日、オーレリアン様は相変わらず暗い部屋にいた。けれど、わたしが薬瓶を差し出し、それを受け取るときに指先が触れると、決まって静かになった。
一週間が過ぎる頃には、カーテンが開いていた。
二週間が過ぎる頃には、窓辺の椅子に座って、わたしを待っているようになった。
「来たか」
扉を開けると、ぴん、と耳が立つ。尾がゆっくり一度だけ揺れる。
……あれは、たぶん、嬉しいときの揺れ方だ。
祖母が飼っていた猫も、わたしが帰るとああして尾を揺らした。そんなことを考えてしまい、慌てて頭を振る。領主様を猫と一緒にするなんて、失礼にもほどがある。
「今日のお加減はいかがですか」
「昨夜は眠れた。三刻ほど」
「三刻も! よかったです」
「……君の薬のおかげだ」
そう言って、オーレリアン様は薬瓶を受け取る。いつからか、受け取るときにわたしの手ごと包みこむようになった。
大きな手。少しだけ体温が高い。
そして、なかなか離してくれない。
「あの、オーレリアン様」
「なんだ」
「手を……」
「薬を受け取るとき、君に触れると楽になる。……理由は分からないが」
そう言われてしまうと、振りほどけない。
薬師として患者様の楽になることは、なんでもするべきだ。そう、これは治療の一環。治療の一環だから、心臓がうるさいのも気のせい。
「君はいつも、薬の匂いがするな」
「すみません。洗っても落ちなくて」
「謝ることはない。最初は頭に響いたが……今は、嫌いではない」
金の瞳が、まっすぐにわたしを見る。それから、薬草の汁が染みたわたしの指先に視線を落とした。
「働き者の手だ」
……治療の一環、治療の一環。
顔が熱いのも、たぶん気のせいだ。
ある日は、オーレリアン様のほうから尋ねられた。
「エマは、なぜ薬師になった」
「祖母が薬師だったんです。小さい頃、熱を出すたびに、祖母が煎じ薬を作ってくれて」
苦くて、まずくて、泣きながら飲んだ。でも、飲み終わると祖母は必ず頭を撫でてくれた。よく頑張ったね、明日にはきっと楽になるよ、と。
「薬そのものより、あの手のほうが効いていた気がするんです。だから、わたしもそういう薬師になりたくて」
オーレリアン様は、しばらく黙ってわたしを見ていた。
それから、包んでいたわたしの手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「……なれている」
「え?」
「君の祖母のような薬師に。少なくとも、俺にとっては」
金の瞳が、窓からの光を受けて柔らかく光っていた。
わたしは何と答えていいか分からなくて、ただ「ありがとうございます」と小さく言うのが精一杯だった。
その日の薬瓶は、いつもより少しだけ長く、彼の手の中にあった。
オーレリアン様は、少しずつ自分のことを話してくれるようになった。
山猫獣人はもともと群れを作らず、一人を好む種族であること。だから番への執着は、ほかの獣人よりずっと強いこと。
「十代の頃から、番などいなくても構わないと思っていた。領地を治められれば、それでいいと」
「……でも、半年前から」
「ああ。ある日突然、近くにいると分かった。この領地のどこかにいる。それなのに、どれほど探しても見つからない」
窓の外の町を見下ろして、彼は苦く笑った。
「領民を一人ずつ呼び出して、匂いを嗅いで回るわけにもいかないだろう。……そのうち、探しているのか、狂っているのか、自分でも分からなくなった」
わたしは何も言えなかった。
この人は半年もの間、すぐ近くにいるはずの誰かを探し続けて、見つけられずに苦しんでいたのだ。
そして、いつか見つける。
この町のどこかにいる、その人を。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
……え?
なんで、痛いの。
オーレリアン様が番を見つけたら、番狂いは治る。わたしのお薬も必要なくなる。患者様が快復するのは、薬師にとって一番嬉しいことのはずなのに。
「エマ?」
「あ、いえ! きっと見つかります。こんなに想っていらっしゃるんですもの」
笑顔を作ってみせると、オーレリアン様はなぜか少しだけ眉を寄せた。
「……そうだな」
その日の帰り道、坂道を下りながら、わたしは自分の胸に手を当てた。
ばかね、エマ。
相手は領主様で、獣人で、生涯ただ一人の番を待っている人。
わたしは、その人が番を見つけるまでの、つなぎのお薬係。
分かっている。最初から分かっていたことだ。
それなのに、明日もあの尾が揺れるのを見たいと思ってしまう自分が、少しだけ情けなかった。
「エマ様が来られなかった日、それはもう大変だったのですよ」
ある日、薬を届けた帰りに、ヒルデさんが楽しそうに教えてくれた。
先週、町で熱病の子どもが出て、わたしは館へ行けなかった。代わりに薬瓶だけを衛兵さんに託したのだ。
「お薬はちゃんと飲まれたのですけれど、夜になっても部屋の中を歩き回っておいででした。窓の外ばかりご覧になって……そのうち、お姿が見えなくなりまして」
ヒルデさんは、くすりと笑う。
「ずいぶん遅くに、少しだけすっきりしたお顔でお戻りになりました。どちらへ行かれたのか、わたくしは存じ上げませんけれど」
……知っている顔だ、これは。
「お、お薬、効かなかったんでしょうか……」
「さあ、どうでしょうねえ。お薬より効くものが、あったのかもしれませんわね」
ヒルデさんは長い耳を揺らして、意味ありげに微笑んだ。
廊下の向こうでは、エッカルト先生がやっぱり黙ってこちらを見ていた。
実は、その熱病の日の夜には、もう一つ出来事があった。
熱を出した子どもの家から戻り、店で翌日の分の薬を煎じていたときのことだ。
こん、こん、と控えめに扉が叩かれた。
こんな時間に、急患だろうか。慌てて扉を開けると、そこに立っていたのは、外套のフードを目深にかぶった背の高い人だった。
フードの下から、先に黒い房毛のついた耳がのぞいている。
「オ、オーレリアン様!?」
「……声が大きい」
領主様が、たった一人で、夜の町に。
わたしは慌てて周りを見回した。幸い通りには誰もいない。とにかく中へ、と招き入れると、オーレリアン様は狭い店の中をぐるりと見渡した。
吊るされた薬草の束。棚いっぱいの瓶。煮立った鍋。
それから、少しだけ顔をしかめた。
「……ここは、匂いがきついな」
「すみません、薬屋なので……。それより、どうなさったんですか。具合が悪くなられたのなら、呼んでくだされば」
「薬は飲んだ。衛兵が届けてくれた」
「では……」
「君が来なかった」
オーレリアン様は、ぽつりと言った。
「町で熱病が出たと聞いた。君がうつったのではないかと……そう考えたら、眠れなくなった」
わたしは、ぽかんと口を開けた。
それだけのために、夜中に館を抜け出して、丘を下りてきたの?
「わたしは元気です。熱病の子も、もう熱が下がり始めています」
「……そうか」
ほっとしたように、彼の耳がわずかに下がった。
それから、ためらうように手を伸ばして、わたしの手を取る。いつも館でそうするように、両手で包みこむ。
すうっと、彼の肩から力が抜けるのが分かった。
「やはり、君の手は落ち着く」
「お薬を、持っていませんけれど」
「……そうだな。不思議だ」
オーレリアン様は、わたしの手を握ったまま、身をかがめてわたしの髪に顔を近づけた。
すん、と小さく鼻を鳴らす音。
し、心臓が止まるかと思った。
「……銀葉草と、眠り苔だ」
「い、今、ちょうどお薬を煎じていましたから」
「ああ。君からは、薬の匂いしかしない」
どこか残念そうにそう言って、オーレリアン様は顔を離した。
「遅くにすまなかった。明日は、来てくれるか」
「……はい。必ず」
フードをかぶり直して夜道へ消えていく背中を、わたしはしばらく見送っていた。
握られていた手が、いつまでも熱かった。
秋の終わりに、嵐が来た。
三日三晩、雨と風がやまなかった。山道は崩れ、銀葉草を仕入れている隣町への道が塞がってしまった。
店に残っていた銀葉草は、二回分だけ。
嵐の一日目は、作り置きの最後の一瓶を届けてもらった。二日目は、残っていた葉をかき集めて、なんとかもう一瓶だけ作った。どちらの日も衛兵さんが雨の中を取りに来てくれて、わたしも行くと言ったけれど、「この風では無理です」と止められた。
二日目の夜は、ほとんど眠れなかった。
窓を叩く雨の音を聞きながら、空になった薬草の棚を何度も見上げた。
明日、道が開かなかったらどうしよう。
お薬がなくなったら、オーレリアン様はまた、あの暗い部屋に戻ってしまうのだろうか。壁に爪を立てて、眠れない夜を、一人で。
祖母の残した帳面をめくって、銀葉草の代わりになる薬草を探した。月見草、鈴蘭の根、白花の蜜。どれも手元にないか、効き目が強すぎるものばかりだった。
……わたしは、薬師なのに。
薬がなければ、何もできない。
そう思ったら、悔しくて、情けなくて、帳面の上にぽたりと涙が落ちた。
会いたい、と思った。
薬を届けるためじゃなく、ただ、あの人の顔が見たかった。窓辺で待っていてくれる灰銀の姿を、ゆっくり一度だけ揺れる尾を。
それが薬師の気持ちではないことくらい、もう、とっくに分かっていた。
そして三日目の夕方。
店の扉が、乱暴に叩かれた。
「エマ様!」
飛び込んできたのは、ずぶ濡れの若い衛兵さんだった。最初の日、扉の前に立っていた人だ。
「旦那様が……昨夜からお薬が切れて、今朝、窓を破られて……! 誰も近づけないんです。エッカルト先生が、エマ様を呼べと」
血の気が引いた。
「でも、お薬がないんです。銀葉草が、もう一枚も」
「薬はいいから、とにかく来てほしいと、先生が」
薬はいい?
意味が分からなかった。けれど、考えている暇はなかった。
わたしは外套をつかんで、嵐の中へ飛び出した。
丘への坂道は、川のようになっていた。
風にあおられて外套のフードが外れ、三つ編みも顔もあっという間にずぶ濡れになる。前掛けのポケットからは、入れっぱなしだった薬草の切れ端が雨に流されていった。何度も足を取られ、膝をすりむいた。
それでも走った。
オーレリアン様が、苦しんでいる。
薬がなくても、わたしが行って何ができるのか分からない。分からないけれど、行かなきゃいけないと思った。
あの人が一人で暗い部屋にいるのは、もう嫌だった。
館の扉を開けると、玄関広間は荒れ果てていた。倒れた燭台、引き裂かれたカーテン。床には割れた窓硝子が散らばっている。
広間の奥、階段の下に、オーレリアン様がいた。
灰銀の髪は乱れ、金の瞳は爛々と光り、瞳孔は糸のように細い。むき出しの爪が床の石を削っている。喉の奥から、獣の唸り声が絶えず漏れていた。
衛兵さんたちが壁際で槍を構えたまま、動けずにいる。
「エマ様、お下がりください!」
ヒルデさんの悲鳴のような声。
でも、わたしは一歩前に出た。
「オーレリアン様」
呼んだ瞬間、彼の耳がぴくりと動いた。
金の瞳が、わたしをとらえる。
次の瞬間、オーレリアン様は床を蹴っていた。
速い。
目で追う間もなく、目の前に灰銀の影が迫る。悲鳴が上がった。わたしはぎゅっと目をつぶった。
……衝撃は、来なかった。
代わりに、濡れたわたしの体が、熱い腕に包まれていた。
おそるおそる目を開ける。
オーレリアン様が、わたしを抱きしめていた。首筋に顔をうずめて、何度も、何度も、深く息を吸いこんでいる。
「……この、匂いだ」
かすれた声が、耳元で震えた。
「半年……ずっと、この匂いを探していた。町中の風の中から、毎晩、毎晩……」
「オーレリアン、様……?」
「どこにもいなかった。どこを探しても、薬草の匂いにまぎれて……」
腕に、力がこもる。
苦しいくらいに強く。でも、爪は一本もわたしに触れていない。
「――見つけた」
その一言は、祈りのようだった。
わたしは何が起きているのか分からなかった。分からないまま、震えるその背中に手を回した。
広い背中が、子どものように小さく揺れていた。
「あの……ごめんなさい、お薬、持ってこられなかったんです。銀葉草が切れてしまって……」
場違いなことを言っている自覚はあった。でも、薬師として、それだけは伝えなければと思った。
すると、腕の中で、オーレリアン様が小さく笑った。
かすかに、肩を震わせて。
「……薬など、最初から要らなかったんだな」
「ええ、要りませんでしたとも」
しわがれた声がして振り向くと、階段の上にエッカルト先生が立っていた。
ゆっくりと降りてきた先生は、わたしたちを見て、深くため息をついた。安堵のため息だった。
「エマ殿。あなたに頼んだ処方を覚えておいでか」
「銀葉草と、眠り苔と、蜂蜜です。……ただの、鎮静茶です」
「さよう。子どもの寝つきをよくする程度のものです。番狂いを治す薬など、この世にありません。治せるのは、番だけです」
先生は、わたしの濡れた三つ編みを見て目を細めた。
「旦那様の番狂いが始まったのは、半年前の春。あなたがこの町に越してこられたのも、同じ頃でしょう」
息が止まった。
半年前の春。
祖母の店を継いで、この町に来たのは……。
「番の気配は感じるのに、見つけられない。それは番が遠くにいるからではなく、すぐ近くにいながら、匂いが何かに隠されているからではないかと、わたしは考えておりました」
先生の視線が、わたしの手に落ちる。
毎日薬草を刻み、煎じ、干してきた手。
「あなたはいつも、強い薬草の香りをまとっておられた。旦那様が嗅いでいたのは、あなた自身の匂いではなく、あなたの薬の匂いだったのです」
「じゃあ……先生は、最初から」
「確証はありませんでした。番狂いの最中の旦那様に、『あの娘が番かもしれません』などと申し上げて、もし違っていたら、心が持ちません。ですから、毎日通っていただき、様子を見ておりました」
だから、ただの鎮静茶を。
だから、わたしに届けさせて。
先生がいつも黙ってこちらを見ていたのは、そういうことだったのだ。
「触れるたびに静まるのは、薬の効き目ではない。本能が、番に触れて安らいでいたのです。……今夜の雨が、ようやく香りを洗い流してくれましたな」
わたしは、自分を抱きしめている人を見上げた。
オーレリアン様の瞳は、もう獣のそれではなかった。丸く、澄んだ金色が、まっすぐにわたしを映している。
「で、でも……わたし、人間です」
「獣人の番は、種族を選びません」
先生があっさりと言う。
「人間の番を持つ獣人は、少なくありませんよ。ただ、人間の側には番を見分ける力がない。……旦那様が見つけるしかなかったのです」
ヒルデさんが、エプロンで目元を押さえながら「よかった、よかった」と繰り返している。衛兵さんたちは、槍を下ろしたまま、ぽかんと口を開けていた。
わたしが、番。
オーレリアン様が半年も探し続けていたのは、わたしだった。
……そんなこと、あるはずがない。
だって、わたしはただの町の薬師で。つなぎのお薬係で。いつかこの人が本当の番を見つけたら、笑って送り出さなきゃいけないと、ずっと自分に言い聞かせてきたのに。
気づいたら、ぽろりと涙がこぼれていた。
「エマ」
オーレリアン様が、わたしの頬を両手で包んだ。爪の引っ込んだ、大きくて温かい手。
「泣かないでくれ。……嫌、だったか」
「ち、違います。違うんです」
首を振る。涙が止まらない。
「わたし、ずっと……オーレリアン様が番の方を見つけたら、もうお役御免なんだって。そう思ったら、毎日、胸が痛くて。患者様が治るのを喜べないなんて、薬師失格だって……」
言ってしまってから、はっとした。
これでは、まるで。
オーレリアン様の耳が、ぴんと立った。尾が、大きく、ゆっくりと揺れる。
「……エマ。一つ、白状させてくれ」
「え……?」
「嵐が来る前から、決めていた。番狂いが治らなくても、番が見つからなくても……君に、そばにいてほしいと頼むつもりだった」
息をのむ。
「番がこの領地のどこかにいるとしても、もう、君以外を望むつもりはなかった。本能が誰を選ぼうと、俺は、毎日あの扉を開けて入ってくる君を待っていたんだ」
金の瞳が、少しだけ揺れた。
「だから、番が君だと分かって……正直、ほっとしている。本能と自分の心が、同じ人を選んでいたことに」
オーレリアン様は、わたしの前に片膝をついた。
ずぶ濡れの玄関広間で、割れた硝子の散らばる床の上で。
「エマ・メルツ。俺の番になってくれ。……いや、違うな。もう番なのは分かっている」
ほんの少し、困ったように笑って。
「俺の妻になってほしい。生涯、君だけを大事にする」
わたしは、両手で口を押さえた。
ヒルデさんが「まあ!」と叫んだのが聞こえた。衛兵さんの誰かが槍を取り落とした音もした。
でも、そんなことはどうでもよかった。
「……はい」
涙でぐしゃぐしゃの顔で、わたしは頷いた。
「はい、オーレリアン様」
次の瞬間、わたしはまた抱きすくめられていた。今度は、さっきよりずっと優しく。
首筋に顔をうずめて、オーレリアン様が深く息を吸う。
「……いい匂いだ」
「さっきは薬臭いって言いました」
「あれは撤回する。……いや、薬の匂いも、もう好きだ。君の匂いだからな」
尾が、わたしの足首にくるりと巻きついた。
……離す気、ないんですね。
そう思ったら、おかしくて、嬉しくて、わたしは泣きながら笑ってしまった。
それから、ひと月。
嵐で破れた窓はすっかり直り、壁の爪痕も塗り直されて、領主館は見違えるように明るくなった。
オーレリアン様は、毎晩ぐっすり眠れるようになった。食事もしっかり取るようになり、こけていた頬も元に戻った。目の下の影が消えると、思っていたよりずっと精悍で、整ったお顔立ちだった。
ただ、一つだけ、困ったことがある。
「オーレリアン様。お店の邪魔です」
「邪魔はしていない。見ているだけだ」
「領主様が毎日カウンターの奥に座っていたら、町の人が怖がって入ってこられません」
「……では、裏で待つ」
「そういうことではなくて」
結婚式までは祖母の店を続けたいと言ったら、オーレリアン様は渋々頷いた。頷いたけれど、その翌日から毎日店に通ってくるようになった。
しかも、来るたびに、わたしの首筋に顔をうずめて匂いを確かめる。
「……今日は銀葉草が多いな」
「当てないでください、恥ずかしい」
「どんな薬草の匂いがしても、もう間違えない」
近所の男の子が、店の窓から覗いて言った。
「領主様、お姉ちゃんのにおい、好きなの?」
「ああ。世界で一番好きだ」
真顔で即答されて、わたしは薬瓶を取り落としそうになった。
男の子は「ふーん」と言って走っていき、その日のうちに、町中に話が広まった。
……もう、本当に、この人は。
翌日、館で結婚式の打ち合わせをしていると、ヒルデさんがこっそり耳打ちしてきた。
「エマ様。旦那様が、町の雑貨屋の石鹸を、すべて買い占められたそうですよ」
「……石鹸を?」
「エマ様がお使いの、香りのない石鹸です。『薬草の匂いを落とすなら、これがいいのだろう』と」
思わず、窓辺で書類を読んでいる人を振り返った。
オーレリアン様は素知らぬ顔で紙をめくっている。けれど、耳がぴくぴくと、こちらを向いていた。
「……あの、オーレリアン様。薬草の匂いも好きだっておっしゃいましたよね」
「好きだ。だが、その奥の匂いはもっと好きだ」
書類から目を上げずに、さらりと言う。
「それに、もう二度と見失いたくない。たとえ一晩でも」
……そんなふうに言われたら、何も言い返せない。
エッカルト先生が、部屋の隅で「やれやれ」と白い眉を下げた。
「エマ殿。この調子では、旦那様の番狂いより、番煩いのほうが重症になりそうですな」
「先生、それ、治るお薬はありますか」
「ありませんな。一生ものです」
ヒルデさんが、声を立てて笑った。
困った人だ。でも、毎日店のカウンターの向こうでゆったりと揺れる灰銀の尾を見ていると、怒る気にはなれなかった。
薬師の仕事は、苦しんでいる人を楽にすること。
わたしの薬はこの人に効かなかったけれど、わたしは、この人の薬になれた。
それなら、まあ、いいかなと思う。
(オーレリアン視点)
初めて彼女が部屋に入ってきた日のことを、俺は一生忘れないだろう。
頭の中は、半年分の嵐だった。
番がいる。近くにいる。それなのに、見つからない。風の中にかすかな気配だけが混じっていて、手を伸ばすたびに霧のように消える。眠れず、食べられず、自分の爪で壁を裂く音で目を覚ます夜が続いていた。
あの日も、また効かない薬を持った誰かが来たのだと思った。
強い薬草の匂いが鼻を刺して、頭が割れそうだった。
出ていけと言った。それなのに、彼女は逃げなかった。亜麻色の三つ編みを揺らし、若草色の瞳を怯えに揺らしながら、震える手で薬瓶を差し出してきた。
気づいたら、その手首をつかんでいた。
爪を立てなかったのは、理性ではない。本能が、この手だけは傷つけるなと叫んでいたからだ。
そして、嵐がやんだ。
あれほど騒がしかった頭の中が、嘘のように静かになった。半年ぶりに、自分の呼吸の音が聞こえた。
薬が効いたのだと思った。……思いこもうとした、のかもしれない。
番に出会ったことのない俺は、番に触れるとどうなるのかを知らなかった。そして、彼女からはいつも薬の匂いしかしなかった。
毎日、窓辺で彼女を待った。
坂道を登ってくる小さな姿が見えると、勝手に耳が立った。扉が開くと、勝手に尾が揺れた。薬瓶を受け取るふりをして、その手を包むのが一日で一番楽しみになった。
理由は分からないが、楽になる。そう言い訳をしながら、本当は、ただ彼女に触れていたかった。
彼女が来なかった夜には、とうとう館を抜け出した。
熱病がうつっていたら、と考えただけで、番狂いの発作より息が苦しくなったのだ。
あの夜、店で彼女の髪に顔を寄せた。番の匂いを確かめたかったのではない。ただ、無事な彼女をそばで感じたかった。
そこにあったのは、やはり薬草の香りだけだった。
少しだけ落胆した自分に、俺は驚いた。……もしこの娘が番だったら、と。いつの間にか、そう願うようになっていたのだ。
番が見つかったら、と彼女は笑って言った。
きっと見つかります、と。
あのとき、胸の奥がひどく冷えた。番が見つかって、彼女が来なくなる日のことを考えたら、番狂いよりずっと恐ろしかった。
だから、決めたのだ。
本能が誰を選ぼうと、俺は彼女を選ぶ。番狂いのまま生きることになっても、それでも彼女にそばにいてほしいと頼もうと。
嵐の三日目の朝、俺はとうとう理性を手放した。
窓を破ったのは、外へ行こうとしたからだ。番を探しに行こうとしたのか、彼女に会いに行こうとしたのか、もう自分でも分からなかった。
そして、ずぶ濡れの彼女が扉を開けた。
雨に洗われて、薬草の香りが落ちた彼女の匂いを、初めて嗅いだ。
探していたものは、ずっと目の前にあった。
俺が毎日待っていたその人こそが、半年間、風の中に探し続けた番だった。
本能と心が、同じ人を選んでいた。
あの瞬間の安堵を、どう言葉にすればいいのか分からない。
今、彼女は俺の腕の中で、少し呆れた顔をしている。
「オーレリアン様、そろそろ離してください。お茶が冷めます」
「もう少し」
「さっきもそう言いました」
そう言いながら、彼女は俺の尾を振りほどこうとはしない。
首筋に顔をうずめると、今日は眠り苔と蜂蜜の匂いがした。その奥に、俺だけが知っている、彼女自身の甘い匂いがある。
どれほど薬草の香りにまぎれても、もう二度と見失わない。
生涯ただ一人の、俺の番。
俺を鎮められるのは、この世で君だけだ。
(完)
これにて完結となります。お読みいただきありがとうございました!
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