花街の落ちぶれ姫
青白い月光で包まれた、京の夜。
島原の大門を抜け、朱塗りの格子が並ぶ中道から少し外れた裏路地は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
空には、不気味なほどに真ん丸な月が浮かんでいる。
男は、濡れた地面に背を預け、白い息を吐いた。
先程まで、ここで縄張り争いが行われていた。男の藍色の着物は、返り血か自分の血か判別がつかないほどに黒ずみ、斬られた脇腹から血の熱が伝わってくる。
男の意識が遠退く中、からん、ころんと、奇妙な音が近付いてきた。
重厚な黒塗りの三枚歯下駄が、石造りの道を叩く音だ。
「あら。酷いところで眠っているのね。博徒のお方?」
鈴を転がすような、底冷えするほど美しい、澄んだ女の声が聞こえた。
男が重い瞼を持ち上げると、そこには月を背負った麗しい花魁が立っていた。
艷やかな髪を飾る数多の簪が月光を跳ね返し、贅を尽くした金銀刺繍の重ね着が、暗がりに妖しく浮き上がっている。うなじから背中にかけて大きく開いた抜き襟が妖艶である。
「あっち行き。お綺麗な服が汚れるやろ」
男は吐き捨てるように、苦しげに漏らした。
けれど、花魁は動じない。彼女は静かに膝を折り、豪華絢爛な着物が汚れるのも厭わずに、血の海の傍にしゃがみ込んだ。
「汚れる? ……さて、何のことかしら。この世界は、最初から泥の中のように汚いというのに。今更血の一滴や二滴で、何が変わるというの」
花魁の手が、男の頬に触れた。
白粉の香りが、鉄臭い夜の空気を一瞬で塗り替える。その指先は驚くほどに冷たい。
彼女は背後に控えていた禿を制し、自分の腰に巻かれていた帯を解いた。それは、金糸で向かい鶴の刺繍を施された、珍しい逸品だった。
「……もうええ。俺はやられた。みっともない生き様晒してまで、生に縋るつもりないわ」
男は掠れた声で拒絶する。が、八重はその手を押さえつけ、迷わずその紅い帯を血の滲む彼の脇腹に当てた。彼女の手が、男の傷口を強く圧迫する。 鮮やかな紅色の絹が、瞬く間に彼のどす黒い血を吸い込み、さらに深く、禍々しいほどの色へと変色していく。
「諦めるのはまだ早いわ。この月夜に免じて、私に賭けてみない?」
男は霞む視界の中で、自分を介抱する女の顔を見上げた。
満月を映したその瞳は、全てを吸い込むような、奇妙な魅力があった。
「もし生き残ったら、あなたはその入れ墨の昇り龍みたいに、自由にどこへでも飛んでゆけばいい。生きている限りは、どこへでも行けるでしょう」
男は、血に汚れた手で花魁の細い手首を掴み返そうとしたが、彼女はそっと手を引き、立ち上がった。
彼女が去った後、雪が降った。
男の手の中には、血に濡れて重くなった紅い帯の端だけが残されていた。
◇◆◇
京都、島原の遊郭街。その唯一の入り口である大門の傍らには、柳がしだれている。
夜になれば、その門の提灯に火が灯り、闇の中にそこだけが浮き上がったような異界の様相を呈す。
中道の両側には、揚屋や置屋が軒を連ねている。鮮やかな朱色の格子が並び、その奥からは三味線の音や、遊女たちの艶やかな笑い声が漏れてくる。
中道に面して建つ置屋は、花魁たちが生活し、芸を磨く場所だ。
一番の象徴は、壁一面を埋め尽くす紅殻格子。 安物の妓楼とは違い、贅沢に塗り込んだその朱色は、夕闇の中でも沈むことなく、深い血のような輝きを保っている。等間隔に並ぶその様は、まさに美しき檻であった――。
「あら、そこに居るのは誰かと思えば。〝落ちぶれ姫〟やないの。お掃除、ご苦労さまなこっちゃ」
八重の頭上から、わざとらしい笑い声が降ってきた。
現れたのは、今やこの置屋で羽振りを利かせている遊女、小紫だった。彼女の後ろには、遊女見習いである禿たちがくすくすと笑いながら控えている。
「……小紫さん。お出掛けですか」
八重は無表情のまま顔を上げ、淡々とした声で応答した。
「お出掛けどす。今日は贔屓の旦那様がお呼びやさかい、忙しおすねん。……それにしても、その顔。見るたびに気味の悪い。ようそんな汚い肌で、人前に出られたもんやわ」
小紫はわざとらしく鼻で笑い、着物の裾を翻した。
「以前は島原の姫なんて呼ばれて、あんなに威張ってはったのに。今は、道に落ちとる犬の糞みたいやねぇ」
小紫は、持っていた茶碗の水を、八重に向かってばら撒く。八重の髪から水が滴り、八重が磨き上げたばかりの廊下にも広がる。
「あぁ、堪忍。手が滑ってしもた。そこ、もう一回綺麗に拭いといてくれる?」
卑屈な笑い声が廊下に響いた後、彼女たちは去っていった。 八重はただ、黙って溢れた水を見つめていた。唇を噛み締め、震える手で再び雑巾を握る。
華やかな世界から放り出され、地位を失った。今の自分には、怒る資格も、悲しむ権利もない。
八重はもう一度、冷たい板間に雑巾を押し当てた。
かつて美しく保っていた指先は、今や水仕事でひび割れ、節くれ立っている。
遊郭は一見きらびやかであるが、女同士の怨讐が渦巻く社会でもある。かつて花魁として一世を風靡した八重に嫉妬していた遊女たちは、八重が下働きへと転落したことが可笑しくてたまらないらしく、事あるごとに嫌がらせを繰り返している。
小紫は、他の禿や振袖新造にやらせれば済むような雑用を、あえて八重に命じる。座敷へ上がる前の小紫の足を洗わせ、時には八重を踏み台にして打掛を羽織る。
取り巻きの遊女たちの前で八重を嘲笑し、八重の自尊心を徹底的に踏み躙る。
八重をいじめるのは小紫たちだけではない。
裏方を取り仕切る、料理番を勤めている六郎も、八重に肉体的な苦痛を与えてくる。
彼は昔、八重が花魁として全盛期だった頃、八重に鼻であしらわれたことを根に持っていた。執念深く、湿り気を帯びた性格で、病に侵された八重を汚物と呼び始めたのも彼である。小紫とも幼馴染みのようで、一緒になって八重を虐めてくる。
掃除の遅れや些細な不手際を理由に、八重を納屋に閉じ込めたり、鞭で打つなどの暴力を振るう。八重が稀に客や見舞い客から受け取るわずかな心付けも、強引に取り上げてくる。
遊女見習いの幼い少女たち、禿までもが、周囲の大人たちの真似をして八重を虐げる。八重のことを、「お花が咲いてる、汚いお化け」と呼び、通り過ぎる際にわざと物を投げつけてきたり、八重の部屋の障子を破ったりする。
食事の準備や洗濯を担う裏方の人間たちも、かつて高嶺の花だった八重の凋落をほくそ笑み、八重に渡す飯椀にわざと砂を混ぜたり、腐りかけた残り物ばかりを盛り付ける。
さらには、他の者が嫌がる汚れた着物の洗濯や、便所の掃除などの労働を八重一人に押し付ける。八重の体調などお構いなしに、病を悪化させると知りながら、冬場の凍てつくような水仕事を優先的に割り振ってくる。
落ちぶれた八重はこの店で、全方位からの悪意に晒されているのだった。
ふと、薄く開かれた障子の向こう、小紫の部屋の奥にある、鏡が目に入る。
何より八重の心を痛ませるのは、衣の隙間から覗く、自分の肌だった。
(……また、広がっている)
襟元を合わせる手に力が籠もる。
これこそが、八重がこのような扱いを受けている原因だ。
かつて雪のように白いと讃えられたその肌には、今、不気味なほどに青白く、痣のような花形の斑点が浮かび上がっている。これは、この街を這い回る逃れられぬ病の症状である。八重はその、身体を蝕み、美貌を奪い、女としての価値を根こそぎ奪い去る病――〝花咲き病〟に罹患している。この病気は、肌に白い花が咲いているように見えるため、花咲き病と呼ばれている。
遊女の中には、原因不明のこの病気にかかる者が多い。その魔の手はついに、かつて花魁としてこの花街の姫と呼ばれていた八重にも襲いかかった。
八重は病をきっかけに花魁の座を追われ、今は遊女たちの身の回りの世話をする引船として、裏方で別の花魁を支えている。
この檻から出たとしても、行き場はない。死を迎えるその時まで、耐え忍ぶしかないのだ。
骨の芯まで凍みるような底冷えが、廓の夜を支配している。寒風が吹き抜ける路地裏は静かだ。 空から花粉のように細かい雪が舞い降り、島原の黒ずんだ瓦屋根を薄く白く染めていく。
八重は、その裏手でかじかんだ手に息を吹きかけながら、客が脱ぎ捨てた下駄を揃えた。ひび割れた指先に、容赦のない寒さが突き刺さる。息を吐いて手を温めながら、八重は立ち上がった。
その時、表通りが騒がしくなった。
(……何事かしら)
八重は、格子越しの遠い景色を眺めた。 雪が舞う中、黒一色の羽織をまとった屈強な男たちが、整然とした足取りで路地へ入り込んでくるのが見えた。その数、十数人。いずれも入れ墨の入った一団だ。
その中心に、一人の男がいた。 上質な黒の羽織を肩に掛け、堂々とした足運びで歩くその姿。八重は、彼に見覚えがあった。
(あの時の男……。死に損なったのね)
彼を助けたのは、ちょうどこのような、冷え込んだ夜だった。道端で死にかけていた彼の出血を押さえ、
名も知らぬその男は、店の主人や番頭が慌てて飛び出してきた前で、ぴたりと足を止めた。 彼は懐から、一点の紅を取り出した。その絹は驚くほど鮮やかに、毒々しく浮かび上がった。何度も紅に浸して染め上げた深い赤。そこには、金糸で丁寧に向かい鶴が刺繍されている。
「三年前、この帯着けてた遊女、この店におらへん?」
番頭たちは、差し出されたその豪華すぎる帯と、夕霧の背後に控える男たちの威圧感に、がたがたと震えながら首を横に振っている。
「こないな高級品、うちのような店では扱っておりませんわ」
八重は、影に身を潜めたまま、遠くからその様子を見つめていた。 雪が頬に落ちて溶ける。
(あの時の帯をまだ持ってるなんて。血まみれで、もう使えないのに。何故わざわざ……?)
あの日、彼の傷口を塞ぐために無造作に解いて貸し与えた帯。 血に染まり、捨てられたと思っていたその帯を、彼は大切に持ち続け、何故か自分を捜している。
「八重。何突っ立っとるねん」
通りかかった料理番の六郎に強い力で肩を突かれ、八重ははっと我に返った。
「……申し訳ございません、今戻ります」
視線を外し、暗い廊下の奥へと歩き出す。
「えらい騒ぎどすなぁ」
「あの人、見はった? えらい男前やけど、目が氷のように冷とうて、うちは背中がぞくっとしましたわ」
「しっ、声が大きおす。あのお方は、京の賭場をぜぇんぶ手中に収めたっていう、この辺り一帯を仕切ってはる博徒の若頭の夕霧さんやて。逆らう者は生かしておかへん、恐ろしいお人どすえ」
通りすがりの遊女たちが、扇子で口元を隠しながらひそひそと噂話をしていた。八重は足を止めず、耳だけを澄ませた。
あの男の名は、どうやら夕霧というらしい。
「博徒の頭が、血眼になってその帯の持ち主を探してはるなんて。あんな怖い人に追われるなんて、あの帯の女も、運があらへんなぁ」
「あないな上等な代物、うちみたいな妓楼の女が持てるはずあらへん。きっと、どこぞの高貴なお姫様か、太夫はんの忘れ物やろなぁ」
「せやねぇ。うちに回ってきはっても……」
噂話にずっと耳を傾けているわけにもいかないので、彼女たちの横を通り過ぎる。
あの男が何故自分を捜しているのか検討もつかないが、どうせろくな理由ではない。博徒は裏社会の住人、無法者の集団だ。元花魁という肩書きを使い、自分をどこか遠くの土地へ売り飛ばすつもりかもしれない。関わらないのが身のためだ。
そう考えながら、八重は仕事に戻った。
冬の夜気は、吐く息さえも白く凍らせるほどに鋭い。 空には、どこか不吉なまでに冴えわたる満月が浮かんでいた。
八重は、使い古された大きなたらいに凍った洗濯物を山積みにして運んでいた。ずしりと襲ってくる重みに耐えながら、裏路地を一歩ずつ踏み締めるように歩く。かつては禿たちが先導した道を、今は一人、押し付けられた仕事を抱えて孤独に進むしかなかった。
その時、大門へと続く大通りから、多人数が歩く重厚な足音が響いてきた。
(……まさか)
嫌な予感がして八重は立ち止まった。影に身を潜める間もなく、雪を蹴立てて歩く一団が角を曲がってきた。 中心に立つのは、黒い着物の隙間から入れ墨の覗く男――夕霧だ。三年前、死の淵で自分を見上げたあの獲物を狙う鷹のような瞳が、夜の中で鋭く光っているように思えた。
八重は思わず、顔を隠すように俯いた。
すると、夕霧の歩みが、八重のすぐ傍らで止まった。
静寂が走る。 雪の降る音さえ聞こえそうな沈黙の中、頭上から声が降ってきた。
「……あんた、名前は?」
低く甘やかに響く、京訛り。一瞬、どきりと胸が高鳴るほど、色気のある声だった。
あの時の女であると悟られるわけにはいかない。緊張感を味わいながら、恐る恐る視線を上げる。夕霧はただ、見慣れぬ下働きを見るような、無感情な目でこちらを見つめていた。
(私はあの時のような衣装を着ていないし、化粧もしていない。分からなくて当然だわ)
今の八重には、贅を尽くした華やかな着物も、頭を飾る幾本もの簪もない。白粉の代わりに、頬には汚れがつき、病の証である白い花が咲いている。
八重は安堵し、止めていた息をそっと吐き出した。
「……八重と申します」
消え入るような声で答えた。
八重が返事をした途端、何を考えているのだか分からない夕霧の切れ長な目が、すぅっと細められた。
その緊張を破ったのは、背後に控えていた手下らしき男の声だった。
「夕霧はん、折角やし遊んで帰りません? この辺にええ店、ありまっせ」
男は、八重の痩せた身体を蔑むように一瞥し、にやにやと下卑た笑みを浮かべながら夕霧を誘う。
「いや。俺はええわ」
夕霧は、八重に注いでいた視線を動かさぬまま、氷のような冷徹さを孕んだ声で一蹴した。
八重が重いたらいを抱え直してさっさと立ち去ろうと指先に力を込めた時、すぐ耳元で甘やかな、逃げ道を塞ぐような声がした。
「あんた、この後時間あんの?」
「……え?」
俯いていた八重は、思わず顔を上げた。
視界に飛び込んできたのは、雪の白さに際立つ夕霧の端正な顔だった。月の光が彼の高い鼻筋と、薄い唇を冷たく照らしている。
「……いえ。仕事中ですので」
早くこの場をやり過ごしたい一心で、八重は突き放すように答えた。
困惑と警戒が入り混じり、八重は再び視線を逸らす。
しかし、夕霧は退かなかった。それどころか、彼は一歩踏み込み、凍える八重の吐息が届くほどの距離まで顔を近づけた。
「ほな、それ終わったら俺と遊ばへん?」
今度は、にこりと笑みを深めて。
その笑みは、先ほど部下たちに向けていた冷徹なものとは全く異なっていた。獲物を見つけた蛇のような嗜虐性と、子供のような無邪気さが同居した、恐ろしいほどに艶やかな微笑である。
「ゆ、夕霧はん……? 何を言うてはりますの。そないな下働き、放っときまひょ」
驚いたのは八重だけではないようで、背後にいる男が戸惑ったような声を上げた。しかし、夕霧は手でそれを制した。夕霧の切れ長な目は、ただじっと、八重だけを覗き込んでいる。
「お返事は?」
夕霧が声を一段低くした。その声が毒を含んだ蜜のように、凍てついた八重の耳にまとわりつく。まるで脅しのようだった。
八重は恐怖に突き動かされ、店へ逃げ戻ろうとした。重いたらいを抱えたまま、雪に足を取られながらも必死に地を蹴る。
しかし、数歩も行かぬうちに、熱を帯びた大きな手が八重の細い腕を、夕霧が背後から無造作に掴んだ。
「逃げんでええやん」
「……っ」
「木屋町の茶屋で待っとる。来おへんかったらお仕置きやから」
有無を言わせぬ圧力だった。八重はうまく返事することができず、ただ固まったまま彼を見つめることしかできなかった。夕霧は満足げにもう一度微笑むと、雪を踏み締め、呆然とする部下たちを引き連れて闇の中へと消えていった。
残されたのは、降り積もる雪と、耳の奥にこびりついた低く甘い声。そして、重たいたらいを抱える自分の、激しい鼓動だけだった。
(何を考えているの……)
八重は、逃げるように店の中へと足を進めた。
島原の格式張った大門を抜ける。八重は、凍てつく風に背中を丸めながら、薄汚れた羽織の袖で病の痕を隠し、木屋町へと向かった。
高瀬川のせせらぎが、雪に沈む夜の静寂の中で小さく響く。川沿いに並ぶ茶屋の軒先では、淡い光を放つ箱提灯が揺れ、その姿を水面に映していた。
来おへんかったらお仕置き――耳にこびりついた夕霧の声が、逃げ場を塞ぐ呪縛のように八重を突き動かしている。博徒の言う〝お仕置き〟が何を意味するか、想像するだけで指先が冷たくなった。
指定された茶屋は、喧騒から一本外れた路地の奥にあった。八重は震える手でその門を潜り、案内されるままに急な階段を上がった。
「……失礼いたします」
襖を引く。暖かな空気が冷え切った頬を撫でた。四畳半の小さな座敷だ。部屋の中央に置かれた角火鉢では、赤々と熾った炭が、鉄瓶の湯気を白く躍らせている。
その火影の中に、夕霧がいた。
夕霧は独り、窓の外を流れる高瀬川を眺めていた。黒い着物の襟を緩め、膝を立てて座るその姿は、深い闇を湛えた色気を放っている。
八重が足を踏み入れると、夕霧はゆっくりとこちらに顔を向けた。
「遅かったなあ」
夕霧は手にした盃を火鉢の縁に置き、ふっと目を細めた。
八重は膝をつき、伏し目がちに畳を見つめた。
「仕事が長引きましたので」
「ふうん。まあええわ。そこ、座り」
夕霧は自分のすぐ隣の座布団を、長い指先で軽く叩いた。
八重は、言われるままに夕霧の傍らへにじり寄った。
どういうわけだか、この男は八重に興味を持っているように見受けられる。しかし、今の八重は、特別容姿に優れているわけでもない。近くで見れば、花形の痣の醜さに気付き、そのうち嫌になるだろう。
「目的は何でしょうか」
八重は顔を上げずに問いかけた。
「……目的?」
「私のような女を呼んだ目的です。遊女と繋げていただきたいということでしたら、このような回りくどいことをせずとも、有名な揚屋を紹介しますが」
夕霧はしばらく何も答えなかったが、やがて、八重の顎を指先でくいと持ち上げた。
夕霧の顔が、吐息が触れるほどの距離まで近付く。その瞳の中に、月光を浴びて震える自分の惨めな姿が映り込んでいるのが分かった。
「俺は、あんたを呼んだんやけど」
八重は息を呑んだ。夕霧の指先が、彼女の頬をなぞり、ゆっくりと耳元から、隠された首筋へと滑り降りていく。
逃げ場のない四畳半の空間で、夕霧の手が、八重の襟元に無造作に掛かった。抗う術もなく、衣をはだけさせられる。
八重は身を強張らせた。乱暴に組み敷かれ、泥を啜るような夜が始まるのだと、覚悟した。
が、夕霧の手は意外にもすぐに止まった。
「進行しとるな。体中にあるんか」
夕霧が見つめていたのは、露わになった八重の肩から胸元にかけて広がる、不気味な花形の痣だった。月光と火鉢の赤に照らされたその痣は、まるで皮膚の下で毒の花が咲き誇っているかのように、どす黒い光沢を放っている。
八重はほっと、強張らせていた身体から力を抜いた。
「……はい。流行り病である、花咲き病です。私はもう、長くありません」
淡々と、自分ではない誰かの身の上を語るような口調で告げる。そこまで言って、ようやく合点がいった。
「……ああ、そういうことですか」
物好きな男がいる。寿命の短い花咲き病の女こそが儚くて美しいと、好んで買う男だ。夕霧も、そのような変態なのだろう。
八重はふっと自嘲気味に笑った。
「……何がおかしい?」
夕霧がぴくりと眉を動かす。
「死にかけの弱った女を可愛がるのがお好きなのでしょう?」
――本当に趣味が悪い。喉元まで出かかった言葉を、八重は辛うじて飲み込んだ。
花咲き病は、世間から見下され、忌み嫌われる一方で、一部の男たちにとっては背徳的な欲情の対象となる。罹患した少女が路上で襲われたという噂も絶えない。
自分より弱くて儚い人間を組み敷いて悦ぶ男を、八重は心から嫌悪していた。
夕霧は八重の蔑むような視線を真っ向から受け止めると、何も言わずに八重の衣を、驚くほど手際よく結び直した。
興が冷めたのだろうか、と八重は不思議に思った。
火鉢の炭がぱちりと爆ぜ、鉄瓶の立てる湯気が二人の間に白く漂う。
「花咲き病になると三年は生きられへん、って聞くけど」
夕霧が独り言ちるように、低い声で漏らす。
「それは、どうにもならへんの?」
「遠い江戸には花咲き病に効く薬があるそうなのですが。とても高価で、私のような下働きには手が届きそうにありません」
八重の花魁としての稼ぎがほとんど飛ぶほどの薬。そんなものを取り寄せてくれるほど、楼主は優しくなかった。
ぼんやりと、幼い頃に過ごした江戸の情景が浮かぶ。活気ある町の音、潮の香り。けれど、そこへ辿り着くための脚も金も、今の自分には残されていない。
薬など、とうの昔に諦めていた。
「発症してからどのくらいや?」
「二年ほど経っています。私の余命は、長くてあと一年でしょう」
「……理解できへんな。残り期間が短いわりに、手ぇこんなにしてまで働いてんの?」
夕霧が、不意に八重の荒れ果てた手を取り、手の平を返すようにしてじっと見つめた。
冬の冷たい水に晒され続け、赤くひび割れ、指先までがさがさになった肌。かつて島原の姫と讃えられ、丁寧に扱われ、潤っていた手の平の面影は、そこには微塵もなかった。
「他に、行く宛もありませんので」
八重が吐息ほどの小さな声で呟くと、夕霧はその手を逃がさぬよう、きゅっと力強く握りしめた。無頼漢のそれにしては、驚くほど温かい掌だった。
「俺と逃げる?」
驚いて顔を上げた八重の瞳を、夕霧は至近距離から真っ直ぐに見つめていた。
「あんたのためなら、どこへでも連れてったるよ。残りの人生、やりたいこと全部させたるし、ほしいもんも全部あげる」
「……どこへ行ったって、人は汚い。それはきっと全てのお国で同じことです。こんな肌でどこへ行こうと、扱いは同じでしょう」
八重は冷え切った声で、夕霧の手を振り払って拒絶した。
静まり返った座敷に、階下から微かに三味線の音が響いてくる。 夕霧は拒絶されたことなど気にも留めない様子で、傍らの膳を八重の方へと引き寄せた。
「腹減っとるやろ。これ食べ」
差し出されたのは、熱々の豆腐田楽と、白味噌仕立ての粕汁だった。塗り椀から立ち昇る湯気には、酒粕の芳醇な香りと、出汁の優しい匂いが混ざり合っている。
「……頂けません」
「俺が食え言うてんねや。これは命令やで」
夕霧は自ら箸を取り、豆腐の一片を口へ運ぶと、促すように八重を顎でしゃくった。抗う気力も失せた八重は、震える手で温かい椀を手にとった。
八重が戸惑いながら箸を進めるのを、夕霧は酒を煽りながら黙って眺めていた。
「おいしい?」
「おいしい、です。もう長いこと、まともな食事などしていませんでしたから」
「自分を粗末に扱いすぎや」
夕霧は少し叱るような口調で言うと、徳利を傾けて自分の盃を注ぎ足した。
「これから毎晩、俺んとこおいで。食事くらいさせたるから」
窓の外では、高瀬川のせせらぎが夜の闇を削っている。豪華な食事と、目の前の美しい男。
どこか現実感がなく、死の間際に見る夢のような時間だった。
◆
翌朝目が覚めると、いつも通りの日常が待っていた。外は、雪の照り返しで刺すように眩しかった。朝からせっせと動き、日が暮れるまで働き続けた。
夕刻になると、小紫に命じられ、膝をついて床を拭くことになった。
「あのお人、ほんまに色気あって素敵やったわぁ……」
ふと、小紫を中心とした遊女たちの会話が聞こえてくる。
火鉢を囲む遊女たちの間で、昨日の博徒の一団が話題に上がっていた。小紫は煙管の煙をゆるりと吐き出し、うっとりとした目で中空を眺めている。
「せやろか? うちは怖うて、身が縮こまりましたわ。あれは人を殺めたことのある目どすえ」
反対意見を述べた若い遊女に、別の遊女が扇子を広げて笑いながら割って入る。
「せやけど、あのお方が纏うてはった羽織、あれは最高級のものどす。博徒の親分さんは気風がええし、色ごとにも理解がありそう。ああいうお人に身請けされたら、一生、極楽浄土どすなぁ」
「身請けやなんて、気が早おすえ。……けど、あのお方が探してはる紅い帯の女、一体どこの誰なんやろ」
小紫は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、他の遊女たちを牽制するように言い放った。
「うちは決めたえ。次にあのお人がこの廓へ来はったら、何が何でもうちの座敷へ引っ張り込んで、骨抜きにして差し上げるわ」
「まあ、小紫姉さんなら造作もないことどすな!」
「あのお方も、姉さんのような美人に迫られたら、イチコロどすえ」
「お似合いどすわぁ、京を統べる男と、島原一の美女。絵になりますなぁ」
周りの遊女たちが囃し立てる。小紫は満更でもない様子で、紅い唇を吊り上げた。
「……あのお人が探してはる紅い帯の女とやらも、どんな人か知らんけど、うちの方がええ女に決まっとる。あないな上等な帯、今の島原でうち以上に似合う女がおると思う?」
小紫がふと漏らした言葉に、周りを囲んでいた遊女たちが、待っていましたとばかりに華やかな声を上げた。
「ほんまに。小紫さんに似合わへんもんなんて、この島原に一つもあらしまへんわ」
「せやせや、あのお方が探してはるおなごが誰かは知りまへんけど、小紫さんに勝る器量やなんて考えられへんわぁ」
遊女たちは、小紫の機嫌を損ねぬよう、競い合うようにして囃し立てる。扇子を広げて口元を隠しながら、高い声が部屋に響き渡った。すると、一人の遊女が小紫の肩に手を置き、悪戯っぽく囁いた。
「いっそのこと、姉さんが『うちがあの帯の主や』て名乗り出はったらどうどす? あのお方、必死になって探してはるみたいやし。小紫さんみたいな美人にそう言われたら、あのお方かて悪い気はしはらへんはずどすえ」
「あら、それ名案やわ!」
部屋中がどっと沸いた。小紫は「困った人たちやわ」と口では言いながらも、満更でもない様子で紅い唇を吊り上げ、満足げに喉を鳴らした。
その様子を横目に、八重は何も言わず、ただ指先に力を込めて布を動かした。
昨夜の夕霧の言動は、一夜の気まぐれに過ぎない。あんな男が今の八重を本気で相手にするはずがないのだから。
そう自分に言い聞かせ、心を無にして、時間が過ぎ去るのを待った。
夜が訪れた。八重は、客と遊女が寝ている部屋の行灯に定期的に油を補充し、その合間に大きな竹箒で玄関の土を掃き出していた。
月は雲に隠れ、冷たい風が八重のぼろぼろで薄い着物を容赦なく突き抜ける。
その時、雪を踏みしめる足音が近付いてきた。
顔を上げる。そこに立っていたのは、羽織を肩にかけた夕霧だった。
「え……」
八重は息を呑み、思わず周囲を確認した。誰もいないことに、ほっと胸を撫で下ろす。
ただでさえ八重は周りからいい印象を持たれていない。博徒の人間と一緒にいるところを人に見られたら、何を噂されるか分かったものではない。
夕霧は、堂々と八重の前に立つ。昨夜と同じ、甘やかな毒を孕んだような微笑みを湛え、まるで自分の屋敷の庭でも歩くかのような足取りで。
「……どうしてここに」
「迎えに来たに決まってるやん」
「…………」
「夜、飯食おうて言うたやろ」
「……言いましたけど」
「約束、本気にしてへんかったん?」
夕霧が八重をじっと見つめる。八重は驚きのあまり、言葉が出てこなかった。ただ、自分を映し出す彼の瞳を、吸い込まれるように見つめ返すことしかできなかった。
「仕事、まだ終わらへんの? 待つの、あんまり好きやないんやけど」
夕霧は一歩、八重の方へ踏み出した。雪を纏った夜気が、彼の動くたびにわずかに揺れる。
「……まだ終わっておりません」
「他の人らは?」
夕霧がちらりと店の奥を窺った。宴の喧騒が遠くに聞こえるが、この時間帯、遊女たちは皆座敷へ出ており、人の気配はない。
「誰もおらへんやんか。何であんただけ働いとるん?」
「…………」
他の者の分まで仕事を押し付けられている、とは言えなかった。
問い詰められるのが気まずくて、八重は逃げるように視線を逸らした。
そんな八重の、あかぎれだらけの冷たい手を、夕霧は躊躇いもなくその温かな掌で包み込む。
「仕事なんて放っといたらええやん。俺と一緒に行こ」
「……いえ、これを終わらせないと……」
八重がその手を振り払おうとした、その時。夜の静けさの中で、八重の腹が情けなく鳴った。
一日中、ろくに食事も摂らせてもらえなかった身体は、あまりに正直だった。八重は羞恥に顔を真っ赤にして俯く。それを見た夕霧が、毒気を抜かれたようにぷっと噴き出した。
「飯食うた方が、仕事の捗りもようなるやろ。そんなんは、後でしたらええんや」
夕霧に強引に手を引かれ、八重は、抵抗する気力もなくしてしまった。
二人は島原の重厚な大門を潜った。本来、夜分に門を出るには厳しい詮議が必要だが、門番たちは夕霧の顔を見るなり、吸いかけの煙管を慌てて隠し、深く頭を下げた。
夕霧の大きな背中を追い、柳の木を通り過ぎる。
夕霧が八重を連れてきたのは、島原の西、壬生へと続く道すがら、夜闇にポツリと灯る夜店の立ち並ぶ一角だった。
島原は四方を壁と堀に囲まれた隔離された街だが、門の外には、参拝客や見物人を当て込んだ屋台や見世物小屋が立つことがあった。
夕霧は、人気の少ない小さな神社の境内に立つ、一軒の屋台に八重を誘った。そこは、しるこを売る屋台だった。
「ほら、座り」
夕霧は丸太を削っただけの粗末な腰掛けに八重を座らせると、自分もその隣に腰を下ろした。彼が纏う上質な羽織と、屋台の素朴な佇まいの対比が、どこか現実味を欠いて見える。
差し出された椀からは、濃厚な小豆の甘い香りと、香ばしく焼かれた餅の匂いがする。 一口啜ると、身体の芯まで染み渡るような熱さと甘さが、凍えていた八重の心を解きほぐしていった。
「……甘い、ですね」
「せやろ」
夕霧は自分の分には目もくれず、八重が椀を運ぶ様子を、満足げに細めた目で見つめている。
八重は彼から目を逸らす。仕事を抜け出してこのようなこと、良いのだろうか。小さな罪悪感が八重を襲っていた。
「浮かへん顔やな」
「……仕事を抜け出したなんて知られたら、後で怒られる気がして……」
八重は以前叱られた時の痛みを思い出し、自分の細い腕を、守るようにぎゅっと掴んだ。夕霧の鋭い目が八重の動作を捉える。彼は無言のまま八重の手首を掴み、躊躇いなく袖を捲り上げてきた。
そこには、数日前に料理番の男に叩かれた鞭の生々しい痕が、赤紫色の筋となって浮き出ている。
「……っ!」
八重は恥ずかしさに顔を伏せ、慌てて手を引き抜こうとした。しかし、夕霧は離してくれない。
夕霧の眉間に深い皺が寄った。その瞳には、夜の闇よりも深い怒りの色が混じる。
「あんたを苦しめる奴ら、俺が全員片したろか」
と、物騒な囁きを漏らされた。
八重は驚いて言葉を失う。夕霧の顔は真剣そのものだ。冗談とは思えない。この男なら、本当に一夜にしてあの店を血の海に変えてしまいかねない——その恐怖が八重を震えさせた。
八重は慌てて首を横に振った。
「いいえ。そんなことは望んでいません。あの店がなくなったら、私は住む場所がなくなってしまいます」
生先短い花咲き病の女に、宿を貸してくれる者などいないだろう。この寒い京の冬を外では過ごしたくない。
夕霧は不満げに鼻を鳴らしたが、ようやく指の力を緩めて八重の手を離した。
八重は逃げるように、温かいしるこを一口啜る。
屋台なんてものに来たのは、久しぶりだ。
親に売られ、江戸から島原に送り込まれてからは、芸事に明け暮れる日々だった。容姿に恵まれ、茶道や華道、和歌の才気もあった八重は、飛ぶ鳥を落とす勢いで頂点へと上り詰めた。けれど、その栄光のしっぺ返しのように、今は不幸の中にいる。
ふと、さらに遠い過去——江戸で両親と笑いながら屋台を歩いた記憶が、しるこの甘みと共に蘇った。
「……懐かしい」
呟くと、隣の夕霧が何故か驚いたような顔をした。
「……あんた、今、笑たか?」
「え?」
八重は、戸惑いながら自分の口元に触れる。言われてみれば、ずっと強張っていた頬が、わずかに緩んでいたかもしれない。
すると、夕霧が先ほどまでの険しさを嘘のように消し、ふにゃりと、蕩けるような笑みを零した。
「かわええなあ。あんたには、笑顔が一番似合うてる」
その真っ直ぐな言葉と表情に、八重の心臓が不規則な音を立てる。八重は動揺を隠すように顔を背け、残りのしるこを一気に喉へ流し込んだ。
その後、八重は近くの神社へと足を運んだ。石段を上り、凍てつく空気の中で共に手を合わせる。八重は、自分のために何を願えばいいのか分からなかった。ただ、隣に立つ男の、衣擦れの音だけを聴いていた。
参拝を終え、静まり返った境内の階段を下りながら、八重はふと気になっていたことを口にした。
「……あなたは、何を願ったのですか?」
夕霧は歩みを止めると、懐からあの紅の帯を静かに取り出した。月光に照らされた絹の赤が、鮮やかに浮かび上がる。
「この帯してた子と、俺が結ばれますようにって」
「結ばれ……」
「夫婦になれますようにって」
「夫婦っ?」
八重は思わず立ち止まり、素っ頓狂な声を上げてしまった。一体何のために必死に探し回っているのかと不思議に思っていたが、それがまさか、そのようなことを目指していたとは。本当に意味が分からない。
八重は動揺を隠しつつ、努めて穏やかな声を絞り出した。
「それはまた……何故、そこまで」
夕霧は八重をじっと見つめると、自らの着物の襟元をゆっくりとはだけさせた。
「えっ、な、な」
八重が驚いて一歩さがると、夕霧がおかしそうに笑った。
「あほ。こんなとこで手ぇ出さんわ」
そう言って、夕霧が己の体を指差す。
その肌の上に刻まれていたのは、力強く天を衝く昇り龍と、散り急ぐような、彼岸花の刺青だった。
「昔、死にかけてた俺を助けてくれた人がおったんや。えらいべっぴんな花魁でな。その人が、この入れ墨見て言うてくれたんや。『その昇り龍みたいに、自由にどこへでも飛んでいけばいい。生きてる限りは、どこへでも行けるんだから』ってな」
夕霧は紅の帯を愛おしそうに握り締め、目を細めた。
「昔の俺は、下っ端やったから、自由なんてなかった。命やって使い捨てられるような人間やった。やのにあの女は、自由にどこへでも行けるって、俺に希望を与えてくれた。やから決めてん。あの女が言うたような、どこへでも行けるような身になったら、絶対俺のもんにするって」
「そ……そう……なんですね」
それは自分です、とは言えず、八重は相槌を打つことしかできなかった。
夕霧は帯から視線を上げ、今度は八重を見つめてきた。
「あんたに、よう似とる」
「えっ?」
声が裏返った。誤魔化すように言葉を続ける。
「いや、でも、その方は花魁なのですよね? こんなに肌が汚い私とは、全く異なるのでは……」
「見た目の話やないよ。雰囲気の話や。力強う咲く花みたいな、何にも負けん雰囲気がある」
そう言って、夕霧はふと視線を上げた。
神社の境内の奥に、梅林が見えた。八重もつられて、その木をじっと見つめる。
「寒梅や。雪の中でも、誰に見られんでも、凛として咲いてて綺麗やろ」
夕霧の視線の先には、闇の中に白く浮かび上がる小さな梅の花があった。
八重はしばらくその花を見つめていたが、ゆっくりとした口調で否定した。
「……私は、あんなに綺麗ではありません。中には毒の花が咲いています」
「へえ? あんたの毒で駄目になるんやったらそれも一興やな」
夕霧がくつくつと笑った。病のことを言ったのだが、と反応に困る八重の肩を、夕霧が不意に抱き寄せた。
羽織越しに伝わる彼の体温が、八重の身体に染み込んでいく。
「あ、あのっ……」
「……このまま、誰も知らん遠い国へでも行けたらええのになあ。あんたの病も、俺の業も、全部雪に埋めてしもてさ」
夕霧が、夢物語を口にする。八重はしばらく黙っていたが、そのうち抵抗する気をなくし、彼の胸元にそっと顔を埋めた。
心地が良いと思ったからだ。
こんなもの、この男の一時の気まぐれだろう。いずれ自分のような醜い女には飽きて、他所の花魁を拾ってどこかに行ってしまうに決まっている。それでも今、優しくされた温もりを受け止める。
花咲き病が命を蝕んでいる。明日の朝になれば、また罵声と仕事が待っている。 けれど、この夜の、この甘い温もりだけは、誰にも奪わせたくないような気がした。
◆
雪の降り積む島原で、八重の日常は、相変わらず泥を啜るような惨めさに満ちていた。
けれど、そんな地獄のような日々の中に、一つの逃げ場が形作られていった。
夕霧だ。夕霧は、隙を見ては八重を店から連れ出した。
夜、島原の重い空気を抜けて茶屋へと向かう時間や、 夕霧と過ごす一時は、八重にとって、死を待つだけの余生に灯った唯一の光となっていった。
最初は恐怖と警戒しかなかった。夕霧が何故自分なんかを毎晩のように呼び出すのか。けれど、共に膳を囲む回数が増えるにつれ、八重の心は少しずつ、彼に対する親しみを覚えていった。
夕霧は、八重の身体に広がる花咲き病の痣を、まるで珍しく美しい模様でも見るかのように、恐れもせず見つめる。八重の自尊心は夕霧のおかげで、少しずつ回復していった。
いつしか、人々に罵倒されても、今夜、あの男に会えるのだからと思えば、心の波立ちは静まるようになった。
死を待つだけの絶望的な日々が、彼に会うまでの待ち時間へと変貌していく。 病が進み、身体が朽ちていく一方で、心だけが少し癒やされていく。
――しかし、そのような幸福はいつまでも続かなかった。
ある日の木屋町からの帰り道。雪はさらに勢いを増していた。
勝手口に辿り着いた時、暗がりに光る、二つの濁った眼があった。
「えらい遅いお帰りやな、八重さん」
建物の影から、ねっとりとした声とともに現れたのは、若い料理番の六郎だった。 煤けた半纏を羽織り、手に持った提灯で八重の顔を無遠慮に照らし出している。
「どこで油売ってたんや。仕事が山ほど残っとるって、分かってて抜けたんか?」
「……申し訳ありません。少し、体調を崩して休んでおりました」
八重は伏し目がちに答え、六郎の脇を通り抜けようとした。けれど、六郎はわざとらしく足を出し、八重を躓かせた。
「……っ」
「……体調、なあ。例の花咲き病が悪化しとるん? 汚らしい」
六郎はわざとらしくそう言って、転びそうになった八重の細い腕を掴み上げた。そして、八重の耳元に顔を近付け、酒と安煙草の混じった息を吹きかける。
「聞いたで。今日、島原をうろついとる博徒の若頭が、紅い帯の女を探しとったって。まさかとは思うけど、あの御大層な男をたぶらかしとるんやないやろな?」
「……何のことか、分かりません」
「惚けるなや! さっき、お前があの男と茶屋に入っていくのを見た奴がおるんや。一体何企んどる……まさか、自分を買い取らせて逃げよう、なんて夢見とるんやないやろなあ?」
六郎は八重の腕を強く捻り上げた。痛みに八重が顔を歪めると、彼はそれを楽しむように、卑屈な笑みを漏らす。
「無駄や。お前はもう、ここにおるしかないんや。楼主も、お前が死ぬまで絞り尽くすつもりやし、僕もお前が泣いて這いつくばる姿を、もっと拝ませてもらわな気が済まん」
「痛っ、痛い、です」
苦しげな声を漏らす八重を、六郎は突き飛ばした。
勢いよく床に叩きつけられ、冷たい板の感触と鋭い衝撃が全身を駆け抜ける。八重は呻き声を上げ、その場に蹲った。
立ち上がることすらできず、土にまみれたような己の姿を自覚させられる。暗がりの中、六郎が八重を見下ろし、何か卑劣な名案でも思いついたかのように、その唇を不気味に歪めた。
「せや、ええこと思いついたわ。八重さん、僕と祝言挙げたらええねん」
「……は?」
あまりに唐突で、忌まわしい言葉に、耳を疑った。
「そうすれば、あの博徒の男も、八重さんのこと諦めるやろ? 自分に気ぃあるふりしといて、黙って別の男と添い遂げたって知ったら、あのお人はどないしはるやろなあ。激怒して、八重さんのこと殺してまうかもしれんなあ?」
愉しげに喉を鳴らす六郎の声が響く。
血の気が引いていくのを感じる。絶望の淵で彼を見上げた。この男は、夕霧が自分に寄せる情を逆手に取り、最悪の形で踏みにじろうとしている。
「せや、そしたら早速、楼主さんに仲人頼まんとあかんな。八重さんみたいな女、本来やったら嫁の貰い手なんかおらへんけど、僕が慈悲で貰うてやる言うたら、楼主さんかて喜んで手打ちにしてくれはるわ。三三九度の盃も、内輪だけで済ませたら安上がりやしな。……ああ、祝言の夜には、八重さんのその痣だらけの身体に、紅い打掛やなくて、ボロの寝巻きでも着せて可愛がってやるわ」
六郎は、祝言の具体的な準備の話を、さも楽しげに語り続けた。その言葉の一つひとつが、鋭い棘となって八重の心に突き刺さる。
まるで、優しい夢から無理やり覚まされたようだった。
夕霧の掌の温もりも、おいしい料理も、全てはこの薄汚れた現実を忘れさせるための幻覚だったのではないか。
六郎に虐げられる今の姿こそが、自分の正体なのだ。自分はもう、誰かに愛される資格などない、汚れた女なのだと、嫌というほど思い出させられた。
そして、八重と夕霧がただならぬ関係であるという噂は、追い討ちをかけるように、一晩にして店中に広まっていった。
「聞いたか? あの夕霧はん、よりによって花咲き病の女に執心してはるんやて」
「物好きにも程があるわ。死にかけの枯れた花を愛でるのが、あのお人の性癖なんやろか。気味が悪おすなあ」
廊下ですれ違う遊女や若い衆たちの、忍び笑いと嘲り。
自分が蔑まれるのは慣れていた。けれど夕霧までもが、自分と関わったせいで、変態だとからかうように笑われている。それが、八重には何よりも許せなかった。
八重と夕霧の噂を聞きつけ、最も機嫌を悪くしたのは、当然、夕霧を気に入っていた小紫だった。
「……あの死に損ないが。どないな手ぇ使って、あのお人をたぶらかしたんや」
小紫の部屋から襖越しに届くのは、小紫が怒りに任せて投げた物が砕け散る乾いた音と、地を這うような低い声だった。
八重の、盆を持つ手が震えた。今すぐこの場から逃げ出したい。けれど、逃げればさらなる罵倒が待っているだけだ。八重は震える呼気を一度飲み込み、覚悟を決めて襖を開けた。
「失礼いたします……」
部屋に足を踏み入れた瞬間、一斉に刺すような視線を向けられた。火鉢を囲む遊女たちや、その端に控える禿たちの目が冷たい。
部屋の主である小紫は、八重の入室に気づくとゆっくりと振り返り、その艶やかで、蛇のように冷酷な瞳で、八重をぎろりと睨みつけた。
「えらい遅いお着きどすな。歩き方もお忘れになったん?」
小紫の冷ややかな京言葉が、鞭のように八重を打つ。
八重は何も言わず、小紫の身支度の手伝いに取りかかった。重厚な打掛を整え、複雑に結われた髪に鼈甲の簪を差し込む。
小紫はその間にも、ちくちくと毒を孕んだ言葉を吐いた。
「夕霧はんが、あんたみたいな汚い女を相手にしてはるて噂……あれ、ほんまなん? あんたほんま、男に色目使うのだけは得意やねえ。でも期待したらあかんよ。あのお人はただ、死にかけの女の末路を観察して、愉しんではるだけやわ」
八重は唇を噛み締め、鏡の中の小紫を見つめ返した。否定したい。けれど、今の自分にどんな反論の資格があるというのか。
「せや、言い忘れてたわ。今夜……あのお人を、うちの部屋に招いてんの」
小紫が勝ち誇ったように紅い唇を歪めた。
「紅の帯の女に、心当たりがありますって、あのお人に文を送ってさしあげたんよ。あのお人、さぞかし喜び勇んで来はるやろなぁ。うちがその帯の女やて、言おうと思てるねん。あのお人が探してはる運命のお相手は、今日からこのうちになるんやわ」
八重の胸がざわついた。けれど、夕霧が探しているのはあの夜の花魁であって、今のような小汚い八重ではない。華やかで、まるで昔の八重のような姿の小紫が偽っても、彼にはきっと見分けがつかない。
身支度を終えた小紫は、八重を乱暴に引きずり、座敷の奥にある薄暗い小部屋へと押し込めた。
「ここで、息潜めて聞いとき。あのお人が、誰に愛を囁かはるのかを」
ぴしゃりと戸を閉められ、外側から錠を下ろされる。
八重は暗闇の中で膝を抱えた。薄い木戸の隙間からは、豪華に飾り立てられた座敷の様子が、まるで舞台のように鮮やかに見えていた。
ほどなくして、誰かの足音が部屋に近付いてくる。八重の心臓が、痛いほどに跳ねた。
入ってきたのは夕霧だった。
「……おいでやす、夕霧はん。お待ちしておりましたえ」
小紫の艶やかな声が響く。
夕霧は、入り口で深々と頭を下げる遊女たちには目もくれず、部屋の真ん中へ堂々と歩を進めた。
「えらい派手な出迎えやな」
「何をおっしゃいます。夕霧はんのようなお方をお迎えするのに、これでも足りひんくらいどすえ。さあ、こちらへ……」
小紫が夕霧の手を取り、上座へと促す。夕霧は、勧められるままにどかっと腰を下ろした。八重の目には、その仕草一つ一つが昨夜の屋台での彼とは別人のように、遠く、冷たく見えた。
小紫は、膝で摺り寄るようにして夕霧の傍らに侍った。白い手で徳利を掲げ、夕霧の持つ盃に酒を注ぐ。
「冷えたお身体を、これで温めておくれやす」
とくとくと軽やかな音を立てて、透き通った酒が盃に満たされる。夕霧はそれを一気に煽ると、満足げに喉を鳴らした。
「……ええ酒やな」
「それは、うちの気持ちが混ざってるからかもしれまへんなぁ」
八重は震える唇を噛み締め、座敷で繰り広げられる二人の様子を、ただ黙って見つめるしかなかった。
「でも、飲んでばかりは嫌やわ。うちはもっと、夕霧はんと深いお話がしたいんどすえ」
小紫が甘えた声を出し、夕霧の手から盃を奪うようにして自分の唇を寄せた。彼女はそのまま、飲み残しの酒を吸い上げると、夕霧の耳元に顔を近づけて熱い吐息を吹きかける。
「夕霧はん。あんた、下働きの女のところへ通うてはるて噂聞きましたけど。本気やあらへんでしょう? あんな、病に侵された、色も枯れ果てた女のどこがええの。うちは、寂しゅうて堪りまへんわ」
「……はは、噂回るん早いな、島原は。で、その帯の女について、お前は何を知ってるん?」
夕霧は目を細め、逃げ場を防ぐかのように、小紫の腰にそっと手を回した。
八重の心臓が、どくんと嫌な音を立てる。昨日、自分を抱き寄せたあの腕が、今は別の女の柔らかな身体を抱いている。
小紫は悦に浸った顔で、夕霧の広い胸元に指を這わせた。そのまま、彼の羽織の襟を寛ろげ、逞しい首筋に鼻先を寄せる。
「夕霧はんの匂い……ええ匂いどすなあ。博徒の親分さんやいうさかい、もっと血生臭いお人かと思ってた。……でも、うちは知ってる。あんた、ほんまは誰よりも情に厚い、優しいお人やいうことを」
「……へぇ。お前に俺の何が分かるんや」
「分かりますえ。……だって、あんたが一生懸命捜してはった女、うちやもん」
小紫は、夕霧の腕の中で勝ち誇ったように微笑んだ。
「夕霧はん、もう捜しはらんでもええんやえ。昔、紅い帯を預けたんは……うちどす」
「…………」
「あんたがあの帯を持って現れた時、うちは運命やと思いました。……な、夕霧はんも、うちのこと、捜してはったんでしょ。うちも、捜してたんよ」
小紫の指が、夕霧の頬を優しく撫でる。
八重は暗闇の中で、叫び出しそうな衝動を必死に抑えた。嘘。それは真っ赤な嘘だ。夕霧を助けたのは、自分だ。あの冷たい雪の中、震える彼の手を握ったのは、自分なのに――そう、叫びたかった。
夕霧は小紫を振り払わなかった。それどころか、彼女の腰を引き寄せ、その美しい顔をじっと見つめ返している。
「……そうか。あんたが、あの時の」
「せや。やっと言えた」
小紫は陶酔した瞳で、夕霧の唇に自分のそれを重ねようとした。八重は思わず目を逸らし、暗闇の中にうずくまる。胸が、張り裂けそうに痛い。
ところが、その直後だった。
「――で、それ、本気で言うてるん?」
座敷の空気が、一瞬で凍りついた。敵を威嚇するような、低い声だった。
八重が驚いて再び隙間を覗き込むと、そこには、先ほどまでの機嫌よく酒を飲んでいた男の面影を完全に消した、夕霧の横顔があった。
夕霧は、自分に縋り付いていた小紫の腕を、まるで汚物でも払うかのように無造作に放り出した。
「夕霧、はん……?」
「あんた、今、なんて言うたんや。『うちやった』……? へぇ、うまい嘘のつき方も知らへんのやな」
夕霧は立ち上がると、動揺で顔を強張らせる小紫を、氷のような目で見下ろした。その眼光には、小紫が夢見ていたような情愛など微塵もない。
「俺が捜してる女は、あんたやあらへん。あんたみたいな浅ましい女、あの人の足元にも及ばへんわ」
「な……な、何を……! うちは島原の看板どすえ! うちのどこがあかんの!」
「黙れ。反吐が出る。あの女について知っとる言うから来たのに、時間無駄にしたわ」
八重は、呼吸することさえ忘れてその光景を凝視していた。
夕霧の殺気に気圧されたのか、小紫は何も言わなくなった。
夕霧が出口の襖へと歩き出す。そして、襖に手をかけ、振り返らずに言い捨てた。
「二度と、あの人の真似せんといて。……汚らわしい」
荒々しく襖が開けられ、夕霧が部屋を去っていく。
暗がりの中に取り残された八重は、しばらく呆然としていた。
(……違うって、気付いてくれた)
今の自分は、泥を啜り、病に蝕まれた無残な姿だ。それでも夕霧は、そんな八重を褒め、そして、虚飾に満ちた小紫の美貌は褒めなかった。
八重は震える足に力を込め、閉じ込められていた戸を、体当たりして押し開けた。
「勝手に出るやなんて、何事どす! 誰も許し出してへんえ!」
外に飛び出した瞬間、小紫が金切り声をあげて八重の髪を掴みかかってきた。
先程夕霧に拒否された怒りが、そのまま八重にぶつかってくる。
乾いた音が響き、八重の頬が大きく弾き飛ばされた。
八重は床に這いつくばった。けれど、唇を噛み締め、震える手で畳に手をつき、這い上がるようにして立ち上がる。
「っ、この……っ!」
小紫が逆上し、再び八重の顔を殴りつける。何度も。
艶やかな打掛が乱れ、髪飾りが畳に落ちて砕けることにも構わず、小紫は八重を何度も打った。
八重は、口の端から温かい血が伝うのを感じながらも、そのたびに何度も立ち上がった。そして、折れることのない瞳で小紫をまっすぐに睨み上げた。
「な、何なんやあんた! 今まで死にかけみたいに大人しゅうしてた癖に、急に反抗してきて……!」
小紫がその異様なまでの気迫に圧されたのか、顔に恐怖を浮かべて一歩後退る。
八重は口元の血を拭うことさえせず、 走り出す。八重にぶつかった小紫はよろめき、派手な音を立てて転倒する。
部屋の外で成り行きを見守っていた遊女や男衆たちは、あの従順だった八重の初めての反抗に、ただ呆然と立ち尽くしているようだった。
「何してんの! 追わんかい、この役立たず! 捕まえて引きずり戻しなはれ!」
背後で小紫の狂ったような叫びが響き渡る。
けれど、八重はもう止まらなかった。
店を飛び出し、雪の降り積もる外へと裸足のまま飛び出す。
闇雲に、夜の島原を走った。
(どうして……どうして私は、こんなに必死になっているんだろう)
ずっと、早く死にたいと思っていた。ただ朽ちていくだけの日々に絶望していた。なのに、今の自分はこれほどまでに激しく生を求めている。
思い出すのは、夕霧がふとした瞬間に見せた笑顔。
しるこを差し出してくれた大きな手。
抱き締めてくれた時の、甘やかな声。
冷たい風の中を、白い息を吐き出しながら走るうちに、八重はようやくその答えに辿り着いた。
(……そっか。私、夕霧さんのことが、好きなんだ)
それは、病に侵された身体に残された、淡い恋心だった。
遠ざかる夕霧の背中を見つけた瞬間、八重の喉からは震える叫びが溢れ出す。
「夕霧さん……っ!」
島原の大門を抜けようとしていたその背中が、ぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返った夕霧の瞳に、夜の雪に紛れて駆け寄ってくる八重の姿が映る。八重は勢いのまま、彼の広く、確かな温もりのある胸の中へと飛び込んだ。
「どないしたん。あんたから俺んとこ来るなんて、珍しいやん」
不意の衝撃にたじろぎながらも、夕霧は少し嬉しそうに目を細めた。彼は大きな掌で、乱れた八重の髪を優しく撫で下ろす。
しかし、八重の顔を覗き込もうと顎を上げた時、その眼差しは鋭く凍りついた。
月光の下、赤く腫れ上がった頬と、口の端に滲む血の痕が見えたのだろう。
「……誰にやられたん」
地を這うような声だった。夕霧は忌々しそうにちっと舌打ちを漏らす。八重を慈しんでいたはずの瞳に、獣のような殺気が宿った。
「あっ、こ、これは……その」
八重は自分の無様な姿を悟り、慌てて着物の裾で口元を隠した。けれど、夕霧は彼女の手首を優しく、逃がさぬように掴み上げる。
「逃げてきたん? 誰や、教えて。あんたのこと傷付けた奴、俺が今から殺したるから」
その目は本気だった。
京の裏社会を震え上がらせる博徒の首領としての、剥き出しの殺意がそこにある。八重はぎょっとして、ぶんぶんと必死に首を横に振った。
「ち、違います、逃げてきたんじゃないんです……。殺さないで。私は、ただ……」
八重は俯き、自分の震える指先を見つめた。心臓の音がうるさい。
「……あなたに、会いに来ました」
一瞬、雪の降る音さえ消えたかのような静寂が訪れた。
夕霧が再び、信じられないものを見るように目を見開くのが分かった。
「……俺に?」
「はい。どうしても、会いたくて……」
沈黙が続く。八重はおそるおそる、拒絶される恐怖を抱えながら顔を上げた。
そこにいたのは、恐ろしい博徒の姿ではなかった。
夕霧は片手で自分の顔を覆い、八重から視線を逸らしていた。耳の先まで、火がついたように真っ赤に染まっている。
「見やんといて」
「……え?」
「あんたが走って俺に会いに来たって思うと、なんか嬉しくて……格好つかへんやんか」
いつも不敵に笑い、女を惑わすことなど容易そうに見えた男が、今は一人の少年のように狼狽えている。
今、この瞬間にすべてを明かしてしまいたい。自分こそが、あなたが十数年も捜し続けてくれたあの夜の少女なのだと。
八重は、昂る感情に突き動かされるまま、言いかけた。
「あ、あの、ずっと黙っていたのですが、あなたが捜している紅の帯の人は――」
けれど、言葉が零れ落ちる寸前で、残酷な現実が頭を掠めた。
八重の身体は、既に花咲き病に侵されている。この痣が全身を覆い尽くす頃には、命の灯火が消えてしまう。
(私の寿命は、あとわずか。告白して、もし恋人になれたとしても、私は彼を幸せにしてあげられない。最期に、深い悲しみを与えてしまうだけ……)
八重は夕霧に言いかけた言葉を飲み込み、逃げるように視線を落とした。雪の上に落ちる自分の影が、ひどく儚く見えた。
「……どないしたん」
「……いえ。何でもありません」
八重は萎れたように肩を落とし、無理に笑顔を作って言葉を続けた。
「……捜している帯の人、早く見つかるといいですね」
力なく微笑んだ――その時だった。
「待ちさらせ、この死に損ない!」
「八重、どこへ逃げたんや!」
後ろから、松明を持った六郎や店の男衆たちが雪を蹴立てて駆け寄ってきた。彼らは八重の姿を見つけるなり、口々に罵声を浴びせかける。
「店に断りもなく外へ出るなんて、どうなってもええんやろうな!」
「病持ちの癖に男をたぶらかして、どこまで厚かましい女や!」
その怒声が八重に届くより早く、夕霧が彼女の前に立ちはだかった。
一瞬にして、先ほどまでの照れくさそうな空気はなくなり、夕霧から溢れ出した強烈な殺気が、降りしきる雪さえも凍りつかせる。
「誰の女に口きいとるんや。これは、俺の女やぞ」
六郎たちが、そして八重までもが驚きに目を見開いた。夕霧は、怯える男衆一人ひとりを射抜くような鋭い眼光で威圧し、重い声で続けた。
「この女を次にぞんざいに扱うてみぃ。ただで済む思たら大間違いやぞ。……分かったら、さっさと失せぇ。俺の気が変わらんうちにな」
博徒の首領としての脅しに、六郎たちは顔を真っ青にして後退り、蜘蛛の子を散らすように店へと逃げ帰っていった。
夜の静寂が戻る。夕霧は何も言わず、八重を寝泊まりしている屋の入り口まで送り届けた。
夕霧は、薄暗い軒下で立ち止まると、八重の頭を大きな掌でぽんと優しく撫でた。
「……さっき、何で言うんやめたん?」
見上げた夕霧の顔には、どこか全てを見透かしているような、悲しげな微笑みが浮かんでいた。
「……え」
「帯の女は自分や、って言おうとしたやろ」
「…………」
言い当てられ、八重は何も返せなかった。
「〝早く見つかるといいですね〟か」
「…………」
「それが、あんたの答えか」
「あ、の」
震える声で何か言おうとした時には、もう遅かった。
「最初から、分かってたよ。このあたりで江戸の言葉は、あんたしか使うてへん。ただ、確証がなかっただけや」
八重は目を見開く。
最初、というのは、八重が夕霧の前で言葉を口にしたその時、ということだろうか。
「夕霧さ……」
「いけずやなあ。俺があんたのこと好きって知っとるくせに」
夕霧は、切なげに笑ってそれだけ言い残すと、踵を返して一度も振り返ることなく、闇夜のの中へと消えていった。
八重は、もう追うことができなかった。追えば、また気持ちが溢れて、後先考えずに好意を口にしてしまう。だから、遠ざかる背中をじっと見つめ続けていた。
八重は初めて、己の病を呪った。
あくる日から、八重の勤める店の空気は一変した。
あれほど八重をいじめてきた者たちが、薄気味悪いほど関わってこなくなった。夕霧が残した脅しは、六郎や遣手たちの肝を冷やすには十分すぎるものだったらしい。
直接的な暴力も、執拗な罵倒も、嘘のように止まった。
「……あっち行こ。関わり合いにならん方がええわ」
「せやな。あのお人に何言いつけられるか分からへんし」
八重が通りかかると、人々はあからさまに視線を逸らし、波が引くように道を開ける。
影で囁かれる悪口や、遠巻きに見つめる冷ややかな目を向けられるが、前の地獄に比べれば、身体的な痛みがない分ましだった。
一週間、二週間と、降り積もる雪とともに時間だけが過ぎていく。
夕霧はあの日を境に、島原から姿を消した。
◆
夕霧が来ない夜が続くうちに、廊下の隅や座敷の陰で、遊女たちがひそひそと噂話を交わし始める。
「あのお方、ほんまに来はらへんようになったなあ」
「どっか別の土地にでも、ふらっと行きはったんやろ」
「あの帯の女捜すの、もう飽きはったんちゃう? 男の執着なんて、そんなもんやわ」
淡々と仕事をこなしながら、八重はその噂話を聞いていた。
無茶な重労働を押し付けられなくなった分、八重には暇な時間が増えた。
八重は、誰も来ない冷え切った二階の端部屋で、格子の隙間から、しんしんと雪が降り続く島原の景色を眺めていた。
(……まるで、幻だったみたい)
木屋町で食べた温かいしるこの味も、雪の中で自分の手を包み込んでくれた、あの大きな掌の熱も。それら全てが白昼夢だったのではないかと思えるほど、夕霧はいつの間にか姿を消していた。
(どうして、落ち込んでいるの。自分の意思で、突き放したくせに)
夕霧がいない世界は、以前よりもずっと色が抜け落ちて見える。
「……っ、げほっ……」
短く咳き込むと、胸に鋭い痛みが走った。
八重はそっと着物の合わせを寛げ、自分の肌を見つめる。そこには、以前よりも鮮明に、そして数を増した白い花が咲き誇っていた。首筋から鎖骨へ、そして腕へと、命を吸い上げながら侵食していく痣。
花が咲き満ちる時、八重の命は散る。
(私だって、追いたかった……。あの人の思いに、答えたかった)
けれど、幸せになってしまったら、きっと別れが怖くなる。
彼を悲しませてしまうことも、いずれお別れが来ると分かっていて恋人として接することも、八重には耐えられない。
(これでよかったのよ)
八重は自分にそう言い聞かせた。
もしも、病などなかったら。もっと肌が綺麗で、体も羽のように軽かったら。あの人の隣で笑っている未来もあったかもしれない。そう思うと、悔しくて涙が溢れた。
◆
冬の雪が、いつの間にか、足元から溶け出していた。冷たい風が消え、代わりに湿った土の匂いと、芽吹く命の気配が島原の街を包み込んでいく。
島原の入り口、大門の傍らに立つ柳の木も、薄緑の柔らかな芽を揺らし始めた。冬の間は骸骨のように痩せこけていた枝が、春の風を孕んでしなやかに舞っている。
行き交う遊女たちの打掛も、若草色や桜色の軽やかな柄へと装いを変えた。春が彼女たちの美貌を輝かせている。
一方で八重は、花咲き病が悪化し、二階の端部屋に籠もるようになった。
格子窓から差し込む陽光が、部屋に積もった埃を白く照らし出す。外で美しく咲き誇る桜と呼応するかのように、八重の白い肌に根を張った花もまた、その勢いを増していた。鎖骨を這い上がり、今や首元まで大きく咲き、血を吸うように紅くなった。
世界が色を取り戻せば取り戻すほど、夕霧のいた冬の夜だけが、八重の心の中で色彩を失わずに輝き続けていた。
八重は布団から身体を起こすことさえ億劫で、布団の中でただ浅い呼吸を繰り返していた。首筋まで這い上がった紅い痣が、じくじくと熱を持って疼く。死期が近いことを、身体で感じた。
その時、前触れもなく、部屋の襖が乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、目が眩むほどに艶やかな打掛をまとった小紫だった。
「えらい辛気臭い部屋どすなぁ」
小紫は八重を見下ろし、鼻で笑った。
「ほんま、見る影もあらへんわ。あんた、昔はあんなに輝いてたのに。今はもう、枯れ木みたいに死にかけて……惨めなもんやわぁ」
小紫の言葉は、猫を撫でるような甘ったるい声でありながら、鋭利な刃物のように八重の心を抉る。
八重は何も言い返せず、ただ力なく視線を逸らした。
小紫が一歩、また一歩と近づいてくる。八重は、その手に冷たい光を放つものが握られていることに気付き、息を呑んだ。懐剣だった。
「そんなに苦しいんやったら、うちが、死ぬ手伝いをしてあげるわ」
「な……なん、で……」
問いかける声は、掠れてほとんど音にならなかった。
小紫の美しい顔が、至近距離で歪んだ笑みを浮かべる。
「目障りなんよ。あんたが、生きとるだけで」
ドスッ、という鈍い音が、自分の身体から響いた気がした。熱い衝撃が腹部を貫く。
痛みは遅れてやってきた。焼けるような激痛が走り、八重は声にならない悲鳴をあげて布団の上で悶えた。
「花街の連中は、未だに言うんよ。あんたほどの花魁はおらんてなあ。うちはそれが、腹立って腹立って、仕方があらへんのや。何で皆、あんたみたいな女に夢中なんやろか。あんたが表舞台から去ってから、何年も経っとるのに」
小紫は懐剣の柄を握りしめたまま、さらに深くねじ込んだ。
八重の口から、ごぽりと赤い塊が吐き出される。
「あんたが皆の心の中で生きてる限り、うちはいつまで経ってもこの島原の一番にはなられへんのやっ!」
柄まで深く突き刺さった刃は抜けない。傷口から、止めどなく熱い血が溢れ出し、布団を赤黒く染めていく。
意識が急速に遠退いていく中で、小紫の声だけが奇妙にはっきりと響いた。
「……そうそう。六郎もな、まだあんたのことが好きなんやって」
「……え……?」
薄れゆく意識が、その名前に引き戻された。六郎。あの、残酷で卑劣な男。
「みんな、みぃんな、何であんなに、あんたがええんかしらねえ?」
小紫が、あはは、と狂ったように笑い声をあげた。天井を仰ぎ、涙を流しながら笑っている。その姿を見て、八重の頭の中で、ばらばらだった破片が一気に繋がった。
(……そうか。そういうことだったの)
小紫が、昔から執拗に八重を目の敵にしていた理由。
花魁の座を巡る競争だけではなかったのだ。彼女は、まだ八重が頂点にいた頃、八重を影から熱っぽい目で見つめていた、あの男――六郎のことが、ずっと好きだったのだ。
八重は、自分に向けられる嫉妬と憎悪の根源が、これほどまでに哀れで、歪んだ恋心であったことに、奇妙な納得を覚えていた。
どたどたと、古い木階段を激しく踏み鳴らす音が階下から響いてきた。
意識の混濁の中、その足音だけが大きく聞こえた。刺された腹部から溢れ出す熱が、体温を奪い、感覚を麻痺させていく。けれど、次に聞こえた声が、消えかかっていた八重の魂を無理やりこの世に繋ぎ止めた。
「八重! 八重、おるか!? 八重!」
楼主の、ひどく興奮した声だ。
「博徒の夕霧はんが、えらいぎょうさん金積んで、あんたを買いに来はったで! 迎えや! 身請けや!」
八重は、血の気の引いた唇をわななかせ、大きく目を見開いた。
嘘だ。あの方はもう、自分を忘れたのだと思っていた。どこか遠い場所へ行ってしまったのだと。……それなのに。
「……うそ……」
声にならない。
夕霧が、迎えに来た。帯の女は自分ではないと嘘を吐き続け、最後まで彼の愛を真っ向から引き受ける勇気を持てなかった、不甲斐ない自分を。
目の前の小紫から、それまでの狂気じみた笑いが一瞬で消えた。彼女は顔を強張らせ、焦ったような顔をした。
小紫の白い手は、八重の返り血で真っ赤に汚れている。今、楼主がこの部屋に入ってくれば、全てが露見する。
この店の看板が、嫉妬に駆られて人を刺し殺したとなれば、いくら相手が蔑まれている八重とはいえ、さすがに心証が悪い。
「……っ!」
小紫は狼狽えたまま、血濡れた手で這うようにして戸口へ向かった。そして、内側から必死に戸を抑え込む。
「八重……八重はおらへん!」
小紫は震える声を張り上げ、外に向かって叫んだ。その声は、取り繕おうとすればするほど、異様な切迫感を孕んでいるように聞こえた。
「……小紫? 小紫、あんた、何でその部屋におるんや」
廊下から聞こえる楼主の声に、戸惑いが混じる。普段、格式高い小紫が、下働き同然の八重の薄汚れた部屋にいるはずがないのだ。
「夕霧はんが、待ちかねてはんのや。そろそろこっち来るで。はよう八重を出して。あのお人、機嫌損ねたら何しはるか分からへん」
がたがたと、外から戸を開けようとする衝撃が伝わってくる。
しかし、小紫は歯を食いしばり、細い肩で戸を押し返した。八重はただ、小紫の後ろで、溢れ続ける自分の血を見つめるしかない。
「八重はおらへんって言うとるやろ! どっか、水仕事でも行かはったんや。うちは、忘れ物を取りに来ただけどす!」
「そんな阿呆な! 誰があの死にかけを呼ぶか。ええから開けなさい、小紫!」
「おらへん! おらへんのやさかい、あっち行きよし!」
小紫が苛立ちと恐怖の混じった声で怒鳴り散らす。
それを聞きながら、八重の意識は再び、昏い闇のなかへと沈みそうになっていた。
(夕霧、さん……。……夕霧さん……会いたい)
遠退く意識の中、あの美しい男の名前を呼ぶ。
(私が馬鹿だった)
優柔不断で、思いを伝えきれなかったくせに。
今、こんなにも夕霧に会いたい。
「――……私は、ここにいます!」
最後の一滴まで命を振り絞るような叫びだった。
戸を押さえていた小紫の肩が、びくりと跳ねる。彼女は鬼のような形相で八重を振り返った。
「夕霧さん……っ! 夕霧さん!」
それでも八重は、何度も、何度も、その名を呼び募る。
喉が裂けても構わなかった。これがあの人の耳に届く、最期の言葉になってもいい。
「馬鹿! あんた、声出すんやないわ!」
小紫が逆上し、八重を黙らせようと手を伸ばす。
しかし、その指先が八重に触れるより早く、凄まじい音と共に部屋の戸が蹴破られた。
埃が立ち込める中、入り口に立っていたのは、顔を真っ青にした楼主と、そして——。
「……八重」
夕霧の姿がそこにあった。
「あ……あぁ……」
八重の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。頬を伝う雫が、床に広がった紅い血溜まりへと落ちていく。
夕霧は、そこに小紫がいることなど眼中にないかのように、迷わず八重の元へ駆け寄ってきた。
「八重!」
夕霧の大きな掌が、血塗れになった八重の身体を強く抱き締める。高価そうな着物が汚れゆくのも厭わず、彼は八重を離すまいと腕に力を込めた。
八重は、彼の胸元から漂う甘い香りに包まれ、ようやく自分がまだ生きていることを実感した。
夕霧は八重を抱いたまま、ゆっくりと、蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くす小紫を見上げた。
「お前、ただじゃおかんからな」
その静かな怒りに満ちた声音には、怒号よりも恐ろしかった。
小紫はひゅっと息を吸い込み、恐怖のあまりかガチガチと歯を鳴らし始めた。
「ち、ちが……違います、う、うちやない、うちやないっ! これは、八重が自分で……っ!」
「黙れ。その手に付いた血は何やねん」
夕霧は冷酷に言い捨てると、傍らに控えていた側近に視線だけで命じた。
「その女を連れて行け。二度と日の当たる場所に出れんように売り飛ばせ。今すぐにや」
「な……っ! いや、嫌や! 離して、離しなはれ!」
悲鳴を上げる小紫の腕を、夕霧の部下たちが無造作に掴み上げる。
引きずられていく小紫を、楼主も、廊下に集まった遊女たちも、駆けつけた六郎でさえ、誰一人として助けようとする者はいなかった。ただ、彼女の虚しい叫びだけが、廊下に長く尾を引いて消えていった。
八重の意識は、激痛と安堵のあわいで激しく明滅していた。腹部を貫く熱が体温を奪い去っていく。床を染める自分の血の色を見るにつけ、ああ、自分はもう助からないのだと、八重は命の終わりを確信していた。
八重は、震える腕で夕霧の首にしがみついた。
「夕霧さん……夕霧さん、私、あなたのことが……大好きです」
溢れ出す涙が、彼の着物に吸い込まれていく。
「ああ。分かっとる。俺もや。……せやから、こうして迎えに来たんや」
耳元で響く夕霧の声が、優しく八重を包み込んだ。
八重はさらに強く彼に縋り付き、嗚咽を漏らした。
「ごめんなさい……私、もう長くは生きられないから。伝えたらあなたを苦しめてしまうと思って、あの時、言えなくて……。もう愛想を尽かされたんだと、二度と会えないんだと思っていました。なのに……どうして。どうしてこんな私に、また会いに来てくださったのですか」
その問いに、夕霧は愛おしそうに目を細めた。その瞳には、八重の絶望を全て撥ね除けるような、力強い光が宿っている。
「俺があんたのこと、諦められるわけないやろ。ずっと江戸に行ってたんや。あんたのその病を治す薬、必死で探しててん」
「…………え」
八重の動きが止まった。予想だにしない言葉に、視界の霞が一瞬だけ晴れる。
「あんたの元を離れる気ぃなんて、端からない。あんたを死なせる気も、さらさらないわ」
夕霧はそう言い切ると、羽毛でも扱うような手つきで八重を抱き上げた。
長らく閉じ込められていた、黴臭い部屋。夕霧はそこから八重を連れ出し、ゆっくりとした足取りで外へと歩き出す。
部屋を出て、廊下を渡り、春の夜風が吹き抜ける店の外へ。
「夕霧さん、お医者を呼びました!」
外には、夕霧の配下が大勢待ち構えていた。彼らが連れてきた腕利きの医者が、すぐさま八重の止血に取りかかる。
「八重、もう大丈夫や。あとは全部、俺が何とかしたる」
遠退いていく意識の中で、八重は空を見上げた。
島原を彩る桜の花びらが、夜風に乗って粉雪のように舞い散っている。かつては死の予感に怯えて眺めたその光景が、今は祝福の雨のように感じられた。
すぐ傍に夕霧がいる。それだけで、もう何も怖くなかった。
◇◆◇
ゆらり、ゆらりと心地よい揺れが、八重の身体を優しく包んでいた。
京都から江戸へと続く東海道。籠の外からは、春の陽光に浮かれた鳥のさえずりと、道を行く旅人たちの賑やかな足音が、薄い御簾越しに伝わってくる。
島原の、あの光も届かない湿った小部屋が、今はもう遠い前世の出来事のように感じられた。
最後に見た島原の人々の顔は、呆気にとられたような顔だった。
八重が、華やかな花魁姿で買われていく。その光景は、八重のことを見下し、軽んじていた人々の目に、奇妙に映っただろう。
八重は自分の手首をそっと見つめた。命を削るようにして咲き誇っていた花は、夕霧が江戸から持ち帰った秘薬のおかげか、今では薄い痕を残すのみとなっている。死の淵を彷徨っていたのが嘘のように、指先には確かな血の気が通っていた。
「……手が、綺麗になってきました」
ぽつりと、自分でも気づかないうちに独り言が漏れた。
隣に座る男——夕霧が、その大きな掌で、八重の細い手を包み込む。
「あの花も綺麗やったけどなあ」
「……そんなことを言うのは、夕霧さんだけですよ」
八重は夕霧に苦笑いを返す。
「お医者さんから聞いた話なのですが、花咲き病の副作用に、傷口の血が固まりやすくて、他の人より怪我が治りやすいというものがあるらしいんです」
「へえ?」
「あれだけ憎かった病に助けられました。何事も、一長一短なのかもしれないですね」
八重はその熱に甘えるように、彼の肩にそっと頭を預ける。
「夕霧さん……まだ、夢を見ているみたいです。島原を出て、あなたと一緒に江戸へ向かっているなんて。私のような女にあんな大金を出して、よかったんですか」
「まだそんなこと言うてんのか。あんた、自分の価値を分かってへんなあ」
夕霧は、愛おしそうに八重の髪を指で梳いた。
「俺は、あんたを助けたんと違う。俺が、あんたに救われたんや。……あの雪の夜、死にかけてた俺に帯を預けてくれた、あの時からな。生きている限りどこへでも行ける、って言うたんはあんたやで」
夕霧の瞳が、八重の瞳を正面から射抜く。博徒の冷徹さは消え、そこには一人の男としての、剥き出しの情愛だけがあった。
「江戸に着いたら、すぐに身を落ち着ける場所を整える。……八重」
名前を呼ばれ、八重の心臓が跳ねる。
「正式に俺の妻になってほしい。あんたを俺の隣に置きたいんやけど……嫌か?」
夕霧は、少し照れくさそうな顔をしていた。
八重の目から、温かいものが溢れ出す。かつて絶望の中で捨て去ったはずの、平凡で、けれど何よりも眩しい幸福が目の前にある。
「……嫌なわけ、ありません。私の方こそ……私でいいのなら、あなたの傍に、いさせてください」
八重は泣き笑いのような顔で、夕霧の胸に顔を埋めた。
夕霧は強く、折れんばかりに八重を抱きしめ、その額に優しく口付けを落とす。
「ああ。これからはずっと一緒や。あんたを二度と、泥の中に一人にせえへん。――愛してるで、八重」
籠の揺れに合わせて、八重たちの影が重なり合う。
春の風に乗って、東海道を江戸へと向かう道すがら、八重の心には新しい希望という名の花が、今度こそ枯れることなく咲き誇ろうとしていた。
(終)




