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正倫か不倫か  作者: 他人
9/14

彼女



彼女は、自分が置かれている立場を理解していた。


彼は十二歳上で、

社会人で、

家庭を持ち、

子どもがいて、

すでにひとつの人生を走らせている人間だった。


自分は学生だ。


有名な私立校を目指し、

外国研修にも参加し、

日々の課題と模試に追われている。


客観的に見れば、その辺の大人と比べられないほど

自分の方が忙しい。


それは事実だ。


だが、それでも。


彼はその枠に当てはまらなかった。


毎日毎日、22時を回っても、彼が休んでいる様子がない。


深夜。


出張先のホテル。


飲み会の帰り。


眠そうな声の向こうで、

彼はいつも参考書を開いている。


自分と同じように、

同じ速度で参考書をめくっている。


学生でもない。

資格試験が義務でもない。

仕事の評価にも直結しない。


それでも彼は、勉強している。


彼女は、そこにまず違和感を覚えた。


大人は、こんなふうに努力しない。


少なくとも、彼女の知っている大人たちは違った。


疲れたと言い、

時間がないと言い、

もう歳だからと言う。


彼は言わない。


淡々とやる。


彼女は思った。


この人は、

努力することを「自分の価値を保つ手段」にしている。


誰かに評価されるためではなく、

置いていかれないためでもなく、

自分でいるために。


それが、怖かった。


同時に、ひどく眩しかった。


彼は、感情を言葉にする。


楽しい。

不安だ。

迷っている。

嬉しい。

申し訳ない。


言い淀まない。


誇張もしない。


感情を、道具にしない。


彼女は、これまで、


感情は隠すものだと思っていた。


重いと思われる。

面倒だと思われる。

嫌われる。


だから、軽い顔で流す癖がついていた。


彼の前では、それができなかった。


気づかれてしまう。


声のトーン。

間。

返事の速度。


誤魔化す前に、


「今日、ちょっとしんどい?」


と来る。


それが、怖かった。


同時に、救いだった。


彼女は、彼の好きなところを百個以上書ける。


真面目。

誠実。

言葉を大事にする。

嘘をつかない。

人を馬鹿にしない。

努力する。

自分の弱さを認める。

学ぼうとする。


でも一番は、


「私を雑に扱わない」


という点だった。


それは、

特別扱いという意味ではない。


子ども扱いしない。


慰めるだけで終わらせない。


決めつけない。


彼女の考えを、

彼女の考えとして受け取る。


だから彼女は、早い段階で気づいていた。


この人には、妻がいる。

子どもがいる。

私は選ばれない。


自分は、

途中の人間だ。


通過点の可能性が高い。


彼は公務員で、

安定していて、

家があって、

守るものがある。


それでも。


彼女は、今、彼以外との未来が見えなかった。


結婚の想像ではない。


老後でもない。


ただ、


「一緒に勉強している今」

「声を聞いている今」

「考えを交換している今」


この連続が、他の誰かに置き換わらない。


恋人ではない。


手も繋いでいない。


それでも、


過去にこれほどまでに

理解され、

寄り添われ、

言葉を向けられた経験がない。


彼女は、期待してしまう。


してはいけないと分かっているのに。


冗談みたいに、


「結婚しよ」


と打ってしまう。


送信したあと、

胸がぎゅっと縮む。


幼いと分かっている。


現実を壊す言葉だと分かっている。


彼は、少し困ったように笑う。


否定はしない。


肯定もしない。


その曖昧さが、

彼女を生かしもするし、

殺しもする。


彼は、彼女に似ている。


感受性が強い。

考えすぎる。

人の痛みに反応する。


でも、彼女ではない。


彼女より多くの時間を生き、

彼女より多くの責任を背負っている。


だからこそ、

彼女は彼に期待してしまう。


彼女は、決めた。


私が三十歳になるまでは待とう。


理由は単純だ。


彼が選ぶかどうかは、彼の問題。


自分が待つかどうかは、自分の問題。


待つと決めることで、


彼に選ばせない。


彼女は、彼を縛らない。


同時に、自分を誤魔化さない。


好きなまま待つ。


期待していることを自覚したまま待つ。


それが一番、苦しい。


だから、彼女はそれを選んだ。

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