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正倫か不倫か  作者: 他人
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不正な公平




彼は長いあいだ、「選ばない」という姿勢を美徳だと思っていた。


決めないこと。

結論を出さないこと。

立場を固定しないこと。


それは配慮であり、成熟であり、誠実さだと信じていた。


誰かを選べば、誰かを切ることになる。

切らないためには、選ばなければいい。


単純で、合理的で、そして安全な論理だった。


彼はその姿勢で、生き延びてきた。


波風を立てず、

大きな衝突を起こさず、

「悪者」にならずに済む。


だが、彼女と出会ってから、その論理は静かに軋み始める。


彼は何も約束していない。


未来を語っていない。


離婚するとも言っていない。


一緒になろうとも言っていない。


ただ、話しているだけだ。


ただ、つながっているだけだ。


だが、それでも。


彼女は彼の時間を受け取っている。


彼も、彼女の時間を受け取っている。


そこに、契約はない。


しかし、消費はある。


彼は、ある夜ふと考える。


自分は、


「何も与えていない」


のではなく、


「未確定という状態を与えている」


のではないかと。


未確定は、無色ではない。


希望を含む。


可能性を含む。


期待を含む。


そしてそれらは、すべて時間を吸う。


彼は、自分の沈黙が、


中立ではないことに気づく。


沈黙は、


何もしていないのではない。


状況を維持している。


関係を継続させている。


選ばないという行為は、


「何も起こさない選択」ではなく、


「今の構図を固定する選択」なのだ。


その構図の中で、


一番削られるのは、誰か。


彼女だ。


若さという不可逆の資源を持つ側。


選択肢が多い時期にいる側。


時間の重さが、彼とは違う側。


彼は、自分に問う。


自分は、彼女の未来に対して、

どの程度の責任を引き受ける気があるのか。


答えは、出ない。


だが、


「ゼロではない」


という事実だけが、残る。


彼はもう、


完全な無関係者ではない。


彼女の人生に、薄く、しかし確実に関与してしまっている。


彼は、自分の中にある二つの声を聞く。


ひとつは言う。


「何も約束していない。

だから責任はない。」


もうひとつは言う。


「期待が生じる場所に立っている時点で、

責任は発生している。」


彼は後者を、否定できない。


彼は気づく。


自分はずっと、


「自分が一番最後に傷つく配置」


を選んできた。


妻のため。


子供のため。


彼女のため。


そう言いながら、


実は、


「自分が選ばなくて済む位置」


に身を置いていた。


選ばなければ、


失敗しなくて済む。


選ばなければ、


後悔の形が曖昧になる。


選ばなければ、


誰かを直接裏切らずに済む。


それを、彼は優しさと呼んでいた。


だが今は、違う言葉が浮かぶ。


回避。


保身。


先送り。


彼は、自分の倫理が、


「人を傷つけない倫理」ではなく、


「自分が悪者にならない倫理」


だった可能性に気づく。


それは、かなり苦しい気づきだった。


彼女は、彼にこう言ったことがある。


「待つのは、嫌じゃないよ。

好きだから。」


その言葉は、彼を安心させる。


同時に、縛る。


待たせている事実は消えない。


彼は、ある結論に近づく。


選ばないことは、

中立ではない。


それは、


「関係を続ける」という選択であり、


「期待を延命させる」という選択であり、


「未来の衝突を先送りする」という選択だ。


つまり、立派な行為である。


彼は、怖くなる。


行為である以上、


いずれ評価される。


将来の自分から。


将来の彼女から。


将来の子供から。


将来の妻から。


そのとき、


「考えていた」


という言い訳は、通用しない。


彼はまだ、決断していない。


だが、


「決断していないことの重さ」


は、もう理解してしまった。


だから彼は、最近よく思う。


自分は、


選ぼうとしているのではないか。


まだ言葉にしていないだけで。


まだ形にしていないだけで。


心の奥では、


すでに傾き始めているのではないか。


それが事実だとしたら。


彼は今、


誰にも宣言せずに、


裏で選択を進めている人間だ。


それは、彼の嫌悪してきた姿だ。


だが同時に、


初めて「生きている感じ」がする。


彼は、ここで初めて理解する。


倫理が壊れるとき、


人は堕落するのではない。


倫理は、


重たい形に組み替えられる。


抽象から、現実へ。


理念から、引き受けへ。


彼は、まだ逃げ腰だ。


だが、もう、


無垢な保留の場所には戻れない。


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