理性
彼は、最初から彼女を特別扱いしないようにしていた。
年齢を知っていた。
立場の差も、環境の差も、理解していた。
だからこそ、線を引いた。
深入りしない。
期待しない。
感情を持たない。
少なくとも、そう決めた。
会話は穏やかだった。
勉強の話。
日常の愚痴。
何気ない出来事。
どれも、ありふれているはずだった。
だが、彼は気づく。
彼女は、彼の言葉を「要約」しない。
分かったふりをしない。
途中で結論を奪わない。
最後まで聞く。
そして、返す言葉が、妙に的確だった。
慰めでもない。
正論でもない。
彼の思考の「続き」を、自然に差し出してくる。
彼は戸惑う。
自分の考えを、こんなふうに扱われたことがなかった。
彼女は、彼を肯定しすぎない。
否定もしない。
ただ、興味を持つ。
それが、彼には新鮮だった。
彼は、自分の話をするようになる。
結婚生活の細部までは語らない。
だが、価値観の話はする。
選択の話。
責任の話。
自立の話。
彼女は、それを受け取る。
そして時々、静かに言う。
「それ、しんどくない?」
その言葉は、責めない。
同情もしない。
ただの確認だった。
彼は、答えられなかった。
しんどいかどうか、考えたことがなかった。
しんどくても、やるものだと思っていた。
彼女は続ける。
「しんどいまま生きるのが当たり前って、変じゃない?」
その瞬間、彼の中で、小さな亀裂が入る。
今まで「前提」だったものが、前提でなくなる。
彼は怖くなる。
この会話は、危ない。
そう直感する。
だが、やめられない。
彼女は、彼の弱さを掘り起こさない。
暴かない。
「もっと話して」とも言わない。
ただ、話した分だけ、受け取る。
彼は少しずつ、自覚する。
彼女の前では、
「良い夫」でいなくていい。
「我慢できる大人」でいなくていい。
「理解ある人間」でいなくていい。
ただの自分でいられる。
それは、安心だった。
同時に、恐怖だった。
安心できる場所ができること自体が、裏切りに近い。
彼は、自分に言い聞かせる。
これは友情だ。
思考の相性がいいだけだ。
錯覚だ。
だが、ある日ふと気づく。
彼女が落ち込んでいると、気になる。
返信が遅いと、気になる。
元気だと、少し安心する。
それはもう、ただの会話相手ではなかった。
彼は焦る。
自分を律する。
距離を取ろうとする。
返信を遅らせる。
話題を浅くする。
だが、彼女は変わらない。
距離を詰めない。
詰めさせもしない。
淡々と、同じ温度で存在し続ける。
その姿勢が、彼をさらに混乱させる。
利用されていない。
依存されてもいない。
求められてもいない。
なのに、離れられない。
彼は、ある仮説にたどり着く。
彼女は、「役割」を求めていない。
慰め役でもない。
救済者でもない。
恋人候補でもない。
ただの、他者として向き合っている。
それが、彼にとって未知だった。
彼のこれまでの人間関係は、ほぼすべて役割付きだった。
守る側。
支える側。
我慢する側。
期待される側。
だが、彼女との関係には、役割名がない。
彼は、少しずつ認め始める。
自分は、
「誰かと並ぶ」
という関係を、ほとんど経験したことがなかったのだと。
彼女は、彼を引き上げない。
彼女は、彼の隣に立つ。
この差は、大きかった。
彼はまだ、恋だとは言わない。
言えない。
だが、彼はすでに理解している。
これは、
「好きになる前に起きる違和感」だと。
それはとても静かで、
自覚した瞬間には、もう後戻りできない種類のものだった。
彼は、心の奥でこう思っている。
――普通なら、気にも留めない。
――学生の感情など、通過点だ。
――現実を優先するのが大人だ。
それでも彼は、彼女を軽んじられなかった。
なぜなら、彼は見てしまったからだ。
彼女の「根」を。
努力する姿。
自分を疑いながらも前に進もうとする姿。
強がりながら、弱音を選ぶ勇気。
誰かに寄りかからずに立とうとする姿勢。
それは、若さとは別の次元のものだった。
彼は、そこに自分を見た。
過去の自分ではない。
今、なりたかった自分を。
だから彼は、恋に落ちたのではない。
信じてしまったのだ。
人の「根」というものを。
そしてそれは、
倫理よりも先に起きる。
理性よりも前に起きる。
彼は、まだ何も決めていない。
だが、もう分かっている。
この出会いは、
忘れて元の場所に戻れる種類のものではない。
彼は静かに思う。
もし、出会っていなかったら。
自分は、
「何も起こらなかった人生」を
成功だと呼んでいただろう。
今は、それが分からなくなっている。
それだけで、十分に世界は変わってしまった。




