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正倫か不倫か  作者: 他人
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過去



彼は、自分が「強い人間」だと思っていた時期がある。


少なくとも、そう振る舞うことには慣れていた。


怒鳴らない。

責めない。

詰めない。


衝突を避ける技術だけは、年々上達していった。


それは大人になることだと信じていた。


だが今振り返れば、それは成熟ではなく、撤退だった。


彼が、彼女――いまの妻と出会ったのは若い頃だった。


特別な確信があったわけではない。


運命、という言葉で形容できるような劇的な何かもなかった。


ただ、そばにいた。


話していた。


時間を重ねていた。


気づけば、関係になっていた。


その頃の彼は、誰かに必要とされることで、自分の存在を測っていた。


孤独が怖かった。


一人で立つ自信がなかった。


誰かの腕の中にいることでしか、眠れなかった。


彼女は、その空白にすっぽり収まった。


それだけで、十分だった。


交際して数年後、異変が起きる。


彼女の様子が、どこかおかしい。


スマートフォンを見せない。


視線を逸らす。


会話の隙間に、説明のつかない空白が増えていく。


彼は不安になった。


だが、不安を言語化する術を持っていなかった。


問い詰める勇気もなかった。


だから、お願いした。


「見せてほしい」と。


返事は、拒否だった。


その瞬間、彼の胸に生まれたのは怒りではない。


恐怖だった。


見せてもらえないという事実が、


もう答えになっていたからだ。


後に、浮気が発覚する。


行為の動画。


ホテルを示すタイムスタンプ。


自分への不満のメッセージ。


現実は、容赦がなかった。


彼は壊れた。


だが、壊れながらも思った。


――それでも、一緒にいたい。


この時点で、彼の自己価値は、すでにかなり低かった。


「二番でもいい」


そう思った。


選ばれなくてもいい。


捨てられなければいい。


それが当時の彼の、正直な願いだった。


彼は謝った。


浮気したのは相手なのに。


「浮気させてごめん」


「もっと頑張る」


自分でも、どこが悪いのかわからないまま。


彼女は一度、彼を振る。


彼は縋る。


言葉を尽くす。


必死になる。


その姿を、彼女は浮気相手に見せて、笑っていた。


彼はそれを知る。


だが、怒りよりも先に、


「それでも好きだ」という感情が残る。


自分でも理解できなかった。


彼は、自分を見失っていた。



しばらく連絡を絶つ期間があった。


ある日、共通の友人に誘われてコンビニに行くと、彼女がいた。


誕生日だった。


チーズケーキを差し出された。


「お世話になったから」


そう言われた。


その時、彼は言った。


「いつか笑って話せる日が来るといいね」


本音だった。


未練と、諦めと、希望が混ざった言葉だった。


その日、彼女は言った。


「寄り戻したい」


彼はすぐには頷かなかった。


「まず、謝ってほしい」


小さな、最後の抵抗だった。


謝罪はあった。


だが、深いものではなかった。


それでも彼は受け取った。


なぜなら、


これを逃したら、


自分は本当に一人になる気がしたからだ。


彼は思った。


――もう一度、信じてみよう。


それは勇気というより、賭けだった。



復縁後も、違和感は続く。


元彼がいる飲み会に、内緒で行かれる。


人づてに知り、迎えに行く。


「ストーカーかよ」


そう言われる。


心の中で、何度も問う。


なんのために寄り戻したのか。


だが、それでも離れなかった。


彼は、ここで気づいてしまう。


自分は、


愛しているのではなく、


縋っているのだと。


だが、その違いを、当時は直視できなかった。



結婚は、確信からではない。


「この人となら幸せになれる」


という強い予感があったわけでもない。


むしろ、


「この人を失ったら、自分は壊れる」


という恐怖が大きかった。


彼は結婚を選んだ。


それは、


彼女を選んだというより、


孤独を選ばなかった、という表現の方が近い。



結婚生活の中で、彼はよく耐えた。


怒らなかった。


要求しなかった。


不満を飲み込んだ。


波風を立てなかった。


それが夫としての誠実さだと思っていた。


だが実際は、


対等であることから逃げていた。


嫌なことを嫌と言わない。


欲しいものを欲しいと言わない。


その結果、


相手に「察する責任」を与えない代わりに、


自分の輪郭をどんどん消していった。


彼は便利な人になった。


だが、尊重される人にはならなかった。



性の問題が、徐々に表面化する。


誘えば断られる。


断り方は、年々きつくなる。


「触んな、気持ち悪い」


「もう一生したくない」


「尊敬できない」


「したいなら、させてくれる人と結婚すれば」


彼は、そのたびに、


小さく壊れていった。


だが、怒らなかった。


泣いて、飲み込んで、寝て、忘れたふりをした。


忘れたのではない。


沈めただけだ。


沈めた感情は、消えない。


底で腐る。



ある日、彼は気づく。


自分が、もう誘いたいと思えなくなっていることに。


拒絶されるのが怖いからではない。


欲望そのものが、萎えている。


それは、心が防御に入ったサインだった。


期待しなければ、傷つかない。


彼は、そのモードに入った。


それは生存戦略だった。



彼は、妻を悪人だとは思っていない。


家事もする。


子供にも向き合う。


金の管理もできる。


良い母であり、良い生活者だ。


ただ、


彼の存在を肯定しない人だった。


それが、致命的だった。



彼は最近、ようやく理解した。


自分は、


「愛されなかった」ことよりも、


「存在を無視された」ことに傷ついていたのだと。


名前で呼ばれない。


頑張りを見られない。


褒められない。


触れられない。


求められない。


それらはすべて、


「あなたはいなくても成立する」


というメッセージだった。



彼は思う。


もっと早く話せばよかった。


もっと嫌だと言えばよかった。


だが同時に、こうも思う。


当時の自分には、言えなかった。


弱かった。


依存していた。


一人になる勇気がなかった。


彼は、自分を責める。


だが、少しだけ赦してもいる。


あの頃の自分は、


生きるのに必死だったのだ。



彼は、妻と結婚したことを、


「間違いだった」とは思っていない。


あの時間があったから、


自分の歪みを知った。


依存を知った。


自分で立つ必要性を知った。


だからこそ、今、立っている。



彼は、まだ妻と話し合っていない。


だが、もう、


元の関係に戻れるとも思っていない。


彼は理解している。


これは、誰かが悪い話ではない。


関係の寿命の話だ。


そして寿命は、


努力だけでは延びない。



彼は次に進む。


妻と向き合う。


逃げずに話す。


泣くかもしれない。


揺れるかもしれない。


それでも。


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