依存
彼は、
自分の人生を振り返ると、
いつも「寄りかかる場所」を探してきた人間だった。
幼い頃は母だった。
思春期以降は、初めて体を重ねた恋人だった。
そして、その恋人が、やがて妻になった。
誰かが傍にいることで、
自分という存在の輪郭を保ってきた。
一人で立つという感覚を、
彼は長いあいだ知らなかった。
それを弱さと呼ぶのは簡単だ。
だが彼は、それを生存の形式だと思っていた。
誰かと結びついていることで、
自分は壊れずに済む。
そう信じていた。
妻と出会った当初、
彼は強く惹かれていた。
安心したかった。
選ばれたかった。
必要とされたかった。
そして、必要とされていると思えた。
腕の中で眠る彼女。
毎日の連絡。
将来の話。
彼にとってそれは、
「生きていていい」という証明だった。
だが、関係は少しずつ変わっていった。
会話は減り、
触れ合いは減り、
目は合わなくなり、
名前で呼ばれなくなった。
彼は気づいていた。
だが、
気づかないふりをする方が楽だった。
嫌だと言えば、壊れるかもしれない。
我慢すれば、続くかもしれない。
彼は後者を選び続けた。
怒らない。
責めない。
要求しない。
その代わり、
自分を削った。
食事に行けば、相手の食べたいものを頼む。
自分の希望は言わない。
相手が迷えば、先に譲る。
それで喜んでもらえるなら、よかった。
そうしているうちに、
「何が食べたいか」と聞かれるのが、
少し怖くなった。
自分の欲を差し出すことに、
慣れていなかった。
彼は、
与える側でいることで、
関係の均衡を保っていた。
だがその均衡は、
対等ではなかった。
妻は変わっていった。
産後という事情。
疲労。
ストレス。
彼は理解しようとした。
待ってと言われれば待った。
仕方ないと言われれば飲み込んだ。
だが、拒絶されるたびに、
彼の内部で何かが削れていった。
触れると嫌な顔をされる。
誘うと舌打ちされる。
寝ている横で距離を取られる。
それでも彼は、
「嫌われているわけではない」
という言葉を信じた。
信じることでしか、
立っていられなかった。
やがて、言われた。
「もう一生したくない」
「変わらない」
「尊敬できない」
「したいなら、させてくれる人と結婚したら?」
その言葉は、
刃のように刺さった。
彼は反論しなかった。
できなかった。
泣いてしまう自分が、
さらに情けなかった。
それでも彼は、
すぐに別れようとは思わなかった。
十二年という時間。
子供。
生活。
家。
それらは、
鎖であると同時に、
現実だった。
彼は自分に言い聞かせた。
当たり前だ。
長く一緒にいれば、そうなる。
愛は形を変える。
だが、心の奥では、
違う声が鳴り続けていた。
「これは、愛の形なのか」
彼はその声を、
ずっと無視してきた。
無視できなくなったのは、
彼女に出会ってからだ。
彼女は、
彼の話を途中で遮らない。
結論を急がない。
評価しない。
彼が話す前提を、
否定しない。
彼はそこで初めて、
「聞かれている」という感覚を知った。
理解されている、
というより、
存在を受け取られている感覚。
それは、
妻との関係の中で、
いつの間にか失っていたものだった。
彼は気づいてしまった。
自分は、
妻を救いたかったのだと。
不器用で、
無邪気で、
愛し方を知らない人。
だから、
自分が頑張ればどうにかなると、
信じていた。
だが同時に、
彼は自分自身も救いたかった。
誰かに寄りかからずに、
自分で立てる人間になりたかった。
彼女と関わる中で、
初めてそれを学び始めた。
依存ではなく、
並ぶという感覚。
寄りかかるのではなく、
隣に立つという感覚。
それを知ってしまったあとで、
妻との関係を見ると、
歪みがはっきり見えた。
彼は変わった。
そして、
変わった自分で、
元の関係に戻れなくなった。
それだけのことだった。




