一歩
「なんで、勝手に決めたの」
最初に返ってきたのは、その言葉だった。
声は強くなかった。
けれど、温度が低かった。
責めるというより、
抑えている感じだった。
彼は一瞬、言葉に詰まった。
言い訳はいくらでも用意していた。
けれど、そのどれもが嘘になる気がした。
「…相談するべきだった」
そう答えた。
彼女はすぐには返さなかった。
少し間を置いて、
「私は、相談相手じゃないの?」
と聞いた。
その問いは、怒りというより、
悲しみに近かった。
彼は、その違いが分かってしまった。
胸の奥が、じわっと痛んだ。
彼女は続けた。
「二人のことなのに、なんで一人で決めるの」
責め口調ではない。
けれど、逃げ道もない。
彼は、この瞬間、理解した。
彼女は「会いたい」という感情より前に、
「対等でいたい」という感情を持っている。
それが、彼女の強さであり、
彼が惹かれてしまった部分だった。
彼は正直に言った。
「もし行かないって選んだら、一生後悔すると思った」
彼女はすぐに返さなかった。
しばらくして、ぽつりと、
「私はね」
と前置きしてから言った。
「会いたいって、ずっと思ってたよ」
彼の喉が詰まった。
彼女は続けた。
「でも、来たら、きっと苦しくなるって分かってたから」
彼は、その時点で、
自分がどれだけ彼女を追い込んでいたかを理解した。
彼女は、感情を押し殺していた。
彼が理性的であると信じていたから。
彼が、無茶をしない人間だと信じていたから。
彼女は言った。
「嬉しかったけど」
一拍。
「怖かった」
彼は、何も言えなかった。
彼女は、少し強めの口調になった。
「迷惑とか考えなかったの?」
その言葉の裏側が分かった。
——迷惑をかける存在になりたくなかったのは、彼女自身だ。
彼女は続けた。
「もし、あなたの生活が壊れたらどうするの」
「私のせいにされるの、嫌だから」
ここで、彼ははっきり分かった。
彼女は、自分のためより先に、
彼の未来を心配している。
その事実が、彼を苦しめた。
彼は、少し間を置いて言った。
「君のせいにはしない」
「これは、俺が選んだ」
「君が止めても、俺は行ったと思う」
沈黙。
長い沈黙。
彼は、嫌われる覚悟をした。
彼女は、深く息を吐いて言った。
「……勝手だね」
彼は否定しなかった。
「うん」
彼女は、少しだけ笑った。
困ったような笑顔だった。
怒っているのに、
完全には突き放せない顔だった。
「一目だけだよ」
その時の彼女の声は、
許可というより、
妥協だった。
それでも彼は、頷いた。
その夜、彼は思った。
彼女は怒った。
それは、
会いたくなかったからじゃない。
彼が来れば、彼女が苦しくなるからだ。
彼は、その苦しさを分かった上で、
それでも行った。
それが正しいとは思わない。
ただ、
「何も変えない」という選択が、
もう出来なくなってしまっていた。
彼は、その事実だけを、静かに受け入れていた。




