始まり
彼は、自分が壊れ始めていることに、しばらく気づかなかった。
正確に言えば、壊れているという言葉を、自分に許していなかった。
壊れるというのは、叫ぶことであり、投げ出すことであり、破綻することだと、どこかで思っていたからだ。
彼は叫ばなかった。
投げ出さなかった。
破綻もしなかった。
朝は起き、仕事に行き、家に帰り、子どもに声をかけ、食卓に座り、風呂に入り、眠った。
外形は、何ひとつ崩れていなかった。
だから彼は、自分を「壊れていない側」の人間だと思い込んでいた。
だが実際には、彼は少しずつ、自分の欲求を感知しなくなっていた。
何が食べたいか。
何をしたいか。
何を言われたら嬉しいか。
それらを考える前に、無意識に別の問いが立ち上がる。
相手は何を望んでいるか。
相手は不快にならないか。
場の空気は乱れないか。
問いの順番が、いつのまにか入れ替わっていた。
彼はそれを、優しさだと呼んでいた。
そして、優しさである限り、そこに疑問を差し挟む必要はないと思っていた。
妻とは、長い時間を過ごしてきた。
破壊的な関係ではなかった。
暴力もなかった。
罵声が飛び交うわけでもなかった。
ただ、触れ合いが消えていった。
最初は理由があった。
産後だから。
疲れているから。
今はそういう気分じゃないから。
彼は頷いた。
頷くことが、愛だと思っていた。
断られるたびに、胸の奥に小さな痛みが生まれたが、
彼はその痛みを「理解」に変換した。
理解できる自分でありたかった。
理解できない自分になるのが、怖かった。
やがて、断られる言葉は短くなり、
表情は硬くなり、
声には苛立ちが混ざるようになった。
彼は誘うこと自体を減らした。
減らしたというより、
誘いたいという衝動を感じないようにする訓練を始めた。
それはうまくいった。
ある日、彼は気づいた。
自分が「したい」と思っていないことに。
正確には、
思っていないフリをすることが、習慣になっていた。
それでも彼は言葉にしなかった。
言えば、空気が壊れる。
言えば、相手を責める形になる。
言えば、自分が悪者になるかもしれない。
彼は悪者になることが、異様に怖かった。
彼は、「関係が悪い」とは思っていなかった。
子どもは元気だった。
家事は回っていた。
金銭的な破綻もなかった。
だから、これは「不幸」ではない。
そう結論づけていた。
だが、ある晩、ふと考えた。
もしこの状態が、あと十年続いたら。
何も起きない十年。
良くも悪くもならない十年。
触れ合いのない十年。
その想像が、彼の胸に重く沈んだ。
怖かったのは、苦しみではない。
何も感じなくなることだった。
そんな時、彼女と出会った。
出会ったと言っても、劇的なものではない。
同じ空間にいて、
少し言葉を交わし、
少し考え方が似ていると感じただけだ。
年齢差は、最初から分かっていた。
彼はその事実を、心の奥で「危険」とラベル付けした。
だから距離を取った。
取ったつもりだった。
だが、彼女の言葉は、彼の内部に奇妙な引っかかりを残した。
感情を、言葉にしようとする姿勢。
分からないことを、分からないと言う態度。
考え続けることを、放棄しない粘り。
それらが、懐かしかった。
懐かしい、という感覚に、彼は戸惑った。
なぜ懐かしいのか分からなかった。
考えてみて、気づいた。
それは、昔の自分だった。
まだ、自分の感情を自分で触れていた頃の自分。
彼は、自分が彼女を「好き」だとは思わなかった。
そういう言葉を当てはめるのは、早すぎるし、軽すぎると感じた。
代わりに、こう思った。
この人は、
自分の奥の方を、勝手にノックしてくる。
彼女は、彼の状況を知らない。
家庭のことも、関係の歪みも、詳しくは知らない。
それなのに、
彼が長年避けてきた場所に、自然に触れてくる。
彼はそのことを、怖いと思った。
同時に、目を逸らせなかった。
ある時、彼女が言った。
「期待するのが、怖くなくなってきた」
それは独白のような言葉だった。
彼は、その一言で、胸の奥がざわついた。
彼自身は、長年「期待しない」ことで生き延びてきた。
期待しなければ、失望しない。
期待しなければ、怒らなくて済む。
期待しなければ、壊れない。
それを、生存戦略として採用してきた。
だが彼女は、逆の方向へ進もうとしている。
期待することを、もう一度選ぼうとしている。
彼はその姿を見て、理解してしまった。
自分は、
期待しない人間なのではなく、
期待して裏切られるのが怖い人間なのだと。
その瞬間、彼の中で、長年固定されていた前提が、静かに崩れた。
彼は、まだ何も決めていなかった。
離婚も。
将来も。
関係の名前も。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
もう、以前の場所には戻れない。
戻れないというのは、
彼女のところへ行く、という意味ではない。
自分の感情を無視していた状態へ戻れない、という意味だ。
それは、彼にとって静かな断絶だった。
彼はまだ、彼女に会っていない。
だがすでに、
会う前の地点で、
彼の内部では何かが終わっていた。
そして、何かが、始まってしまっていた。




