彼が壊れた夜
これは随分と前の話だ
その日は、特別な日ではなかった。
仕事が終わり、
コンビニに寄り、
いつも通り家に帰っただけの夜だった。
玄関を開けると、部屋は暗かった。
リビングの電気はついていない。
寝室のドアの隙間から、テレビの音だけが漏れていた。
子どもは先に寝かしつけたのだろうと分かった。
彼は静かに手を洗い、
リビングの椅子に座った。
特に理由もなく、
しばらくスマホを見ていた。
時計を見ると、21時を過ぎていた。
「今日も、できない」
そう思った。
正確には、
「誘って断られる未来を想像して、やめた」
の方が近い。
しばらくして、寝室のドアが開いた。
妻が出てきて、冷蔵庫から水を取った。
彼女は彼を見なかった。
彼は、何か言おうとして、やめた。
沈黙が続いた。
妻が再び寝室に戻ろうとしたとき、
彼は言った。
「今日さ……」
妻は振り返らなかった。
「なに?」
その声に、苛立ちはなかった。
だが、温度もなかった。
彼は喉が詰まった。
「……なに?」
少し間が空いた。
「もう眠い」
それだけだった。
彼は反射的に言った。
「久しぶりに、一緒に寝…」
「なんでそういうこと言うの?」
彼は意味が分からなかった。
「え?」
「私、嫌って言ってるよね?」
彼は、何も言えなかった。
嫌と言われた記憶はあった。
だが同時に、
「月一ならいい」
「体調いいときなら」
「気分次第」
そういう言葉も、たくさん聞いてきた。
だから彼は、
今はダメな日なんだと思っただけだった。
「無理やりしたいの?」
妻はそう言った。
声は低かった。
彼は慌てた。
「違う、そうじゃなくて」
「じゃあなんで言うの?」
彼は言葉を探した。
「……好きだから」
しばらくの沈黙。
そして妻は言った。
「したいなら、させてくれる人と結婚すれば?」
その瞬間、彼の中で何かが切れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと鈍い、何か。
体の奥が、すとんと落ちた感じ。
彼は笑ってしまった。
うまく笑えていたかは分からない。
「……そうだね」
と言った。
自分でも驚くほど、声が平坦だった。
妻は何も言わず、寝室に戻った。
ドアが閉まった音が、やけに大きく聞こえた。
彼はそのまま、リビングに立ち尽くしていた。
座ることもできなかった。
涙は出なかった。
胸が痛いという感覚もなかった。
ただ、
「もう、終わってるんだな」
と思った。
その夜、彼はソファで寝た。
翌朝、妻はいつも通りだった。
「今日ごみの日」
普通の声。
何事もなかったように。
彼も普通に返した。
仕事に行った。
誰にも何も言わなかった。
だが、
彼の中で、
「我慢すれば戻る」
という考えだけが、消えた。
それまで彼は、
いつか。
もう少ししたら。
タイミングが来たら。
そう思っていた。
その日から、
「変わらないんだ」
に変わった。
それだけだった。
大きな決意もない。
宣言もない。
ただ、
希望が静かに死んだ。
彼は思った。
自分は、
愛されたいと思っていただけだ。
抱かれたいわけじゃない。
性欲を処理したいわけでもない。
「求められたい」
だけだった。
それが、二度と来ないと分かった。
彼はそこで初めて、
「関係を続ける意味」
を考え始めた。




