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舞台は整った

1991年8月19日、モスクワ郊外、ノーヴォ・オガリョヴォ。


真夏の日差しが、政府公邸の巨大な窓から差し込んでいた。新連邦条約の批准会議。

それは、崩壊寸前のソビエト連邦にとって、最後の希望となるはずだった。


政治的な権力を失っても、書記長としての権限はまだその手に残されている。

ミハイル・ゴルバノフは、穏やかな笑みを浮かべて、彼が信じる新たな連邦国家の維持のために、壇上へと上がった。

各共和国の指導者たちが見守る中、彼は歴史的な調印のため、ペンを手に取ろうとした。


その瞬間だった。


「ゴルバノフ書記長!!」


ヤトフ元帥の、覇気に満ちた声がホール全体に響き渡った。

参列席に呼ばれていないにもかかわらず、彼はただ一人の副官だけを連れて、会場の後方から現れたのだ。

その軍服姿は、新たな連邦のための祝祭の場には、あまりにも不似合いだった。


ゴルバノフは、驚きと共にヤトフを見た。ヤトフの瞳はつり上がり、その吐息からは抑えきれない怒りが漏れ出ていた。

それは、理論や政策の対立ではない。官僚エリートとして党の階段を駆け上ってきたゴルバノフが、生涯で一度も向けられたことのない、剥き出しの殺意だった。

彼は思わず後ずさりした。


「国を、売る気か、売国奴めが!」


ヤトフは、各国の首脳やマスコミが見守る中、壇上に向かって突き進む。その歩みは老いてなお、大地を踏みしめる戦車のようだった。


「ソビエトは! 二千万の英霊は、国家の分裂など望んではいないッ!」


ゴルバノフが招き入れた西側のマスコミのカメラが、怒りに顔を歪ませた老元帥の顔を、一斉に捉える。フラッシュが、彼の軍服に飾られた無数の勲章を白く光らせた。


「今すぐ、この茶番(条約会議)を中止してもらおう」


ヤトフが壇上に上がろうかと思われた、その時だった。

一人の大男が、その進路に立ち塞がった。


ボリス・エリツォン。


数日前、ヴィクトルに「何が起きても、決して元帥を止めず、しかし道だけは塞いでください。あなたはロシアの守護者として、軍の暴走をただ一人で食い止めるのです」と、強く言い含められていた彼は、そこにいた。

その瞳からは酔いの気配は消え、ロシア共和国の指導者として、老元帥の怒りを正面から受け止め、相対していた。


ボリス・エリツォンは、目の前の老元帥の怒りを全身で受け止めながら、言葉を舌の上で転がしていた。


(薄っぺらい言葉を並べても意味はない)


ヴィクトルは「話は通してある」と言っていた。だが、こちらへ向かってくる元帥の瞳には、確かに殺意があった。

彼はちらりとゴルバノフをかすかに見る。壇上で無様に尻餅をつき、腰が抜けているのが露骨にわかった。


(最悪だ。だが、最高の舞台だ。俺の、立身出世の)


エリツォンは、ヤトフに向かって怒鳴り返した。その声は、ホールの天井を震わせた。


「止まれ、元帥! 政治に軍が介入する気か!」


彼は一歩も引かず、ヤトフとの距離を詰めた。


「ソビエト軍は、一体誰のための軍隊だ!」


それは、あやふやな言葉だった。党のためか、人民のためか。彼は意図的に、そう、意図的にはぐらかした。ヴィクトルに言われた通りに。

エリツォンは素早くヤトフの隣に立つ副官を見る。ヴィクトルの情報によれば、ヤトフが今、心から信頼しているのはこいつだけだと。その副官の顔が、わずかにこわばっているのを彼は見逃さなかった。


ヤトフは、怒りに満ちた声で言った。


「どいていただきたい、エリツォン議長。ソビエトの自殺を、止めなければならんのだ」


その言葉には、もはや議論の余地はなかった。だが、エリツォンは不敵に、そして皮肉を乗せた顔で言った。


「いやだね」


彼は、両腕を広げ、仁王立ちになった。


「それともあなたは、この私を殺してでも、どかすのか?」


その言葉は、静かだったが、ホールにいる全ての者の心臓を掴んだ。西側のマスコミのカメラが一斉に、二人の対峙を捉える。


「ソビエトの同胞を、その手で殺すと?」


エリツォンは、ヤトフの瞳の奥を、まっすぐに見つめて言った。


「それは、あなたが信じる『ソビエト軍人』の姿か?」


その問いは、ヤトフが振り上げた拳を、内側から砕くための、最も鋭い刃だった。


「はい」と言えば、テレビの前で同胞殺しを宣言することになる。「いいえ」と言えば、黙って引き下がるしかない。

エリツォンの突きつけた問いは、ヤトフを完全な論理の袋小路に追い込んでいた。


そして何より、ソビエト軍は、皮肉なことにあまりにも世俗化されていた。

狂信的なイデオロギーのために、同胞に銃を向けるような純粋さは、もはや失われて久しい。数ヶ月前のリトアニア独立紛争での武力鎮圧が、軍内部からも批判が噴出し、厳しい箝口令が敷かれるほどには……。


ヤトフは、煮え滾るような声で叫んだ。それは、罠から逃れようとする最後の足掻きだった。


「軍ではない、私だ! 私がこの責任を一身に負う! あのゴルバノフを引きずり下ろした後、私を逮捕でも銃殺でも好きにしろ!

だが、これは私が、やらねばならんのだ!」


軍ではない、と。クーデターではなく、一個人の義憤なのだと、彼は明確に告げた。

だが、エリツォンを欺くには、その一言は足りなかった。


「ならばなぜ軍服を! なぜソビエト連邦英雄の証であるレーニン勲章を、その胸にぶら下げている!」


めざとく、エリツォンは指摘した。

彼はヤトフの胸元に指を突きつけ、まるで舞台上の俳優のように、朗々と声を響かせた。

憑依型の政治家、ヴィクトルはかつて、ボリス・エリツォンをそう評した。危機的状況であればあるほど、役になりきり、聴衆の心を掴む天才。今、まさにその真骨頂が発揮されていた。


「個人としてならば、その軍服を脱げ! あなたが人民の一人として訴えるならば、書記長も聞かざるを得ないだろう!」


エリツォンは、一転して声を少しずつ沈めながら、諭すように告げた。それはもはや命令ではなく、助言のようだった。


「それが、あなたの権利です、元帥」


ヤトフは、完全に言葉を失った。

そして、いらただしげに、自らの軍服のボタンに手をかけた。ビリッ、という音と共に、彼は肩章を引きちぎり、勲章の連なる上着を脱ぎ捨てた。

ズボンはそのままだったが、その上半身は肌着一枚となり、独ソ戦の英雄の威厳は見る影もなかった。


ヤトフは、怒りに身を任せ、つかつかと壇上へと歩き出す。


ボリスは、今度は止めなかった。

彼は、狼狽する元帥の副官を片手で押しとどめ、ただの老人となったヤトフが、無様に壇上へと上がるのを、静かに眺めていた。

勝敗は、決した。



その日、二人の人間の権威が、地に落ちた。


一人は、ミハイル・ゴルバノフ書記長。

ヤトフ元帥の激しい詰問の前にしどろもどろになり、ろくな反論もできず、最後は逆上した元帥に殴り倒されて壇上で気絶した。

党の絶対的権威、ノーベル平和賞を受賞した高名な政治家が、その無力さを東西のマスコミと聴衆の前に晒した瞬間だった。


もう一人は、ドミトリー・ヤトフ元帥。

だが、彼に対しては意外にも擁護の声が多数寄せられた。その行動は暴挙であったが、根底にあるのは純粋な祖国愛であり、最終的にはエリツォンの説得に応じ、軍という最強の武器を使わず理性的に事を収めようとした。

彼を馬鹿にする者、嫌悪する者はいたが、同時に、彼の行動が、血の気の多い部下たちが武器を手にしてこの政治劇を覆すことを確かに押しとどめたのだと、多くの者が理解していた。


そして、歴史を動かすはずだった新連邦条約の批准会議は、議長であるゴルバノフが気絶したことで、うやむやとなった。

「後日、改めて……」という空虚なアナウンスが流れる中、各共和国の代表たちは、この茶番劇に呆れ、肩透かしの状態で帰国の途につき始めた。


そう、彼らはもはや、ソビエトの名のもとに独立に等しい権利を与えられる必要はなくなった。

その権利を与えるはずだった男が、ただの愚かな道化として殴り倒され、その権威が完全に崩壊したからだ。

彼の署名は、もはや紙切れほどの価値も持たないと、満天下に示されてしまったのだ。


そして、この日の勝者がいた。名を上げた男、ボリス・エリツォン。

「政治的な獣」と彼を非難する声もあった。だが、激情に駆られたヤトフを、暴力ではなく言葉で諭したその姿に、多くの人々は彼こそが次の時代の指導者だと、希望を見た。


その夜、ヴィクトルの執務室の電話が鳴った。

会場から連れ出され、自宅軟禁状態となったヤトフから言づてを預かった、あの忠実な副官からだった。


声は、硬かった。だが、その奥に奇妙な安堵が滲んでいた。


「ペトロフ同志。伝言です」


「……」


「元帥は、なされました」


副官は一度言葉を切り、そして続けた。


「ゆえに、あなたも、約束を果たしていただきたいと、そう申されております」


ヴィクトルは、一言礼を言い、受話器を静かに置いた。

ヤトフは、約束を果たした。クーデターという最悪の選択を捨て、自らが道化となることで、ゴルバノフの権威を失墜させ、新連邦条約を葬り去った。


今度は、自分の番だ。

ヴィクトルは、机の引き出しから、彼が書き上げた「連邦再編計画」の最終稿を取り出した。

舞台は整った。これから始まるのは、ソビエト連邦という巨大な遺産を巡る、最後の、そして最も冷徹な交渉だった。

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