最後の元帥
だが、ソビエトの崩壊は、ヴィクトルの最も悲観的な予測よりも、早かった。
書記長が、敵対派閥が連れてきた得体の知れない若造に満座で論破される。
その事実そのものが、もはや権威の完全な崩壊を意味していた。
かつてスターリンが粛清のサイン一つで数百万の命を奪った絶対的な権力が、今はもう見る影もなかった。
ゴルバノフの権威失墜と共に、連邦を構成する各共和国の遠心力は、抑えがたい力で増大していく。
ヴィクトルは、クレムリンの片隅で懸命に情報を繋ぎ合わせていた。
エリツォンがロシア共和国の権力を固め、ゴルバノフを政治的に無力化した瞬間、彼はその威光を背に、ゴスプラン本部へと乗り込んだ。
その傍らには、レニングラードから呼び寄せた、彼が最も信頼する部下、フョードル・チェルノフを連れていた。
チェルノフは、ヴィクトルと同じく現実主義者で、数字に嘘がないことを知る、口の固い男だった。
アレクサンドロフから託されたレニングラード派の情報、そして今、彼の目の前にはソ連内部からの公式の情報と、ゴスプラン本部が長年隠し持ってきた「裏帳簿」とも言うべき、国家の真の財政状況を示す極秘資料が広がっていた。
チェルノフと共に、三日三晩、不眠不休で数字を検分する。
軍事費用、経済成長率、インフラの保守費用……。
全ての数字が、一つの絶望的な結論を指し示していた。ヴィクトルは、乾いた唇を強く噛みしめた。
(ダメだ……間に合わない……)
計算は明白だった。
仮に今この瞬間、奇跡が起きて彼がソビエト全土の絶対的な統制権を握ったとしても、もはやこの国はもたない。
歳入は急減し、硬貨(外貨)は底をつき、軍とインフラを維持するだけで、国家は数ヶ月以内に破産する。
そして、最悪なことに、エリツォンがゴルバノフ派の残党を完全に排除し、名実ともに最高権力者となるには、どんなに早くともあと一年はかかる。
その一年という時間が、致命的だった。
この国は、それまで持たない。
巨大な船体が、ゆっくりと、しかし確実に、奈落の底へと沈んでいくのが、彼にははっきりと見えていた。
1991年、暑い夏。
モスクワのアスファルトは陽炎に揺れ、空気はまるで火薬のように、張り詰めていた。
ゴルバノフが延命策として進めていた各共和国への権限拡張――新連邦条約――は、ヴィクトルの目には、もはや祖国の崩壊を早めるための儀式にしか見えなかった。
彼は当てつけのつもりなのか、あるいは本当に理解ができなかったのか。
政治的に無力化されつつある書記長は、自らの権威が残っているうちにと、各共和国の指導者たちに独立に等しい権限を与えると、承認の意思を送っていた。
それは、瀕死の巨人の手足を、自ら引きちぎるような行為だった。
ヴィクトルは、クレムリンの廊下を走り回り、決死の覚悟で人々を説得していた。
ゴルバノフ派の残党、まだ日和見を続ける中間派、そしてエリツォン派内の穏健派。
今、モスクワ閥が一丸となってまとまりさえすれば、まだ”穏健な”終わり方ができる。制御された解体、あるいはより緩やかな連邦制への移行。まだ道は残されているはずだった。
だが、その言葉を彼は口には出せない。
モスクワにいる誰もが、まだソビエトという巨大な器の中で、より良い席を奪い合う権力闘争に明け暮れている。
しかし、彼には見えていた。モスクワの外では、もはやその器そのものを叩き割ることを目的とした共和国たちが、不気味にうごめいていることを。
ある日、ヴィクトルは、一つの賭けに出た。
彼は一人でアルバーツカヤ広場にある国防省――ソ連最高司令部の重厚な建物へと赴いた。
「国防大臣、ヤトフ元帥に謁見を願いたい」
受付でそう告げると、衛兵は訝しげな目を彼に向けた。見慣れない若造官僚が、ソ連軍のトップにいきなり会えるわけがない。
「予約なき者は通せん。帰れ」
ぶしつけな侵入者だと思った衛兵が、力ずくで彼を止めにかかる。
だが、ヴィクトルは冷静に、内ポケットから一枚の書類を取り出した。
それは、ロシア共和国最高会議議長、ボリス・エリツォンの署名が入った覚え書きだった。
「エリツォン議長の代理として、国家の緊急事態について元帥と協議する権限を与えられている」
衛兵の顔色が変わった。
ゴルバノフの権威は地に落ちたが、今モスクワで最も力を持つ男、エリツォンの名は、軍の末端兵士にさえ絶対的な重みを持っていた。
彼らは、目の前の若者がただの官僚ではないことを悟り、狼狽しながら上官へと報告の電話をかけ始めた。
ヴィクトルは、その様子をただ静かに見つめていた。
謁見室に通されたヴィクトルの前に座っていたのは、生きた伝説だった。ドミトリー・ヤトフ。
ソ連邦最後の元帥。独ソ戦で血を流し、祖国のために命をかけた男の一人。
そしてかつて、世界が核戦争の瀬戸際に立たされたキューバ危機を、現場の司令官として冷静に乗り切った男。
年老いた元帥は、その身にソビエトの軍服を着ていた。顔には深いしわが刻まれ、その目は多くの死と栄光を見てきた者の静かな光を宿していた。
老いてはいても、その精気はまだ失われてはいなかった。
「用件は手短に願う、ペトロフ同志」
「その前に、人払いを」
ヴィクトルは、自らの命を懸けた、固い声で言った。
「国家の存亡に関わる話です」
ヤトフは、目の前の若者の、ただならぬ覚悟をその瞳から読み取った。
彼は何も言わず、ただ顎で合図し、副官たちを部屋から下がらせた。
重い扉が閉まり、二人だけの静寂が訪れる。
ヴィクトルは、話し始めた。
「おやめください、元帥」
その声は、震えてはいなかった。ただ、痛切な願いが込められていた。
「あなたが同志たちと行おうとしていることは、この国を、もはや後戻りできない場所へと突き落とします」
軍部がクーデター用に極秘に動かしている物資と人員のリスト。エリツォン派としてモスクワで築いた人脈から得た、軍内部の不穏な動き。そして、陰で彼を支えるレニングラード派からの精密な情報。
それら全てを総合し、彼はヤトフたちがゴルバノフを排除し、武力で国家の統一を維持しようとする計画に気づいていた。
ヤトフは、深くかぶった制帽のつばに指をかけ、その表情を隠した。
長い沈黙の後、絞り出すような声が聞こえた。
「……では、黙って祖国が引き裂かれるのを、見ていろと?」
その声には、かつて軍を叱咤したような迫力はなく、ただどうしようもない現実の前に立ち尽くす、老人の力ない響きがあった。
「そうではありません。そうではないのです、元帥」
ヴィクトルは、必死に語り始めた。
「もはや、力では押しとどめられません。軍は、いえ、あなたの指揮下にあるはずの直轄師団ですら、兵士たちの心は、もうモスクワから離れているのです」
「君は、我々軍を侮ると?」
老元帥の声に、抑えきれない怒りが混じった。
彼の誇りである直轄師団、独ソ戦の栄光を受け継ぐ精鋭たちが、ただの腐敗した兵士の集まりだと、目の前の若僧は言いたいのかと。
だが、ヴィクトルは静かに首を振った。
「いえ、違います。侮っているからではありません。誰よりも、信じているからです」
彼は、ヤトフの怒りに燃える瞳を、恐れることなく見つめ返した。
「ソビエトの軍は、人民の盾です。建国のその日から、常にそうでした。そして、盾だからこそ、撃てないのです。元帥」
その言葉に、ヤトフは息を呑んだ。ヴィクトルは続けた。
「あなたの命令一下、師団はモスクワを制圧するでしょう。ですが、その後はどうなりますか?
バルト三国で、ウクライナで、そして我がロシアの炭鉱で、独立を叫び、ストライキを行う人民に、兵士たちは銃を向けられますか?」
ヴィクトルの声が、静かな謁見室に響く。
「兵士たちも人民の子です。彼らが銃口の先に見るのは、抽象的な『反乱分子』ではありません。自分たちと同じ言葉を話し、同じパンを食べる、同胞の姿です。
彼らは撃てない。そして、もし一部が撃ったとしても、他の部隊は命令を拒否し、軍は内側から崩壊します。
それはクーデターの成功ではなく、国を焼き尽くす内戦の始まりです」
盾が、守るべき民を攻撃した瞬間、ただの鉄屑と化す。
ヴィクトルの言葉は、その冷徹な真理を、老元帥の心に突きつけていた。
「元帥。あなたは祖国のため、その半生を戦場で過ごしてこられた。そのあなたの最後の戦いが、人民の盾に、人民そのものを撃たせることであって、本当によろしいのですか」
しばしの沈黙の後、ヤトフはかすれた声で呟いた。
「……私は、遅かったということかね」
ヴィクトルの言葉が突きつけた冷徹な現実を、ヤトフは受け入れようとしていた。
あるいは、心の奥底ではずっと前から理解していたのかもしれない。武力という最後の手段が、もはや機能しないことを。
老元帥は、長く、そして重い息をそっと吐いた。
「いえ、まだです元帥。まだ祖国は、明日を繋ぐことができます」
ヴィクトルは、力強く言った。だが、ヤトフは静かに首を振った。
「家を分かつ先にあるのは、祖国ではない。ロシアだ」
その声には、深い哀しみが滲んでいた。
「ペトロフ君。私は、ソビエトの軍人なのだよ」
彼は、ゆっくりと自らの手を握った。そこには、独ソ戦の折に負った古傷が、消えない歴史として刻まれていた。
彼が命を懸けて守ってきたのは、十五の共和国が一つの家族として暮らす、偉大なるソビエト連邦だった。
その家が分かれるというのなら、もはや彼が守るべき祖国は存在しないのだ。
だが、彼はただの夢想家ではなかった。絶望的な状況の中で最善手を探す、現実主義の軍人だった。
「……だが、君の言うこともわかる。君は、何も持たずに私のもとへ来たわけではあるまい」
ヴィクトルは、力強く頷いた。
「元帥。ご納得はいただけないでしょう。ですが、たとえ祖国が分かたれても、我々は生きていかねばなりません。我々の子供たちのために、未来を遺さねばなりません」
ヴィクトルは鞄から、数枚の書類を取り出した。それは、彼がこの数週間、寝る間も惜しんで練り上げた、最後の希望だった。
「お読みください。これが私の考える、『連邦再編計画』です」
それは、クーデターという破滅的な外科手術ではなく、巨大な国家を可能な限り穏便に、そしてロシアの国益を最大限に守りながら解体・再編するための、冷徹で、しかし現実的な設計図だった。
ヤトフは、黙ってヴィクトルの差し出した書類を読み下した。その顔からは表情が消え、老元帥の内心をうかがい知ることはできなかった。
ヴィクトルは、ただ息を詰めて、その審判を待っていた。
やがて、ヤトフはゆっくりと書類を机に置いた。
怒りはなかった。だが、その代わりに、深い、そして凍るような呟きが漏れた。
「……悪辣だな」
ヤトフは、ヴィクトルを見た。その目は、憐れみと、そしてある種の畏敬が混じっていた。
「KGBの同志がこれを見たら、即決で君は殺されるだろうな」
老元帥は、そっと目をつむった。
彼の信じる偉大なるソビエトが、見るも無残に解体され、その資産と権利が冷徹な計算のもとに分配されていく未来。
その可能性が、数枚の紙の上に、明確に示されていた。
「温厚な終わりなどないと、そう言いたいのかね、ペトロフ君」
それは皮肉ではなく、ただの確認だった。
「まだ各共和国にソビエトを紡ぐ意思があるならば、この手法だけが、かろうじてソビエトを紡ぎます」
それが我々にできる、唯一の譲歩なのだと、ヴィクトルはそう言った。
ヤトフは、再び書類に目を落とした。
そこには、来るべき新連邦条約の批准会議での、詳細なシミュレーションが記されていた。
そして、そのシナリオは、ヤトフ自身にも重要な役割を求めていた。軍部のトップとして、批准会議で強硬な発言をすること。
「君は、私に道化になれと? 哀れなソビエトの統一を維持しろと脅し文句を吐きながら、会場中の人間から嫌悪される振る舞いをしろと、そう言うのか」
だが、ヴィクトルは強く首を振った。
「違います、元帥。絶対的な守護者が、その権威を盾に党を脅せば、各共和国は『ロシアの軍事的脅威』を口実に、むしろ喜んで連邦から逃げるでしょう。それでは、彼らの心に言い訳を許すことになります」
ヴィクトルは、わずかに目をつり上げて告げた。その瞳には、アレクサンドロフから受け継いだ、冷徹な策謀家の光が宿っていた。
「与えるのではなく、彼らに決断させるのです。
援助も、安全保障も、全ては新たな連邦に残るという『選択』をした者だけに与えられると。
ほんのわずかでも連邦に留まる意欲があるならば、共和国は残るかもしれません。だが、独立を選ぶなら、その代償も全て自らで払わせるのです」
脅して縛り付けるのではない。突き放し、自己責任を問うのだ。
ヤトフは、もはや何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと立ち上がり、謁見室の窓辺へと歩いて行った。そして、天を仰ぐように、一度、長く息をついた。
彼の視線の先、中庭を巡回する衛兵の姿があった。彼の誇りである、クレムリン直轄連隊の兵士。
その兵士が履く、黒く磨き上げられているはずの長靴が、ひどく汚れていた。
それが、答えだった。
規律の象徴であるはずの軍靴にさえ、国家の崩壊は、もう隠しようもなく現れている。
老元帥は、もはや振り返らなかった。
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