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餞別は、灰と覚悟

月日が流れた。ヴィクトルは、うまくやっていた。


レニングラードに赴任してから四年、彼の名は党中央にも聞こえ始めていた。

彼が管理する市場経済実験区画は、数々の失敗を乗り越え、今や目に見える成果を生み出していた。

そこでは人々が創意工夫を凝らし、モスクワの指令なしに富が生まれ、ささやかながらも確かな活気があった。

彼の実績は、誰にも否定できない形で積み重なっていたのだ。


そう、成果は出ていた。だが、この処方箋を瀕死の祖国全体に適用する時間は、果たして残されているのだろうか?


風の噂は、日に日に悪化していた。

軍は飢え、最新鋭の兵器を維持できず、兵士たちの規律は緩みきっている。地方の官僚は不正に走り、国家の資産を己の懐に入れている。

レニングラードはまだマシだったが、西へ目を向ければ、バルト三国やウクライナでは民衆騒乱が頻発し、独立を求める声が日増しに大きくなっていると、確度の高い情報が彼の耳にも届いていた。

時計の針は、破局に向かって容赦なく進んでいた。


1990年、秋。

ヴィクトルが、急進的な”ショック療法”ではなく、段階的で現実的な全国への経済改革適用案をまとめつつあった、その時だった。

彼の執務室の黒電話が、けたたましく鳴り響いた。


受話器の向こうから聞こえてきたのは、忘れようもない、あの雷鳴のような声だった。ボリス・エリツォン。

今やロシア共和国最高会議議長として、ゴルバノフと国家の覇権を争う風雲児となっていた。


「ヴィクトルか。俺だ」


その声は、命令的で、有無を言わさぬ力強さを持っていた。


「モスクワに来い。今すぐだ。お前の力が必要だ」


栄光への誘いだった。スヴェルドロフスクで交わされた約束が、今、最高の形で果たされようとしていた。誰もがそう思うだろう。


だが、ヴィクトルは気づいてしまった。


電話越しですら、エリツォンの声が奇妙によどんでいたことに。言葉の一つ一つに、ねっとりとした何かが絡みついている。

それは彼が知っている、あの豪快で、多少の不正も飲み込みながら前へ進む剛毅な男の声とは、かけ離れていた。

野心と権力闘争、そしておそらくはウォッカが、あの偉大な熊のような男の魂を、既に蝕み始めているのではないか。


ヴィクトルは、受話器を握りしめながら、これから自分が飛び込むことになるであろうモスクワの暗い渦を、予感していた。



一週間後、ヴィクトルは一人、執務室のランプの明かりの下で、膨大な資料を整理していた。

レニングラードで過ごした数年間で彼がまとめ上げた、市場経済の分析、改革案の草稿、そして数々の失敗の記録。それは、彼がこの革命の都市で生きた証そのものだった。


明日、彼はモスクワへ発つ。

静かに、しかし確かに知的な情熱を燃やし続けたこのレニングラード支部に、彼は心の中で別れを告げた。ここでの日々がなければ、今の自分はなかっただろう。


その時、静かにドアが開き、アレクサンドロフが入ってきた。

その手には、彼がいつも持ち歩いている革の鞄ではなく、一冊の薄いファイルが握られていた。


「餞別だ、ペトロフ君」


老官僚は多くを語らず、そのファイルをヴィクトルの机に置いた。

「宿舎で読め。そして、朝にはすぐに燃やせ」


ヴィクトルは、黙ってファイルを受け取った。何の変哲もない、ただのボール紙の表紙。

だが、その中身に目を通した瞬間、彼は思わず息を呑み、そして目を見開いた。


そこに記されていたのは、経済論文ではなかった。

それは、現在のモスクワの情勢を記した、極めて緻密な内部報告書だった。

主要な政治局員や官僚たちの人物関係、誰が誰の派閥に属し、最近の会議で誰が誰に屈服したか。

そして、想定と断りつつも、生々しい数字と共に記された不正蓄財の情報。

それは、まさに機微情報の塊だった。


こんなものがKGBに見つかれば、ただでは済まない。

反国家的陰謀を企てたとして、アレクサンドロフも、そしてこれを受け取った自分も、シベリアの強制収容所送りになるか、あるいはルビャンカの地下で消されるか。


「我々レニングラード派が、長年かけて集めた情報だ」

アレクサンドロフは、まるで天気の話でもするかのように、平然と言った。

「モスクワは、我々が思っている以上に腐敗が進んでいる。そして、エリツォン君も、その渦の中で決して無傷ではいられないだろう」


彼はヴィクトルの肩に手を置いた。


「君は、ただの経済官僚として呼ばれたのではない。あの巨大な魔窟の中で、エリツォン君を支え、時には彼を正し、そして我々が目指す改革の火種を守り抜くために行くのだ。

そのためには、武器がいる。これが、我々が君に渡せる、唯一の武器だ」


ヴィクトルは、ファイルの重さが、物理的な重さ以上に、彼の両肩にのしかかるのを感じていた。

それは、レニングラード派の長年の執念と、そして祖国の未来を託された者の、あまりにも重い責任の重さだった。


ヴィクトルは、アレクサンドロフの揺るぎない瞳をまっすぐに見つめ返した。ファイルの重みが、彼の掌に食い込むようだ。


「アレクサンドロフ同志。なぜ、そこまで私に入れ込むのですか」


その問いは、静かだが、部屋の空気を切り裂くような鋭さを持っていた。


「私がこの資料を手に、KGBの同志のもとへ駆け込むとはお思いにならないのですか。そうすれば、あなたのキャリアどころか、命も……」


アレクサンドロフは答えなかった。ただ、ゆっくりと一本のタバコを取り出すと、その先端を歯で噛み切り、慣れた手つきで火をつけた。

紫煙が、彼の年輪の刻まれた顔を曖昧に覆う。


「君がそれをすれば」アレクサンドロフは、煙を吐き出しながら言った。「おそらく、祖国は終わるだろうな」


その声には、諦めと、しかし一条の光を探すような響きがあった。


「いや、もう手遅れなのかもしれない。だが……まだ、可能性はある」


彼はタバコを灰皿に置き、ヴィクトルの瞳を正面から見据えた。その瞳の奥で、長年凍てついていた記憶が、熱い溶岩のように蘇っていた。


「私の家族はな、ヴィクトル君。東カレリアの”収容所”で死んだ。この私の目の前で、“フィンランド人”に殺されたよ。1943年、純化のために連中が作った、あの収容所でな」

その声は、淡々としていた。だが、その静けさこそが、彼の絶望の深さを物語っていた。


「奴らは、笑っていた。飢えて骨と皮だけになった私たちを、汚い物のように足蹴にしながらな。だから私は西側が、あのくずどもが心の底から憎い。今でもだ。だがな……」


アレクサンドロフの瞳に、激しい怒りの炎が宿った。それは、ヴィクトルが今まで見たこともない、全てを焼き尽くすような憎悪の炎だった。


「我々が命をかけて守ってきたこの国を、内側から腐らせようとするモスクワの屑どもは、奴らと同様に憎いんだ!」


彼の声が、執務室に響き渡った。


「この命を捨ててでもな、連中を引きずり下ろし、この国を立て直す。そのためならば……」


彼はそこで言葉を切り、ふっと自嘲するように笑った。


「この命を失っても、惜しくはない」


その言葉を聞いた瞬間、ヴィクトルの心にあった最後の疑念は消え去った。

アレクサンドロフが彼に託したのは、単なる情報や派閥の未来ではなかった。

それは、戦争の地獄を生き延びた一人の男の、復讐であり、祈りであり、そして祖国への絶望的なまでの愛だったのだ。


その夜、ヴィクトルは宿舎の部屋に戻り、鍵をかけた。

そして、ランプの揺れる光の下、アレクサンドロフから託されたファイルを、まさしく決死の覚悟で読み込んだ。

一枚一枚のページに記された、モスクワの権力者たちの腐敗と裏切り。それは、ただの情報ではなかった。祖国を蝕む癌細胞の、詳細なカルテだった。

これを持ち出すことは不可能だ。脳に焼き付けるしかない。


これは、あの老人の狂気か、それとも最後の正気か。ヴィクトルには分からなかった。

だが、アレクサンドロフの魂から放たれた熱は、既にヴィクトルにとりついていた。

彼はページをめくる指が止まらなくなるのを自覚した。夜が更けるのも忘れ、全ての相関図、全ての数字、全ての名前を、自らの記憶という名の金庫に叩き込んでいく。


夜が明け、最初の陽光がレニングラードの空を白ませ始めた頃、ヴィクトルは宿舎の裏庭にいた。

アレクサンドロフに言われた通り、ブリキのバケツの中で、ファイルの中身を一枚、また一枚と燃やしていく。

昨夜、彼の脳を焼いた機密情報が、赤い炎を上げて灰に変わっていくのを、彼は無表情で見つめていた。

全てを燃やし尽くした時、彼の心にあった迷いは、その灰と共に風に消えていた。


フィンランド駅のプラットフォームは、朝の喧騒に包まれていた。

ヴィクトルがホームに駆け込むと、そこには見慣れた顔があった。アレクサンドロフと、ここ数年、彼と共に市場実験を戦い抜いた数人の局員たちが、見送りに来ていたのだ。


言葉は少なかった。

「頼んだぞ、ペトロフ君」

アレクサンドロフが、節くれだった手でヴィクトルの手を強く握る。その瞳が、全てを語っていた。

同僚たちも次々と、固い握手と、万感の思いを込めた短い言葉をかけてくる。

それは、単なる同僚の栄転を祝うものではなかった。同じ志を持つ戦友を、最大の決戦地へと送り出す、厳粛な儀式だった。


汽笛が鳴り、列車はゆっくりと動き出す。

窓の外で、遠ざかっていくアレクサンドロフたちの姿に、ヴィクトルは深く頭を下げた。


数年前、彼は希望と不安を胸に、このレニングラードへやってきた。

そして今、彼は武器と覚悟を手に、モスクワへと向かう。


目的は、もはや出世ではない。


祖国を、この手で立て直すのだ。


列車が加速していく。彼の瞳には、これから始まる戦いの炎が、静かに、しかし激しく燃え上がっていた。


今回の話に出てきた継続戦争におけるフィンランドの強制収容所の話は、日本語資料で追跡することは難しいですが、歴然とした史実となります(日本語資料だと成蹊大学くらいしかヒットしない)。

大フィンランド主義に基づいた純化運動により、劣悪な環境に置かれたソ連系民間人がフィンランド側の公的認定で4000人以上餓死・病死しています(収容人数の18%)。過去、ロシアーフィンランド間は外交でここら辺もめています。


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