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砂漠の嵐 -13:国防省

冷たいコンクリートの床に崩れ落ちたヴィタリーの視界に、泥に汚れた数足の実用靴が現れた。彼は、安堵の溜息をつく間もなく、両脇を鋼鉄のような腕で抱えられ、物のような扱いで乱暴に引きずり起こされた。


「……」


目の前に立っていたのは、油にまみれた鉄道員の作業着を着てはいるが、その鋭い眼光と隙のない立ち居振る舞いが、隠しようもなく軍人であることを示している男たちだった。GRUの回収班。彼らは、死線を潜り抜けてきたヴィタリーに対し、労う言葉一つかけなかった。彼らにとって、ヴィタリーは同志ではなく、任務の一部品に過ぎない。


「ブツは」


指揮官とおぼしき男が、短く手を差し出す。ヴィタリーは、痙攣する手で懐から封筒を取り出し、男の分厚い手のひらに叩きつけた。体温と脂汗で湿り、皺だらけになった、イラン大使館の封筒。


指揮官は中身を一瞥した。封筒の裏、紋章の脇に小さく記された隠しサインを確認する。その無表情な顔に、一瞬だけ、安堵とも勝利ともつかない、微かな緩みが生じた。


「確認した。本物だ」


指揮官は封筒を懐にしまうと、すぐに鋭い視線を部下たちに送った。


「移動するぞ。ここもすぐに嗅ぎつけられる」


ヴィタリーの膝が笑った。緊張の糸が切れ、意識が飛びかけ、その場にへたり込みそうになる。任務は終わったはずだ。もう、眠らせてくれ。泥のように。


だが、護衛たちは彼を休ませなかった。ガシッ、と両脇を固められ、彼は半ば引きずられるようにして歩かされた。表の鉄扉を、KGBが破ろうとしてガンガンと叩く音が響く。あのトラックの運転手が稼いだ時間も含めて、あと数分も持たない。ここはもう、安全地帯ではない。この倉庫の奥には、モスクワの地下水路へと続く隠し通路がある。ブリーフィングで叩き込まれた脱出経路だ。


「しっかりしろ、ヴィタリー」


指揮官が、冷たく、しかし同じ組織に属する者としての最低限の響きを持って言った。


「寝るのはまだ早い。お前も『証拠物件』だ。KGBにくれてやるわけにはいかん」


ヴィタリーの視界が、疲労で白く滲む。そうだ。自分が捕まれば、この封筒の中身が何であったか、KGBに自白させられることになる。自分は英雄ではない。消し去らねばならない、生きた痕跡なのだ。


彼の身体は、護衛たちという肉の壁に囲まれ、強制的に暗闇の奥へと進められていく。手の中から、「建前」と「実利」を記した封筒は消えた。国家の運命は、彼の手を離れ、将校の懐へと移った。


だが、彼自身の地獄は、まだ終わらない。名もなき運び屋は、意識を失うことすら許されず、再びモスクワの地下の闇深くへと、足を引きずりながら消えていった。




数時間後、国防省の要塞のような執務室。重厚なカーテンは閉ざされ、卓上の緑色のシェードランプだけが、書類を持つヤトフ元帥の手元を孤立した島のように照らしていた。


ヤトフは、ヴィタリーという名の諜報員が、文字通り命を削って運び込んだ、その薄い紙切れを、無言で見つめていた。イランからの、極めて曖昧で、しかし十分すぎる「回答」。それは、ソビエト連邦という巨人が、中東という火薬庫にマッチを投げ込むための、最後の通行手形だった。


(KGBは、嗅ぎつけている)


ヤトフは、窓の外、闇に沈むモスクワの街を睨んだ。ルビャンカの連中は、我々を疑っている。GRUの不穏な動き、イランとの接触、公園での騒ぎ。彼らのアンテナはまだ錆びついてはいない。だが、彼らはここ——国防省の聖域には踏み込めない。


(彼らは、もはやスターリンの猟犬ではない)


ヤトフは、口の端をわずかに歪めた。かつての内務人民委員部ならば、証拠などなくとも元帥の襟首を掴み、地下室で銃殺できただろう。だが、今のKGBは違う。彼らは官僚化し、そして何より、ゴルバノフの優柔不断な統治下で牙を抜かれている。


この壊れかけた国で、数百万の兵士を束ねる現役の国防大臣を、明確な物的証拠もなく「反逆罪」で拘束すればどうなるか。軍は分裂し、モスクワ市街で戦車戦が始まるだろう。それは国家の即死を意味する。KGBも、ゴルバノフ書記長も、その破滅的な「内戦」のリスクを冒す度胸はない。彼らは「法と秩序」という建前に縛られ、自縄自縛に陥っている。


皮肉なことに、国家の統治機能の不全が、ヤトフのこの「反乱」を守る最強の盾となっていた。つまり、あとは彼の決断一つだった。


「……」


ヤトフは、ゆっくりと軍帽を脱ぎ、机の上に置いた。そして、深く刻まれた皺のある額に、大きな掌を当てた。その掌は、死体のように冷たかった。


(演習名目で、イラン国境に軍を集結させる。そしてその混乱に乗じて、イラク国内へ精鋭を送り込む)


将来、歴史書には「砂漠の嵐作戦」と記されることになるであろう、多国籍軍によるクウェート解放戦争。そこに、ソ連軍が秘密裏に介入し、NATO軍の一個大隊を、物理的に消し去る。


(……狂っている)


ヤトフは、自らの思考に呻いた。これがベトナム戦争の頃であれば、ありふれた「軍事顧問団」の業務だったかもしれない。あの頃、祖国は強く、アメリカと対等に世界を二分していた。ジャングルで米兵を狙撃しようが、空でファントムを撃ち落とそうが、それは「超大国の代理戦争」という、阿吽の呼吸の中で許された遊戯だった。


だが、今は違う。祖国は瀕死だ。経済は破綻し、政治は麻痺している。そんな崩壊寸前の国で、最高指導者の統制を破り、軍部が独断で、世界最強の軍隊に喧嘩を売る。それは、軍事作戦ではない。国家という名のチップをテーブルに叩きつける、破滅的なロシアン・ルーレットだ。


彼の心は、鉛を飲み込んだような重い疲弊を感じていた。もし失敗すれば、自分は祖国を第三次世界大戦に引きずり込んだ狂人として、歴史に名を残すだろう。


だが。ヤトフの脳裏に、ヴィクトル・ペトロフの容赦のない言葉が蘇る。


『石油価格が下がれば、軍は死にます』『兵器の価値を示さなければ、我々は銭失いの烙印を押されます』


そうだ。やらなければ、座して死ぬだけだ。誇り高き赤軍が、戦わずして飢え、装備を錆びつかせ、内側から腐り落ちていくのを、ただ指をくわえて見ていることなど、この老兵には耐えられなかった。戦場で死ぬことよりも、無為に朽ちることこそが、軍人にとっての地獄なのだ。


ヤトフは、額から手を離した。その瞳から、迷いの色は消えていた。あるのは、死地に向かう兵士の、静かな覚悟だけだった。


彼は受話器を取り上げた。通常の回線ではない。盗聴不可能な、地下ケーブル直結の参謀本部作戦指令室へのホットライン。


「……私だ」


声は、低く、重かった。


「『客』の準備はいいか。……ああ、そうだ。東ドイツの第4親衛戦車師団からだ。一番腕のいい連中を選べ」


ヤトフは、机上のイランからの手紙を、ライターの火で燃やした。紙がチリチリと音を立てて灰になり、灰皿の中で崩れ落ちていく。その煙は、国家への忠誠が燃え尽きる匂いがした。


「演習を開始する。派手にな」


受話器を置いた。灰皿の中で、イランからの手紙の最後の灰が、音もなく崩れた。灰色の空の下、クレムリンの主も知らぬところで、歴史の歯車が逆回転を始めた。

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