冷戦の終わり、祖国の始まり
ジュネーブ、国連欧州本部地下会議室。1991年12月21日、午前4時。
部屋の空気は、疲労とニコチンの匂いで淀んでいた。もはや誰も時計を見ていない。交渉は三十時間を超え、同じ論点が亡霊のようにテーブルの上をさまよっていた。
「これが最後通牒だ、ペトロフ氏」
アメリカ国務次官、ロバート・フィッシャーが、乾ききった声で言った。彼の顔には、このマラソン交渉を主導してきた自負と、目の前の男を崩せない焦りが浮かんでいる。
「IMFの勧告を受け入れ、急進的な市場改革を実行する。それが、G7からの本格的な金融支援の絶対条件だ。イエスか、ノーか」
ヴィクトルは、黙ってフィッシャーの目を見つめ返した。彼の脳は、四十八時間近くまともに眠っていないにもかかわらず、高熱の機械のように回転を続けていた。
(…ここまでか)
彼がこの数年間、レニングラードで練り上げ、モスクワで命がけで守ってきた「段階的市場移行」という国家再建の設計図。それを、今ここで手放せと彼らは言う。その見返りは、西側のルールに従属するという名の、屈辱的な首輪だった。
議論は、平行線のままだった。経済は譲歩しない。絶対にだ。だが、このままでは決裂する。決裂すれば、支援はなく、ロシアは破産する。その未来は避けねばならない。
彼はゆっくりと目を閉じた。 脳裏に、師であるアレクサンドロフと二人だけで交わした、最後の密議が蘇る。 誰にも、ヤトフ元帥にさえ明かしていなかった、最後のカード。
東ドイツ駐留ソ連軍。かつてワルシャワ条約機構の要としてNATOと対峙した、数十万の兵力と数万の戦車。その栄光の軍団を、どうするのか。ヤトフは、その段階的な縮小と本国への帰還を主張していた。国家の威信として。
だが、ヴィクトルとアレクサンドロフが弾き出した数字は、非情な現実を突きつけていた。 東ドイツ駐留軍は、もはや栄光の残骸でしかない。その装備のほとんどは旧式化し、維持費だけで国家財政を食い潰す癌だ。本国に帰還させても、彼らのための仕事も、住居もない。維持ができず飢えた元兵士が、混乱する国内に放たれるだけだ。
ここまで軍を縮小してもなおコストが、飲めないのだ。 初めから、ロシアに彼らを引き継ぐ選択肢などなかった。ヴィクトルは、いずれあの軍団を大幅に縮小し、人件費を抑えた軽装甲師団へと再編するつもりだった。それは、西側との交渉カードですらなかった。ロシアが生き延びるための、内部的な、必然の決定だった。
ヴィクトルは、目を開けた。その瞳に、もはや迷いはなかった。 彼は、この必然の決定を、今、最大の外交カードとして切るのだ。
「フィッシャーさん。そして、皆様」
ヴィクトルの静かな声が、部屋の澱んだ空気を切り裂いた。
「まず、一点だけ明確にさせていただきます。我が国の経済をどう運営するか。その主権は、我々ロシアが決める。これは交渉の対象ではありません」
フィッシャーの顔が、怒りで赤く染まった。だが、ヴィクトルは構わず続けた。
「ですが、あなた方の懸念も理解できる。我々が、本当に『変わる』のかどうか、その証拠が欲しいのでしょう」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。その姿には、疲労の色はなかった。
「よろしい。ならば我々は、あなた方が求める以上のものを差し出しましょう。経済ではなく、軍事においてです」
G7のシェルパたちが、一斉に顔を上げた。
「我々は、ヨーロッパにおける通常戦力の削減を、さらに進めます。現在東ドイツに駐留するソ連軍、その全ての重装備を、ロシア本土に引き上げることはしない。現地で廃棄、あるいは第三国へ売却します。そして、帰還する兵員は、国防に必要な最低限の軽装部隊へと再編する。これは、CFE条約(ヨーロッパ通常戦力条約)が定めた上限を、さらに大きく下回る水準です」
部屋は、死体安置所のような静寂に包まれた。誰もが、ヴィクトルの言葉の意味を測りかねていた。それは、事実上の武装解除宣言に等しい。
「そして、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンに残された核兵器。それらは、彼らの主権下から完全に切り離し、ロシア、アメリカ、そして欧州の共同管理下に置く。廃棄までの全てのプロセスは、あなた方の監視団に公開する」
ヴィクトルは、一人一人の顔を順番に見つめた。
「新しいロシアの国益は、国境に並ぶ戦車の数では測れません。それは、国民の生活の豊かさによって測られるべきです。我々は、自らの意思で、大砲をバターに換える。これが、我々の『変わる』という意思表示です。これ以上の担保が、必要でしょうか」
長い、長い沈黙の後、フィッシャーが、かすれた声で呟いた。
「…なぜだ。なぜ、そこまで…」
「申し上げたはずです」
ヴィクトルは、静かに答えた。
「我々は、あなた方のパートナーになりたい。脅威ではなく。そのための、誠意です」
フィッシャーは、他の四人を見渡した。ドイツのヴェーバーが、フランスのデュポンが、イギリスのハミルトンが、そして日本の田中が、ゆっくりと、しかし確かに頷くのが見えた。 彼らは、望んでいた以上のものを手に入れたのだ。冷戦の象徴だったソ連軍の、事実上の解体を。
フィッシャーは、天を仰ぎ、深く息を吐いた。そして、ヴィクトルに向き直る。
「…分かった。経済計画については、あなたの国の自主性を尊重しよう。その代わり、軍縮と核管理の履行は、厳格に、そして即時に実行していただく」
「お約束します」
ヴィクトルは、静かに席に着いた。 彼は勝った。だが、その勝利の味は、灰のようにひどく乾いていた。自らが差し出した生贄の重さを、彼だけが知っていた。
ジュネーブ、ロシア代表部の一室。1991年12月21日、午前6時。
窓の外が、ようやく白み始めていた。歴史的な合意は、インクの匂いも生々しい仮調印の文書として、今はヴィクトルの鞄の中に眠っている。だが、その勝利の味は、ひどく苦く、喉を潤しはしなかった。
「チェルノフ」
控室のソファに深く身を沈めたまま、ヴィクトルは腹心の部下を呼んだ。疲労で声がかすれている。
「アルドナ・ヴァレリエヴナをここに。誰にも見られぬよう、静かにな」
「はっ」
チェルノフが音もなく下がる。ヴィクトルは、指先でこめかみを強く押した。 GRUの情報網は、彼女のここ数日の動きを正確に捉えていた。代表部の電話を避け、公衆電話からヴィリニュスの旧知の外交官と、短い会話を繰り返している。彼女が、いまだリトアニアの未来を深く憂い、情報を集めていることを、ヴィクトルは知っていた。
その愛国心に触れるつもりはない。それは、彼女という人間を形成する核であり、彼が尊敬する部分ですらあった。だが、今はその核が持つ情報が必要だった。
やがて、静かにドアが開き、アルドナが入ってきた。彼女の顔にも、このジュネーブでの激動の日々が刻んだ疲労の色が濃かった。
「お呼びでしょうか、ヴィクトル・パーヴロヴィチ」
その声は、彼の私的な法律顧問として、事務的だったが、かすかに信頼を感じさせた。
「座ってください」
ヴィクトルは、向かいの椅子を顎で示した。
「君の助言がなければ、この合意はなかった。改めて礼を言わせてください。アルドナ・ヴァレリエヴナ」
「私は仕事をしたまでです」
アルドナは静かに腰を下ろした。
「ああ、それでも、です。ただ…、まだ仕事が残っています」
ヴィクトルは、身を乗り出した。
「この会議で、西側が一つだけ、最後まで巧みにはぐらかし続けた議題がありました」
アルドナの瞳が、わずかに揺れた。ヴィクトルは、その微かな動揺を見逃さなかった。
「バルト三国の、将来的な安全保障についてです。私が何度水を向けても、フィッシャーも、他の連中も、決まって曖昧な外交辞令の霧の中に逃げ込んだ。彼らは何かを隠している。そして、その答えを知っているのは、おそらくバルト三国の政府だけだ」
ヴィクトルは、彼女の目をまっすぐに見た。要求ではない。問いかけだった。
「君は、何か聞いていませんか。リトアニアの同僚たちから」
アルドナは、テーブルの上で固く指を組んだ。長い沈黙が落ちる。彼女の唇が、ためらいに固く結ばれている。ヴィクトルは、ただ待った。彼女が、自らの意思でその唇を開くのを。
「…公式なものでは、ありません」
やがて、彼女は絞り出すように言った。
「ですが、囁きレベルの情報は。G7との事務レベル協議の中で、アメリカから非公式な『政治的保証』が提示された、と」
「保証…?」
「はい」
アルドナは頷いた。
「将来的なNATOへの加盟を協議する『扉』は、常に開かれている、と。それは、今回のロシアとの合意とは全く別の、水面下の約束です。彼らは、ロシアの軍事的脅威が完全に去るまで、我々を西側陣営に繋ぎ止めておくための、保険をかけたのです」
ヴィクトルの表情は、変わらなかった。だが、その瞳の奥で、何かが絶対零度まで凍りついた。
やはりか。 彼らが語った『パートナーシップ』も、『新しい時代』も、全ては偽善だった。彼らは、ロシアの軍縮と経済的譲歩という実利を最大限に引き出しながら、その裏では、ロシアを封じ込めるための次の一手を、すでに打ち始めていたのだ。
「そう、ですか」
ヴィクトルは、短く呟いた。それは、落胆か。怒りか。感情が消え失せた声だった。
「情報に感謝します。助かりました」
彼は立ち上がり、アルドナに深く頭を下げた。その丁寧な仕草に、彼女は戸惑ったような表情を見せた。
「下がって、休んでください。少しだけ、一人で考えたい」
アルドナは何も言わず、静かに一礼して部屋を出ていった。 一人残されたヴィクトルは、ゆっくりと窓辺へ歩み寄る。
ジュネーブの夜明け。レマン湖の向こう、雪を頂いたアルプスの山々が、朝日で薔薇色に染まり始めていた。世界は、冷戦の終わりを祝福する、美しい夜明けを迎えている。
だが、その美しい風景の裏で、新たな、そしてより冷たい戦いの火種が、すでに静かに燻り始めていた。 ヴィクトルは、その火種を、ただ一人見つめていた。
ジュネーブ、パレ・デ・ナシオン。1991年12月21日、正午。
百年分の歴史の重みが染み込んだ大ホールは、静まり返っていた。テレビカメラの無機質なレンズと、世界中の外交団の息詰まるような視線が、中央に設えられたマホガニーのテーブル、その一点に注がれている。
ボリス・エリツォンが、G7首脳と並んで席に着き、差し出された万年筆を手に取った。その太い指が、分厚い合意文書の最後のページに、ロシア連邦の未来を刻む署名を記していく。フラッシュが一斉に焚かれ、歴史が固定される。
ホールの後方、壁際の影の中で、ヴィクトルはその光景をただ無表情に見つめていた。 拍手が、嵐のように湧き起こる。エリツォンは立ち上がり、アメリカ大統領と固い握手を交わす。新しい時代のパートナーシップ。冷戦の終結。世界は、この歴史的な和解を祝福していた。
だが、ヴィクトルだけが、その祝福の裏にある真実を知っていた。 この合意文書に記された、ロシア側の「誠意」。東ドイツ駐留軍の大幅な削減と重装備の放棄。ウクライナに残された核兵器の、西側との共同管理。それは、この表舞台では決して語られることのない、血を吐くような外交交渉の末に、彼が差し出した生贄だった。
(譲歩ではない…)
ヴィクトルは、心の内で呟いた。
(初めから、捨てるしかなかった札だ)
東ドイツ駐留軍は、もはや国家財政を食い潰す癌でしかなかった。彼は、いずれにせよ切り捨てるしかなかった腕を、あたかも最大の譲歩であるかのように見せかけ、西側から経済支援という名の輸血を引き出したに過ぎない。
そして、核。 ウクライナの核は、彼らにとっては独立の象徴であると同時に、手に余る爆弾だった。その管理責任と廃棄コストを、西側と「割り勘」にする。その代わりに、ロシアは戦略的な緩衝地帯と、将来的な影響力を手放した。
全ては、計算ずくだった。この国の破産を回避し、生き延びるための、冷徹な勘定。
だが。 一つだけ、計算外のことがあった。
ヴィクトルは、アメリカ大統領の隣で満面の笑みを浮かべるフィッシャーの顔を、何の感情も浮かべない瞳で見つめていた。あの男は、最後までNATOの東方拡大について、言質を与えなかった。それは、この合意文書のどこにも記されていない、水面下の裏切り。
いつ、その裏切りが牙を剥くかは知らない。我々が、再び立ち上がるまで、彼らがその約束を守るとも限らない。
譲るものか。
その瞬間、ヴィクトルの心の中で、静かだが、決して消えない炎が燃え上がった。それは、怒りだった。
身勝手な怒りだろう、と彼は思う。西側にも立場があり、国益がある。そして、ヴィクトル自身も、アルドナの、クラフチェンコの、名もなき無数の人々の願いを踏みにじってきた。その手は、決して綺麗ではない。
だが、それでも、だ。 譲れないのだ。
この国を、決して彼らの言いなりにはさせない。 たとえ、この身から肉が削がれ、腕を切り落とされようとも、生きていく。 生きて、生き抜いて、いつか必ず、この屈辱の勘定を清算する。
ホールは、歴史的な調印の喜びに満ちあふれていた。 だが、その光の届かない影の中で、ヴィクトル・ペトロフは、たった一人で、次の、そして本当の戦いの始まりを、静かに誓っていた。
【本作の後書き】
はい、本作はここで完結です。続けられるように書いていますが、ここで終わっても良いキリがいいところとなっています。
さて、この作品は西側ナラティブに対するアンチテーゼとして書き上げました。
ただロシアナラティブにも強力にカウンターを打ち込んでいます。
つまり誰もが、どこか納得がいかないように意図的に設定した作品でもあります。
各勢力の論理をそれぞれ相対し、あり得たかもしれない、だがあり得なかった冷戦の終わりです。
今の混迷の世界情勢につながるきっかけとなった、98年ロシアデフォルトはいろいろな理由があるのですが、ただ西側が平等なルール、市場をロシアに提示しなかったのが大きいところです。ココム(今のホワイト国などの安全保障に紐付けた管理、後継はワッセナーアレンジメント)もかなり遅く解除されていますし(ただしワッセナーアレンジメントでも相当にバランスを欠いています)。
なにより、旧ソ連の外債。これをすべて経済規模が半減したロシアの首に巻き付け、それを承認条件とした。これが、致命的でした。
※本作で債務(外債)をやたらとつついているのは、この史実があるためです。回避しなければ、破綻するのは目に見えていました。そして当時の関係者はそれを理解しており、なお強行しました。西側(IMF)も、わずか数年を生き延びるためにロシア自身も。
この作品でクラフチェンコが切れた負担比率を、史実のロシアは背負って一度倒れました。そして結果を冷笑をもって我々西側は迎えたという、どうしようもない事実があります。
その過程(1991~2001)で、250万以上の超過死亡(自殺、そして公共福祉の崩壊による死者)と、400万超えの人口減少が発生しました。
生まれた憎悪は、歴史を転換させました。
あの冷戦の終わりで、旧敵対国を助けるのは義務ではない。むしろ締め上げることこそ正義だ。これも一つの意見かと思います。
ですが、それを助けられた(あるいは拾い上げられた)側の人間が口に出すのは、私は頷くことができませんでした。
同時にそれを口に出すなら、それに起因した責任を背負うべきとも考えてしまいます。
なお、これは作者個人の歴史解釈と倫理観であって、特定の現代政権・政党への支持や、いかなる暴力を正当化する意図もありません。
では、並列連載の方もよろしくお願いいたします(._.)。




