差し出された掌
ヴィクトルは、全てを同時に動かしていた。
クレムリンの廊下を早足で歩きながら、片耳に当てた受話器ではカザフスタンとの経済共同体設立に向けた実務的な数字を詰め、もう一方の手ではウクライナへの核兵器移管に関する西側との覚書に目を通す。執務室に戻れば、ラトビアとエストニアの経済がいつ音を立てて崩壊し、ロシアに助けを求めてくるかの最新予測が待っている。 それはおそらく、常人が処理できる情報量を遥かに超える仕事量だった。
たった10年前、スヴェルドロフスクの片田舎で、朴訥としながらも国家の未来を憂いていた青年は、今やロシアという大地の底でうごめき、その巨大な体躯で歴史そのものを動かさんとする、恐るべき熊へと変貌しつつあった。
第二次ヘルシンキ会議と名付けられたリトアニアとの交渉は、激烈を極めた。
アルドナ・カヴァラウスカイトという一人の指導者の犠牲の上に成り立ったこの交渉の席で、ヴィクトルはラトビアとエストニアを完全に切り離し、リトアニアとの二国間協議に集中した。アルドナが捨てた名誉を、これ以上無駄に汚すわけにはいかない。それが、彼なりのけじめだった。
リトアニア側が突きつけてきたのは、ヴィリニュス事件におけるソビエト軍の責任問題、その一点だった。
「文民統制の原則は理解する。だが、独立紛争時の市民への発砲と死傷者の発生は、動かしがたい事実だ」
アルドナの後を継いだ、初老の現実主義者である新代表は、冷静に、しかし決して引かずに主張した。
「そして、ドミトリー・ヤトフ元帥は、当時ロシア共和国の公式な役職にはなかったかもしれない。だが、分離後の今、彼がロシアに属する重要人物であることは誰もが知っている。その公的な責任からロシアが逃れるというのなら、この交渉は成り立たない」
その言葉は、ヴィクトルの最も痛い部分を突いていた。 不誠実だ。だが、それ以上に、建国まもない国家の背骨を、根本から歪めてしまう。最初のボタンを嘘で掛け違えた国は、いずれ必ず内側から崩壊する。彼はそれを、ソビエト連邦という巨大な死体から学んでいた。
激論は数日間に及んだ。ただそこに座っているゴルバノフ書記長を尻目に当事者たちは、一文字一文字を争っていく。そして、ある深夜、ヴィクトルはついに決断を下した。彼は、リトアニア代表団の前に、一枚の紙を差し出した。それは、ロシア側からの最終提案だった。
激論の末、双方は歴史的な合意に達した。それが、この血塗られた問題の、唯一可能な落とし所となった。
第一に、並列した独立交渉の承認。リトアニアの独立は、ロシアが主導する他の12共和国の連邦からの離脱プロセスと完全に連動し、全ての共和国が独立するその日に、同時に公式承認される。これにより、リトアニアは「ソ連から分離独立した」という法的な体裁を整え、ロシアは「ソ連の解体を主導した」という政治的な主導権を確保する。
第二に、公式な謝罪と賠償。国防大臣ドミトリー・ヤトフ個人、および 形式上は未だ存続するソビエト連邦政府の名において、ヴィリニュス事件が「過大な規模の鎮圧であった」ことを公式に認め、謝罪する。賠償金の支払いに関しても、具体的な協議を開始する。
第三に、現場責任の追及。鎮圧作戦を現場で指揮した部隊長たちの行動に対し、その独断の有無と責任の所在を、国際法に準拠する形で、ロシアとリトアニアによる合同調査委員会を設置して決定する。
それは、ロシアにとって痛みを伴う譲歩だった。だが、ヴィクトルはこの譲歩によって、金では買えないものを手に入れた。 新しいロシアは、過去の罪から逃げないという、国際社会に対する静かな、しかし力強い宣言。そして、アルドナ・カヴァラウスカイトが自らの政治生命と引き換えに掴もうとした、国家としての尊厳。 彼はその両方を、この合意によって守り抜いたのだ。
交渉が終わったある日、暦は91年の12月に入ろうとしていた。外は雪が降り始め、モスクワの古い石畳の道を白く覆い始めている。
ヴィクトルは、割り当てられた宿舎から一人で出た。ぴったりと背後に張り付くGRUの護衛に、手振りだけで少し離れているよう指示し、凍てつく空気の中をただ歩く。何が正しく、何が間違っていたのか。今となっては、まるで雲を掴むような話だった。
だが、8月19日に自らが動かし始めた歴史の歯車は、軋みながらも、確かに新たな形をなしつつある。 彼はただ、歩いていた。彼が立案した新経済政策によって、まだ限定的ではあるが自由化された市場経済の中、モスクワの大通りには庶民が手作りで始めたささやかな出店が、たくましく並び始めていた。熱いピロシキを売る老婆、西側からどうやってか仕入れたタバコを並べる若者、手編みのミトンを売る母親。
(レニングラードで見た光景と同じだ)
彼は目を細めた。国家がどうなろうと、人々は生きる。その生命力は、かくも力強い。 その時、そっと、彼の傍らに立つ人の気配を感じた。護衛の兵士ではない、もっと静かで、軽い気配。 ゆっくりと、彼はそちらに目を向けた。
アルドナ・カヴァラウスカイトだった。
最後にヘルシンキで会った時よりも、少し痩せたように見えた。上等だが、着古されたコートを身にまとい、ただ静かに、彼と同じように雪が舞うモスクワの街を眺めていた。
「ご観光、ということでもないでしょうね」
ヴィクトルは、皮肉ではなく、純粋な問いとして、少しだけ微笑みながら言った。
「ええ」
アルドアは短く答えた。その声には深い疲労があった。
「観光とは、いずれ帰るべき故郷を持つ者のための贅沢です。今の私には、その資格がない」
彼女は、すべての公職を解かれ、事実上、祖国を追われたのだ。
「…なぜ、モスクワに?」
「最後くらい、見てみたいと思いまして」
彼女は、自嘲するように言った。
「私たちが、恨み、憎んだクレムリンを」
彼女は、ヴィクトルに向き直った。その瞳には、かつてのような燃える敵意はなかった。ただ、深い疲労と、全てを失った者の静かな諦観が浮かんでいた。
「それとあなたに、会いに来ました。あなたという人間を、この目でもう一度、見ておきたかった」
「見て、どうするのです」
「さあ」
と彼女は首を振った。
「分かりません。ですが、私の国も、私の人生も、あなたのその手で根こそぎ変えられてしまった。ならば、その建築家がこれから何を建てようとしているのか、知る権利くらいはあるはずです」
二人の間に、沈黙が落ちた。雪だけが、音もなく降り積もっていく。 ヴィクトルは、出店でピロシキを買い求める親子の姿に目をやった。
「あれが、答えです」
彼は、ぽつりと呟いた。
「私が建てようとしているのは、国家という名の巨大な聖堂ではない。あの親子が、明日も凍えることなく、温かいピロシキを食べられるという、ただそれだけの日常です。その土台を作るためなら、私はどんな汚い仕事もする」
「そのために、私の祖国の誇りをへし折ったと?」
「誇りでは、パンは買えませんから」
ヴィクトルの答えは、どこまでも冷徹で、そして揺るぎなかった。 アルドナは、もはや反論しなかった。彼女もまた、その冷たい真実を、自らの政治生命と引き換えに学んだのだ。
「これから、どうされるおつもりで?」
ヴィクトルは尋ねた。
「分かりません。どこかの大学で、法律でも教えることになるのかもしれません。ソビエト連邦という、滑稽で巨大な国家がいかにして法を踏みにじり崩壊したか、という講義は、きっと人気が出るでしょうね」
その言葉には、痛烈な皮肉が込められていた。だが、悪意はない。 ヴィクトルは、彼女の瞳の奥に、まだ消えない理性の光を見た。彼女は、ただの敗者ではない。全てを失ってもなお、その思考は鋭く、そして現実を見据えている。このような人間を、ただ無為に朽ち果てさせるのは、ロシアにとって損失だ。 彼は、決断した。
「アルドナ・ヴァレリエヴナ」
彼は、初めて彼女を父称で呼んだ。
「あなたに、仕事の依頼があります」
その予想外の言葉に、アルドナは驚いて目を見開いた。
「新設される、共和国間経済調整委員会。その法律顧問として、私の下で働いてはいただけないだろうか」
「…正気ですか」
アルドナは、信じられないという顔で言った。
「私を? あなたの敵を?」
「あなたは、私の敵だった。だが、今は違う」
ヴィクトルは静かに言った。
「あなたは、西側の法体系を理解し、そして何よりも、この巨大な国家が解体される痛みを、誰よりも深く知る人間だ。私がこれから作ろうとしているのは、古いロシアではない。全く新しい、法と契約に基づいた国家間の関係です。そのためには、あなたのような人間の知識と、その痛みの記憶が、どうしても必要なのです」
それは、あまりにも奇妙で、そしてあまりにも合理的な提案だった。 敵の最も有能な将を、自らの陣営に引き入れる。アルドナはヴィクトルという男の、底知れない器の大きさとその冷徹な実利主義に改めて瞠目し、同時に、惹かれるものを感じた。
「…少し、考えさせてください」
それが、彼女に言える、精一杯の答えだった。
「もちろんです」
ヴィクトルは、懐から名刺を取り出し、彼女に差し出した。
「気が向いたら、連絡を」
アルドナは、その小さな厚紙を、凍える手で受け取った。 雪は、ますます強く降り始めていた。それは、古い世界の全てを覆い隠し、新しい時代の始まりを告げる、静かで、そして容赦のない幕開けのように、二人の上に降り注いでいた。
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